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その先の空地に、 「本丸跡」の石柱と、説明板が建っている。
説明板「高田城 本丸」
「 高田城は、慶長19年(1614)、高田の菩提が原の地を主郭に、
徳川家康の六男・松平忠輝が築城した75万石(諸説あり)の大規模な近世城郭でした。
本丸は内掘(薬研堀)と塁に囲まれ、現状では堀幅40〜50m、平均水深6m程あり、
塁は高さ10m程度で、総延長約1000mありました。
意思を用いず、2ヵ所の内桝形門と、1ヵ所の内カギ形門を挟んだ囲み土塁でした。
現在の本丸内郭跡は東西215m、南北228mの広さで、
この中に城主の御殿や多くの建物が存在していました。
天守を造らず、塁上には南西隅の三階矢倉を「御三階」と呼んで、城のシンボルとし、
他に多聞櫓2棟、矢倉台1ヵ所、御茶屋台1ヵ所、などが設けられていました。
この高田城も、寛文5年(1665)の地震、宝暦地震(1751)、善光寺地震(1841)、及び、
享和2年(1802)の火災等にあい、その都度、規模を縮小されましたが、
明治3年(1870)の火災によって、再び、焼失し、以後再建されませんでした。
高田城は、慶長19年(1614)から、8家18代の城主が交替し、257年間続きましたが、明治4年(1871)に、その幕を閉じました。
明治41年(1908)の陸軍第十三師団入城の際に、土塁が切りくずされ、
城郭は変形しましたが、基本的な原型は保存されており、
新潟県の史跡に指定されています。 」
高田城は、すべての曲輪に土塁が採用され、石垣は築かれなかった。
「 石垣が建設されなかった理由は不詳だが、
良い建材に恵まれなかったという説や、短期工事によるという説や、
地盤が弱かったという説などがあるが、
どれも当たっているような気がする。
また、低湿地に築城されたため、排水設備が重視され、
城地には暗渠が張り巡らされていた。 」
その先に進むと、左側の石段の上に復元された三重櫓がある。
「 高田城には天守は建てられず、三重三階の櫓を建てて、
天守の代用とした。
三重櫓は、寛文五年(1665)の高田地震で倒壊、その後も、三重櫓は再建されたが、
明治三年(1870)に焼失した。
現在の三重櫓は、平成五年(1993)、外観を松平光長時代の本丸御殿図絵を基に、
大きさは稲葉正通時代の高田城図間尺を基にして、復興したものである。 」
再建された三重櫓の中は、高田藩の歴史などの展示があった。
丸い窓(?)から、外の紅葉が見え、額縁の絵のようになっていた。
三階櫓の下の右側に、高田城三重櫓管理棟があり、 続日本100名城のスタンプはここに置かれている。
高田城は、明治三年(1870)、本丸御殿、三重櫓などを焼失し、
明治六年(1873)の廃城令により、焼失しなかった建物も、取り壊された。
その後、旧陸軍第十三師団の駐屯地司令部として使用するために、
大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが行われ、旧城地の東半分は、旧状をとどめていない。
本丸を含めた西半分には、堀、土塁の一部が遺跡として残され、
高田公園として整備されている。
高田公園のご案内
「 高田公園は、徳川家康の六男・松平忠輝が築城した高田城の跡に造られた公園で、
全体が新潟県の史跡に指定されています。
現在の公園の地形は、陸軍第十三師団が入城する際、明治40年(1907)に、
土塁の大半を崩して、堀を埋める工事が行われたことによって、出来たものとされています。
公園の面積は約50ヘクタールあり、市街地に位置する公園としては、
全国的にも有数の規模を誇っています。
園内には、復元された高田城三重櫓や総合博物館・小林古径記念美術館・
高田図書館・小川未明文学館などの文化施設、陸上競技場・野球場などのスポーツ施設・
ブロンズ像を配置した遊歩道などがあります。
