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登っていくと、右側に石垣が現れた。
そこに着くと、「四ッ門跡」の標柱があり、
両側の石垣は門を支える石垣である。
「国指定史跡 村上城跡」 の説明板が建っている。
説明板「国指定史跡 村上城跡」
「 村上城跡は、標高135メートルの臥牛山を中心に広がり、築城年代は
16世紀初頭と推定される。
城主は、国人領主の本庄時長であり、以降、房長・繁長と戦国期三代にわたる居城となる。
江戸期の元和四年(1618)には、徳川譜代の堀直寄(なおより)が10万石で入封し、
縄張りを行い、山上の曲輪を拡張し、石垣を築くなど、
それまでの中世的な城を近代城郭へと、変貌させた。
総構えの規模は、南北1.4km、東西2.3km。
山上は本丸・二の丸及び三の丸から成り、西側山麓には城主居館が配され、
東側には大小の曲輪が設けられていた。
慶安2年(1649)、譜代の松平直矩(なおのり)が、15万石で入封すると、
家臣数の増加に伴い、再び、城と城下の改築に着手する。
現存する石垣の多くが、このとき、積み替えられたものと、推定される。
村上城跡は、地形を巧みに利用した戦国期の遺構と、
新潟県下最大規模の江戸期の石垣とが、共存していることが、
他に類を見ない最大の特徴であり、中世と近世の両方の遺構を散策することができる。 」
更に登っていくと、石垣が右手に見えてきた。
手前の土には、田の形のようなくぼみがあり、それは何か気になった。
この石垣は、御鐘門の石垣と思った。
この先に、「朝日・飯豊名峰の眺望」という看板がある。
看板の先に見えたのは、大平山を中心とした峰々である。
更に進むと、石垣が見えてきて、下に「出櫓跡」の標柱が建っている。
出櫓の石垣の上にあるのは、本丸の石垣である。
その先には、「冠木門跡」の標柱があり、両側に石垣が残っている。
石段を見ると、門の礎石と思われる、四角の穴がある石があった。
頂上付近にある本丸跡に到着。
奥に、鳥居が二つ建っている。
その奥に石段があり、石段を上ると、本丸より少し高い土地に、 「天守跡」の標柱があり、その奥に「臥牛山 135m」の道標と百葉箱、 その奥に「舞鶴城跡」 と彫られた、大きな石碑が建っている。
「 舞鶴城は、村上城の別名である。
村上城は、寛文七年(1667)の落雷で、天守は焼失し、その後、再建はされなかった。
慶応四年(1868)の戊辰戦争で、村上藩は親幕府派と新政府派とに分かれて分裂状態となり、官軍の攻撃を受けた村上藩兵が、山麓の居館に火を放って庄内方面へ脱出した。
明治三年(1870)、元藩主・内藤信美が焼け残っていた城郭の破却を政府に届出。
城下の諸門や石垣は、明治八年までに解体し、売却された。
村上城の遺跡は解体後、最近修復された石垣のみである。 」
村上城へは、JR羽越本線村上駅から車で約5分
村上城のスタンプは、村上市立郷土資料館(9時〜16時 12/29-1/4休み)にある
(ご参考) 村上城の歴史
「
村上城は、別名を舞鶴城といい、
村上市街地東端にそびえる標高百三十五メートルの臥牛山の頂に築城された平山城である。
明応末期(1500年)に、越後小泉領主・本庄時長が築城したのが始まり。
当時は本庄城と呼ばれたようで、木柵で防御された中世式の城郭だった。
本庄氏は、鎌倉幕府創業期の功績により、小泉荘本庄の地頭に補佐され、
本庄氏を名乗る。
繁長の時、越後国人衆の中で最大の勢力になった。
上杉謙信と対立し、永禄十一年(1568)に攻められ、一年にわたり籠城して謙信に抵抗したが、伊達氏、蘆名氏の斡旋を受け入れ、嫡子顕長を人質に出し、所領を一部没収されることで講和し、謙信・景勝の忠良な家臣になった。
慶長三年(1598)、上杉景勝の会津への国替えにより、
豊臣秀吉の直臣・村上義明(頼勝)が領主となり、この時から村上城と称した。
元和四年(1618)、その子の村上忠勝が改易になった後、
堀直寄(なおより)が城主となり、三重の天守をはじめとする大規模な改築を行い、
城下町の構えや町割りも整備された。
堀氏は、孫の直定の時代に7歳で死去した直定に後継ぎがないため、断絶。
その後、本多忠義を経て、
慶安二年(1649)に姫路から、松平直矩(なおのり)が入城し、
寛文年間に村上城は大規模に改修された。
天守・櫓等が新たに造り直されたが、ほどなく寛文七年(1667)の落雷で、天守は焼失。
その後再建はされなかった。
松平直矩以後はめまぐるしく城主が交代したが、
享保五年(1720)に内藤弌信が城主になってからは内藤氏が幕末まで治めた。
