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上杉謙信公の銅像脇の道を道なりに歩いていくと、
左にカーブするところに右に入る小道があるが、
その先には空掘と虎口がある。
その道に入らず、車道を行くと右手に上る小道があり、
その先に三の丸、米蔵のあった空地と土塁が残っている。
説明板「三の丸」
「 謙信公の養子・三郎景虎屋敷跡と、米蔵跡などを総称して、 三の丸屋敷と呼ぶが、
それぞれの屋敷は段違いに造られ区分され、景虎屋敷跡の東端に入口が設けられ、
今も道が残っている。 」
この道に入らず、その先の小道を上っていくと、柿崎和泉中屋敷、
上杉景勝屋敷があったところに出る。
三の丸の脇を上って行くと、丁字路になっていて、左手に二の丸跡がある。
説明板「二の丸」
「 本丸から毘沙門堂を経てお花畑に至る、
実城 と呼ばれる郭群の東裾を取り巻くように造られ、
実城と共に春日山城の中心地区を形成している。
本丸の下にあり、本丸を警護するものとして造作したもので、
現在も笹井戸跡が残っている。 」
更に上って行くと、「史跡 春日山城址」 の大きな石碑が建っている。
春日山城の歴史
「 春日山城は、
南北朝時代に越後国守護・上杉氏が越後府中の館の詰め城として築城したのが始まりで、
永正四年(1507)の永正の乱で、守護代・長尾為景が、上杉定実を擁立して、
守護・上杉房能を追放。
新守護として上杉定実が府中に入ると、長尾為景が春日山城主となり、
既存の要害に大改修が施された。
天文五年(1536)、長尾晴景が、父・長尾為景から引き継ぐが、
天文十七年(1548)十二月、弟の長尾景虎(後の上杉謙信)へ家督を譲り、隠居。
代わって、長尾景虎が春日山城に入城する。
謙信死後の天正七年(1579)に起きた御館の乱で勝利した上杉謙信の養子・
上杉景勝が入城し、上杉氏四代の城となった。
しかし、上杉景勝が慶長三年(1598)に会津へ転封となり、堀秀治に引き継がれたが、
その子・堀忠俊は、慶長十二年(1607)に、直江津港の近くに福島城を新築して移ると、
春日山城は廃城となった。
昭和十年(1935)、中世の山城として歴史的価値があるとして、
春日山城周辺が国の史跡に指定された。
更に、昭和四十九年(1974)、
「 本来の春日山城は、主城周辺に広範囲に配置された砦や土塁、堀などの遺構を含めて一体的に把握されるべきもの。 」 として、
春日山から南東方向に突出する尾根先端部に構築された、通称 「東城砦(別名、春日砦)」 部分が、国の史跡に追加指定された。
平成十八年(2006)年には、春日山城は日本100名城(32番)に選定された。 」
「史跡 春日山城址」 の大きな石碑の左手の空地には、 「天守台跡」 の石碑、右側には 「本丸跡」 の石碑と、「本丸」 の説明板がある。
説明板「本丸」
「 南となりの天守台とともに、春日山城のお天上と呼ばれたところ。
標高180mの本丸からは、かっての越後府中(直江津)と、周辺の山々の支城跡や、
日本海が一望できる。
関川右岸に広がる林に囲まれた村落が点在する風景は、
慶長二年(1597)の越後国絵図に描かれた中世の風景とほとんど変わりがない。 」
しばらく日本海に目をやり、本丸跡を後にした。
坂を下った空地の小高いところには、「護摩堂跡」と、「諏訪社跡」 の石碑が建っていた。
その先に上杉謙信が信奉した毘沙門堂があるが、
現在の建物は昭和六年(1931)に復原されたものである。
お堂の中に毘沙門天が祀られている。
説明板「毘沙門堂」
「 このお堂には、
謙信公が信仰した毘沙門天の尊像(青銅製約50センチ)が祀られている。
尊像は、景勝公の会津を経て米沢へ移されたが、嘉永二年(1849)の火災で被害を受けた。
明治三年(1926)、名匠高村光雲氏が修理。
その際に分身が作られ、その後、当市(当時春日村)に寄進され、
このお堂に奉安された。 」
「春日山城案内図」では、この下に、中城、その下に、右近畑、お屋敷と続き、
黒金門があったようである。
そこを探索する。
その先には 「お花畑」 の石碑があり、 林の中には 「直江屋敷跡」 の石碑が建っている。
説明板「直江屋敷」
「 上杉家の重臣・直江家の屋敷跡と伝えられ、
お花畑から千貫門までの間に、上下三段の郭が造られている。
現在は遊歩道があって使われなくなっているが、郭を繋ぐ古道が残っている。
直江家は、上杉謙信公の父為景の代から重臣として仕え、
山城守兼続は、景勝の家老として活躍、
景勝が会津に国替えになった時に同侍し、米沢藩三〇万石の城主になった。 」
