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新発田城は城の北部を流れる加治川を外堀に利用した平城であり、
城の構えは本丸を中心に北の古丸と南の二の丸で囲い、
その南方に三の丸がつき出した変形の輪郭・梯郭式併用型の城である。
南以外の三方面が湿地であったこと、
また、会津領方面の守りを重視したことによると考えられる。
本丸の辰巳の隅に外部を各層ともに白漆塗りで仕上げられている辰巳櫓がある。
説明板「辰巳櫓」
「 辰巳櫓は表門に向って正面右手、本丸から見て南東(辰巳)の位置にあり、
木造の二層二階櫓で、入母屋造、本瓦葺きです。
かって、赤穂義士堀部安兵衛の父(中山弥次衛門)が管理責任者で、
櫓の焼失の責任をとって浪人となりました。
安兵衛は(新発田の旧外ヶ輪に生まれたが、十八歳の時)
家名再興のため江戸に出て、高田の馬場の敵討(かたきうち)によって名を挙げました。
平成十六年六月に復原しました。
新発田市教育委員会 」
辰巳櫓の中に入ると新発田城三階櫓のミニチュアがあった。
辰巳櫓の反対側の隅にあるのが旧二の丸隅櫓である。
説明板 国指定重要文化財「旧二の丸隅櫓」
「 旧二の丸隅櫓は、桁行五間半(約9.9m) 梁間四間半(約8.1m)入母屋造の二層二階櫓、
寛文八年(1668)の大火後再建されたものです。
二の丸北部にあったものを昭和三十四年(1959)から翌三十五年にかけて解体修理を行い、
本丸鉄砲櫓跡の現在地に移築したもので、腰回りは瓦張りの海鼠壁に仕上げられています。
新発田市教育委員会 」
表門を出て、右折して堀に沿って進むと右手に旧二の丸隅櫓が見えてきた。
城の見取り図を見ると手前の左のあたりに土橋門があったようで、
二の丸からの入口で敵の侵入に備えていた。
下は新発田城の復元想像図である。
表門を出て右に歩いてきたが、
ここは本丸と二の丸との間にあった帯曲輪跡で、今は埋め立てられてないが、左側には外堀があった。
堀の対面には現在は旧二の丸隅櫓が建っているが、当時は鉄砲櫓が建っていて、
こちら側の帯櫓(本丸の南部分)の左端には土橋門と番所が建っていた。
番所跡付近に新発田城の説明板が立っている。
また、その先に「新発田城 土橋門・帯曲輪跡」の説明板があった。
説明板 「土橋門・帯曲輪跡」
「 土橋門 」
土橋門は二の丸から土橋を渡った帯曲輪の手前(左側土塁間の道路)に配置された門で、
形式は薬医門です。 本丸戸二の丸の間に帯曲輪という防衛線を設け、
その入口を固める門です。
土橋門・土橋の手前は御下馬と呼ばれており、
騎馬の侍はここで馬を下りて歩いて登城しました。
土橋門は新政府の命令で取り壊されましたが、
取り壊し前の古写真や絵などが残っているほか、
同様の形式の家老の門が清水園に移築保存されており、
当時の姿を再現することが可能です。
「 帯曲輪 」
城は本丸、二の丸など幾つかの曲輪(郭)から構成されています。
帯曲輪は帯状の形からこう呼ばれます。
新発田城の帯曲輪は本丸表門の守りを固めるため、
本丸と二の丸の間に配置し防御に工夫を凝らしていました。
看板左側の土塁がその名残で、看板が立っている所が堀跡です。
土橋門に近づいた敵が土橋門の左右の土塀のほか、
左側の本丸鉄砲櫓から一斉射撃を受けます。
仮に土橋門が破られても、帯曲輪内で本丸石垣上の土塀や鉄砲櫓から十分敵を攻撃でき、
(鉄砲櫓は攻撃の死角が無いように30度ほど表門側に向いているため、
表門に近づく敵も斜めから攻撃できる)、
本丸表門の橋は以前は木橋で、いざというときに切り落とすことができました。 」
左側にある石垣と土塁は土橋門の跡であろう。
土橋門の復原想像画があった。
その先の二の丸跡は公園として整備されていて、新発田城の大きな石柱が立っている。
その先に西の門があった。 また、内堀の先にあるのは本丸の三階櫓である。
「 新発田城には天守はなく、本丸の北西隅に三重櫓を上げて「三階櫓」と呼んでいた。 幕府に遠慮し天守を公称しなかったが、三階櫓は新発田城における実質的な天守であった。 承応三年(1654)に創建されたものは、寛文八年(1668)の火災により焼失し、 延宝七年(1679)に再建された。 明治初期に撮影された写真によると、続櫓(付櫓)を伴った複合式層塔型三重三階で、 一重目の西面と南面に切妻破風を持った石落としを兼ねる出窓があり、 三重目屋根の棟は丁字型に造られ、棟上には三匹の鯱が載せられている。 明治七年(1874に破却されたが、明治の写真などを基に平成十六年に再建された。 」
(ご参考) 新発田城の歴史
「 新発田城は源頼朝の御家人・佐々木盛綱の支族がこの地に城を構え、新発田氏を名乗ったことに始まる。
天正六年(1578)新発田重家は上杉謙信の死後の家督相続をめぐる戦い、
御館の乱(おだてのらん)で上杉景勝に味方したにもかかわらず、何の恩賞もなく、
不満があった。
重家は織田信長の誘いの手にのり、景勝に反旗をひるがえして、
領土を広げていったが、信長が本能寺の変で斃れると戦況は一変。
天正十五年(1587) 景勝に攻められ、重家は討死にし、新発田城は落城した。
慶長三年(1598)、上杉景勝の会津転封に伴い、堀秀治が越後に入封すると、
与力大名として新発田藩初代藩主・溝口秀勝が加賀大聖寺から新発田へ転封となった。
慶長三年(1598)、豊臣秀吉から六万石を賜り、加賀大聖寺から新発田へきたが、
上杉景勝の会津転封により生じた上杉遺民の一揆に遭い、これを平定。
秀吉の死後起きた慶長五年の関ヶ原の戦いでは徳川方につき、領地が安堵された。
完成した城は十五年後の寛文十五年(1675)に焼失し、
明治まで存続した城郭は宝永七年(1679)に再建されたものである。
明治五年までは櫓が十一棟、主な門は五棟あったが、新政府の命令で取り壊され、
堀も埋め立てられた。
現在、新発田城に残る遺跡は国の重要文化財に指定にされている表門と旧二の丸隅櫓、本丸石垣と堀の約半分、旧土橋門付近の土居が残っているだけである。 」
新発田城へは、JR羽越本線「新発田駅」から徒歩20分
新発田城のスタンプは新発田城表門受付(9.00〜17.00)にて
但し、冬季(12月〜3月)は非公開