幕末の戊辰戦争で、村上藩は親幕府派と新政府派とに分かれて分裂状態となった。
慶応四年(1868)、官軍の攻撃を受けた村上藩兵が,、山麓の居館に火を放って、
庄内方面へ脱出し、庄内藩兵と合流して、新政府軍と羽越国境で交戦した。
明治三年(1870)、村上県知事となった内藤信美が焼け残っていた城郭の破却を政府に
届出し、受理され、城下の諸門や石垣は明治八年までに解体し売却された。 」
◎ 瀬波温泉
村上城の見学後、宿泊する瀬波温泉へ向かった。
瀬波温泉は、村上駅の西方の日本海に沿ったところにあった。
説明板「瀬波温泉の由来」
「 瀬波温泉は、
明治三十七年四月、石油の試掘を中、地下199間(252m)より突然、150度の熱湯
が噴出したのが始まりです。
岩船興業組合が瀬波温泉株式会社として温泉経営に乗り出し、瀬波噴湯株式会社を経て、現在の瀬波温泉噴湯開発有限会社が、この元湯の管理を行っております。
昭和二十六年(1951)までは自噴しておりましたが、現在はエアーリフト(空気を送る)で、
噴き揚げています。
明治末には、東屋・養真亭・萩野屋・高橋館(大和屋)・吉田屋・丸一・三島屋
の7軒の旅館がありました。
また、昭和12年(1937)2月10日に、与謝野晶子が瀬波温泉に來遊、
養真亭に投宿し、温泉と白砂青松を詠んだ45首の歌を残しております。
昭和47年(1972)5月21日には、全国植樹祭に來県された、天皇皇后両殿下が、
当地で2泊されました。
美空ひばりなど、往年の著名人も多数來湯され、新潟県でも指折りの温泉です。
温泉井戸及び泉質について
源泉名 噴湯(元湯)
噴出地 村上市瀬波温泉2丁目566番地
深度 350m
湧出量 180L/分
揚 湯 エアーリフト方式(空気を送り揚湯する)
泉質 ナトリウムー塩化物泉(アルカリ性低張性高温泉)
泉 温 92℃
臭 味 弱塩味
外 観 極微褐色・透明
PH値 8.9
県道3号にある、瀬波温泉入口バス停から、海に向かうと、
右側に、野天風呂 湯元龍泉がある。
この施設は四つの露天風呂があり、食事も休憩する設備もあり、
日帰り温泉で、900円で入ることができる。
宿泊設備もある。
小生が泊まったのは、左側の小高いところにある、瀬波グランドホテルはぎのやである。
宿での夕食は、村上牛ステーキとあわびの踊り焼、お造りもおいしく、
日本海の幸を満喫。
風呂も、展望檜風呂や、異なる四つの源泉風呂を楽しんだ。
夕食前の散歩を兼ねて外出。
旅館の裏側に、「← 温泉やぐら」 の案内があり、石段を上る。
上ると広場があり、白い小屋と鉄骨の塔があり、その先に白い湯気が噴き揚げていた。
源泉櫓には九十度の湯が入り込み、持参すれば温泉卵をつくることができる。
与謝野晶子の歌碑が建っている。
「 温泉は いみじき瀧の いきほいを 天に示して 逆しまに飛ぶ 晶子
昭和十二年二月十日 瀬波噴湯場にて 」
高台から海が見えた。
与謝野晶子は、ここで、自噴するお湯が天に向かって、飛び散る様子を詠んでいる。
今は空気を入れてお湯を取りだしているので、湯は飛び出す様子はなく、
湯気のように思えた。
噴湯塔の前に、「与謝野晶子と瀬波温泉」の説明板がある。
説明板「与謝野晶子と瀬波温泉」
「 歌人晶子は、昭和十二年二月十日に來湯し、養真亭(波済健氏経営)に投宿、
來湯の羽賀虎三郎氏(長岡市)が催したお祝いの席に、
井上苔渓(台湾銀行の常任監査役)夫妻、西村伊作(文化学院創始者)夫妻らと共に出席し、
その後、羽賀氏が常宿にしていた、養真亭に招待したものである。
波済氏の晶子來遊記によれば、 「二月十日二時すぎに、養真亭に到着され、
早速、波済氏の案内で、石油櫓を掛けた中に、噴き出して尽きない湯元を見学し、
浜へ出まして、北海に佐渡・栗島を遠望した。 」 と、記しています。
この滞在で、晶子は、噴湯・赤松・日本海を題材に、四十五首の歌を詠んでいます。
(注) この後に、四十五首の歌が書かれていますが、省略します。 」
源泉櫓の脇を百八十一段の石段を登ると奥の院(伊夜日子神社)がある。
階段の脇に、「この上 ↑ 奥の院
・ 瀬波温泉街と日本海が一望できます。
・ 鳴らすと幸せになれる “龍神の鐘” があります。 」と書かれたボードがあった・
瀬波温泉は、カメラマンに、 「日本海に沈む夕日が素晴らしい」 と人気がある場所のである。
期待して、上っていったが、日本海が一望できることはできたが、
ここから海が遠い。
また、当日は夕日が赤く染まらないかったので、残念であった。
瀬波温泉へはJR村上駅からバスで10分、瀬波温泉下車