その先に下って行くと、 「虎口」 の標示があり、以下の説明が書かれている。
「 城に入る玄関にあたるところを虎口といい、
敵が城内に直進できないように、食い違いになるよう、工夫されている。
春日山城は、謙信公時代に拡張され、壮大な城郭になったと考えられる。
かってはここまでが、城の範囲だったと推定される。 」
「 千貫門は、
春日山城の古地図には必ず描かれていたことから、古い時期から存在したようで、
今でも建っていたと思われる部分のみ、土塁が分断されている。
その手前の三方が土塁と土手に囲まれ、左に二本、一見道と思える切り通しがある。
実はこれは空掘の底で、侵入者を空掘から急な崖下に落そうとしたものである。 」
写真は上から見た切り通しである。
そこを過ぎると、春日山神社の横に出た。
以上で、春日山城の探勝は終了である。
鉄道で春日山城に行く場合、JR直江津駅又は
トキ鉄・妙高はねうまラインの春日山駅からとなる。
春日山駅から春日山城へは徒歩で1時間30分かかる
途中までバスが出ているので、それを利用するのがよい
林泉寺(りんせんじ)
春日山神社の駐車場を後にして、林泉寺に向う、
下って行き、左手の狭い道に入っていくと、林泉寺の駐車場に着いた。
林泉寺は、正面に小さな惣門があり、 その先に山門、山門の先に本堂、右側に宝物館、左手が墓地という配置になっている。
「 林泉寺は、明応六年(1497)、
上杉謙信の祖父・越後守護代長尾能景が、
父重景の十七回忌にあたり、越後鎮護の古寺跡を浄め、
長尾氏の菩提所として建立した、曹洞宗の名刹である。
開山は、名僧・曇英応禅師である。
以来、法嗣が代々相続し、府内守護上杉氏の菩提所至徳寺(臨済宗)と並んで、
隆盛を極めたといわれる。
上杉謙信は、幼い六才の時、この寺に預けられ、十四才まで、六代・天室光育に学び、
七代・益翁宗謙から謙信の名を授けられるなど両禅師への帰依が高かった。
上杉景勝の会津へ国替に伴い、米沢に移った直江直続が、上杉景勝の母(謙信の姉)・仙洞院を開基とし、元和三年(1617)、当寺十四代・万安大悦を招聘して、
米沢に同名号の春日山林泉寺を建立した。
また、上杉氏の転封に伴い、上杉謙信の遺骸、上杉氏の文書、重宝の大半は、
米沢に移された。
上杉謙信の遺骸は米沢城内本丸に設けられた堂に安置され、
歴代藩主の墓は廟所が別個に造営されたため、
同寺に設けられなかったが、藩主の正室や子女の墓が安置されるとともに、上杉氏代々の菩提寺となった。
その為、寺運は傾きかけたが、上杉氏に代わって、藩主になった堀氏がこの寺を再興し、 その後の藩主、松平氏や榊原氏の菩提寺となった。 」
惣門は、春日山城の搦手門を移築したものと言われる。
山門は、鎌倉時代の様式を取り入れたもので、大正十四年(1925)に建立された。
墓地には 謙信公や堀家三代の墓などと、川中島合戦の死者の供養塔がある。
「 墓地の左奥に榊原氏の墓、手前に、松平土佐と松平綱賢公の墓、 中央奥に、川中島合戦戦死者供養塔・上杉謙信公・歴代住職の墓があり、 手前に、堀秀治公と堀秀重公と堀秀政公の墓がある。 右側には、長尾為景公と長尾能景公の墓がある。 」
林泉寺:上越市中門前1−1−1
年中無休 9時〜17時
トキ鉄・妙高はねうまライン「春日山」駅から車で30分
◎ 春日山城史跡広場ものがたり館
林泉寺の近くに、春日山城史跡広場ものがたり館がある。
日本100名城の春日山城のスタンプは、ここに置かれているので、館内を見学後、
捺印してきた。
「 春日山城は、山城であるだけでなく、
屋敷や空掘などが連続して東裾野まで至っていた。
それを囲むように堀と、土塁からなる総構が、
春日山神社から上越埋蔵文化財センターまで約千二百メートル続いていた。
総構えの堀が監物堀と呼ばれ、慶長三年(1598)上杉景勝に替わり、
春日山城に入城した堀氏の家老、堀監物直政により築かれたという説があるが、
堀氏は二年後に福島城築城に着手したとされることから、
春日山城に大規模な普請をするのは考え難いとみられている。 」
ものがたり館の横に、春日山城史跡広場がある。
「
春日山城から伸びた堀と土塁からなる総構が、 見つかったところである。
土塁の基底部に焼けた土と炭のまじった土の層が確認されたことから、
調査地の総構は、天正六〜七年(1578〜79)の御館の乱の後に築かれたと考えられている。
監物堀の深さは約170cmで、堀の底にはたくさんの板きれが腐らずたまっていて、
水堀であったことがわかった。 調査後、堀と土塁が復元された。 」