また、日本画の大家・小林古径の邸宅や、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。
高田公園で毎年四月に開かれるのが高田城百万人観桜会で、
高田城は日本三大夜桜のひとつに数えられる夜桜の名所になっている。
陸軍第十三師団が設置された時、三千本を超すソメイヨシノが植栽されたもので、
本丸の周囲にもあるが、その外のさくらロードを中心にシダレ桜など並木道になっている。 」
松平忠直の長男・光長時代の 「高田城絵図」 が描かれていた。
「 高田城は、東に流れる関川を外堀として、
支流の青田川などを西側の外堀とし、
その中央に、約二百三十メートル四方の本丸を配置し、それをを取り巻くように二ノ丸、
南に三ノ丸、北に北の丸を配している。
城の西側に、家臣団の屋敷を置き、町人は青田川の西に住ませ、北国街道を迂回させ、
更に西側を寺院で囲む城下町になっていた。 」
高田駅近くの本町通りは高田城の城下町だった時代からあるものである。
「 城下町の特色はお城を囲むように凹字型に囲むように町が配置され、並行する南北二キロの通りが五本もあり、 そのメイン道路は北国街道で、問屋や商店、旅籠が軒を連ねて、それぞれの職業に応じて、 奥行きが長く大きな吹き抜けがある町屋に集住していた。 」
その家々の軒先を伸ばし、公共の通路に提供する雁木通りが造られているのが雪国ならではの光景である。
以上で、高田城の見学は終えた。
高田城へは、トキ鉄妙高はねうまライン高田駅から徒歩約25分
高田駅からくびき野バスで、大手町十字路下車、徒歩約2分
高田城のスタンプは、高田城三重櫓管理棟受付(9時〜17時 月休、12/29-1/3休) か、
上越市立歴史博物館(9時〜17時) にて
(御参考) 高田城の歴史
「
徳川家康は、慶長十九年(1614)、天下普請による工事で、わずか四ヶ月間で、
高田平野の菩提ヶ原に高田城を築城させた。
家康の六男・松平忠輝は六十万石の高田藩主になったが、
大坂夏の陣のとき、大和口総督でありながら功名を立てることができず、
家康や秀忠を失望させた。
忠輝の行列の脇を走り抜けた将軍・秀忠の旗本を斬ったため、
下手人を差し出すように命じたが応じないなどの振舞に、秀忠は危険の芽を摘み取る目的で、
二年後に改易になり、伊勢朝熊の金剛証證寺に流された。
忠輝に代わり、上野高崎十万石の酒井家次が藩主になるが、
家次の子・忠勝が八年後、信濃松代に転封。
代わって、松代藩主松平忠昌が高田藩主となり二十五万九千石となる。
七年後、 越前福井藩主だった兄の松平忠直が二十九才で、謹慎となり、
五十万石を相続して高田から福井へ転封。
寛永元年(1624) 松平忠直の長男・松平光長が二十六万石で高田藩を立藩するが、
廷宝七年(1679)、光長の跡継ぎ問題から家老・小栗美作守の声望をねたみ、
地位を失墜させようとする越後騒動が起こる。
廷宝九年(1681)将軍・徳川綱吉は高田藩領を没収し、関係者を切腹、遠島に処し、
光長は伊予松山に預けられた。
その後、稲葉、戸田、松平氏を経て、寛保元年(1741)に榊原政永が入城した。
政永の父・
播磨姫路藩主榊原政岑は、吉原で豪遊し、
三浦屋の高尾太夫を身請けするなどの行いを将軍・徳川吉宗に咎められ、隠居謹慎。 姫路十五万石の城地を没収され左遷された地が高田。
姫路藩祖の榊原康政の功に免じて、七才の政永に跡を継がせた。
その後、榊原氏が明治四年の廃藩置県まで、六代にわたり、約百三十年間この地を統治した。
明治三年(1870)に本丸御殿、三重櫓などを焼失する。
明治六年(1873)の廃城令により、焼失しなかった建物も取り壊された。
その後、旧陸軍第十三師団の駐屯地司令部として使用するため、
大規模な土塁の撤去、堀の埋め立てが、行われた。
そのため、旧城地の東半分は旧状をとどめていない。
本丸を含めた西半分には、堀、土塁の一部が残され、高田公園として整備された。 」