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同心番所の先にあったのは本丸に入る中之門(江戸城図の○部)である。
中之門から先は本丸で、右手に大番所があった。
現在は門はなく、石垣だけが残っている。
説明板「中之門」
「 慶長十二年(1607)、藤堂高虎が中之門の縄張りを行う。
本丸と中之門の位置関係は江戸城図のとおりであるが、何回か消失して、建て替えられている。
明暦三年(1657) 明暦の大火(振袖火事)で、江戸城焼失。
万治元年(1658) 細川氏による中之門普請。
元禄十六年(1703)の大地震で、江戸城被災し、中之門は崩落。
宝永元年(1704) 江戸城修復、池田氏により、中之門が修復された。 」
中之門跡の石垣の手前にある細長い建物は百人番所で、甲賀組、根来組、伊賀組、廿五騎組の同心百人が交代で警固に当っていた。
大番所を過ぎると、江戸時代には中雀門があった。 その先に現在、果樹古品種園がある。
その南西にあるのは富士見櫓である。
説明板「富士見櫓」
「 櫓は倉庫や防衛の役割を持った建物で、江戸城には十九の櫓があったが、
今は伏見櫓、桜田二重櫓とこの富士櫓のみで、富士櫓は唯一三重櫓である。
明暦の大火で消失した天守閣の代用として使われ、
将軍が両国の花火や品川の海を眺めたといわれる。 」
果樹古品種園の北側に大きな円を描く二つの広場がある。
手前が本丸跡で、奥にあるのが大奥だった場所である。
寛永十三年(1636)に江戸城の主郭、内外曲輪完成したというが、今は芝生になっているだけで、
当時の姿を思い浮かべることは困難である。
左の小高いところに富士見多聞櫓がある。
説明板「富士見多聞櫓」
「 多聞とは防衛を兼ねて石垣の上に設けられた長屋造の倉庫のことで、
多聞長屋とも呼ばれていた。
鉄砲や弓矢が納められ、戦時には格子窓を開いて狙い撃つことができた。
本丸の周囲には櫓と多聞で囲まれて万一に備えられていた。 」
富士見多聞櫓の南側の細い道脇に、「松の大廊下跡」の石碑が立っている。
説明板
「 松の大廊下は、元禄十四年(1701)に起きた浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件のあったところである。
廊下に沿った襖戸に、松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれていて、
江戸城で二番目に長い廊下で畳敷きの立派なものだった。 」
北側の広場には「大奥跡」の表示板があったが、何一つ残っていない。
その北にあるのは天守台である。 かって日本一の天守が建ち、江戸市内から眺められたが、
今は天守台のみが残っている。
「 最初の天主閣は慶長十二年(1607)、二代将軍秀忠の代に完成したが、
天和八年(1622)に天守閣を北に移築する。
三代将軍家光の寛永十四年(1637)に、天守閣の改築に着手し、
寛永十五年(1638)、江戸幕府の権威を象徴する国内で最大の天守閣が完成した。
外観五層、内部六層で、地上からの高さは五十八メートルあった。
しかし、わずか十九年後の明暦の大火(1657年)での飛び火により全焼。
再建しようという意見もあったが、大火後の江戸を復興するのが優先という主張が通り、
再建は見送られた。 以後再建されませんでした。 」
天守台の右手にある桃華楽堂前を通ると汐見坂である。
右側にある濠は白鳥濠である。 坂を下ると二の丸跡である。
江戸時代の二の丸は二の丸庭園になっている。
「 江戸時代、二の丸には小堀遠州が造り、
三代将軍の徳川家光の命で改修されたと伝えられる庭園があった。
現在の回遊式の庭園は昭和四十三年の皇居東御苑の公開の開始に当り、
九代将軍徳川家重の時代に作成された庭園の絵図面を参考に造られたものという。 」
庭園の中に諏訪の茶屋があった。
説明板「諏訪の茶屋」
「 江戸時代には吹上地区にあった。 この建物は明治四十五年に再建されたもので、
明治期の茶室風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備に当り、ここに移築した。 」
この北に平川門がある。 その手前に右側にある濠は天神濠で、左側に長く続き、北桔梗門まで続く濠は平川濠である。
説明板「平川門」
「 平川門は、竹橋門より侵入した敵を撃退できるよう、平川濠に伸ばした細長い城郭(帯曲輪)を持つのが特徴、
また、城内で罪人や死人が出るとこの門から出されたので、不浄門とも呼ばれた。 」
地下鉄九段下駅の坂上にある武道館は北の丸公園の一角であるが、
この公園管理事務所兼休憩所で 日本100名城のスタンプをいただいた。
武道館の入口には江戸城の田安門がある。
江戸城へは、JR東京駅および地下鉄千代田線大手町駅から徒歩5分
江戸城のスタンプは北の丸公園の休憩所と和田倉休憩所(和田倉噴水公園内)と楠公休憩所の 三ヶ所に置かれている
江戸城内の入口受付には置かれていないので、注意すること