mrmaxの城めぐり 千葉県 1  (佐倉城)


佐倉城は、天文年間(1532〜1555)に、 千葉親胤が、本佐倉城に代わる新たな居城として、 大叔父の鹿島幹胤に命じて築かせたのが始めである。 
徳川家康の命令により、土居利勝が慶長十六年(1611)から七年かけて、 鹿島台地の要害の地に土造りの城を完成させた。 
江戸の守りとして老中格の徳川譜代の大名が城主を勤めた城で、 日本100名城の第20番に選定されている。 


かうんたぁ。




佐倉城

平成二十六年(2014)四月十二日、国立歴史民俗博物館になっている佐倉城址を訪れた。 
佐倉城は佐倉市の鹿島山の西端部に築かれた城で、西側と南側を囲みこむように鹿島川とそれに合流する高崎川が流れ、 北側には印旛沼に至る低湿地が広がる地形に築かれた。
今は国立歴史民俗博物館と佐倉城址公園になっている。

「 戦国時代中期の天文年間(1532〜1555)に、 千葉氏二十四代・千葉親胤(ちかたね)が、本佐倉城に代わる新たな居城として、 大叔父の鹿島幹胤(もとたね)に命じて築かせたのが始めといい、鹿島山城とも呼ばれた。 
千葉親胤が家臣に暗殺されたため、工事は中止、二十六代当主・邦胤の代にも工事が試みられたものの、 天正十三年(1585)、邦胤の暗殺によって完成することはなかった。 
千葉氏は、豊臣秀吉の小田原攻めで、北条側で戦ったため、改易になる。 
徳川家康はこの地の要害に注目し、土井利勝に命じ、慶長十五年(1610)から七年を費やして城を完成させて、 名を佐倉城と改め、城下町を整備した。 
佐倉は江戸の東を守る要衝で、幕府の中枢の老中や大老などが入封した。  そのため、佐倉藩は江戸時代の初期には武田信吉から始まり、十二回のお家変わりがあったが、 寛文元年(1661) 堀田正亮が十一万石で入封すると、幕末まで堀田家が藩主を続けた。 」

江戸時代、佐倉道とか成田街道を呼ばれた道から、城北側の水堀に架かる橋を渡ると、 田町門(たまちもん)跡の土塁に出る。  江戸時代には堀を渡ると右に曲がって門をくぐって、坂を上るようになっていて、  堀に沿た土塁の内側には足軽長屋があったという。 
愛宕坂は侍屋敷くへ上る坂で、その先の左側に円勝寺と愛宕神社があったようだが、 今は神社の跡だけが残っている。 
坂を上ると国立歴史民俗博物館に突き当たるが、 ここは江戸時代には椎木曲輪(しいのきぐるわ)と呼ばれた侍屋敷跡で、 博物館の駐車場のあたりも侍屋敷の跡である。 

佐倉城図を見ると、博物館の南側に馬出し空掘や空掘が表示されていて、 その南に椎木門があったことが分かる。 
今は復元された馬出し(城の出入口を守る施設)空掘がある。 

椎木門(しいのきもん)は馬出しから城に入る門で、椎木門跡の表示があるが、 江戸時代には隣に米倉があったという。  現在は花見などの時の臨時駐車場になっているあたりである。 
入ったところが三の丸で、石が柱跡に並んでいるところには「佐倉城の礎石」の説明板があり、 「 昭和五十九年(1984)から六十年(1985)に発掘調査した際、 旧陸軍の営所跡を検出した。 兵舎跡の基礎には佐倉城の礎石が利用されていた。 」 とあった。

「 明治時代に入ると帝国陸軍歩兵第2連隊、後に歩兵第57連隊(通称・佐倉連隊)の駐屯地となった。  国立歴史民俗博物館は連隊本部跡であり、馬出しには靴工場があったのである。 」


佐倉城図
     佐倉城の礎石      サクラの名所
佐倉城図
佐倉城の礎石
お花見



三の丸は陸軍病院になっていたようで、テラスを付けた洋風の建物だったようである。

「 二の丸に入るところには不明門(ふめいもん)があり、 二の丸には殿さまがふだん住んでいたといわれる御対面所があったという。 」

今まで歩いてきた道はお城裏側である。 
その先の左側にあるのが二の門で、城の正面から二の丸に入る門である。 
二の門の反対側の土塁の先に「一の門跡」の表示があるが、本丸に入る門である。 
明治時代初期に写された写真があったが、立派な門だったことが分る。

説明板
「 本丸から見てはじめての門で、一の門と呼ばれ、木造、本瓦葺き、二階造り、梁間四間、桁行八間 」  

一の門をくぐると本丸であるが、本丸を囲うように土塁があった。

土塁の説明板
「 本丸の土塁の上には土壁があった。 」 とある。 

本丸は南向って、右手に銅櫓、その先に夫婦モッコク、その先に天守閣という配置で、 中央に御殿があり、御殿の前庭には金粉を刷り込んだ栗石が敷かれていたと伝えられる。

「 佐倉城は石垣を一切用いず、干拓以前の広大だった印旛沼を外堀の一部にし、 三重櫓(御三階櫓)を天守の代用としていた。   南の水堀に沿って帯曲輪があり、本丸の下の崖の途中にあって、まもりのために造られたという。 」

左側には角櫓とその奥に台所門があったが、台所門があったところには「台所門跡」の表示板が建っているだけである。 
右手の土塁の一角に「天守跡」と書かれた木柱が建っていて、その敷地だけは四角く土地が残っている。 
天守は外から見ると三階だて、内部は四階になっていたという。 
「 兵士が文字を彫込んだモッコク」とあるのが土井利勝が築城の時植えられたと伝えられる夫婦モッコクである。 

、一の門
     土塁      天守跡
一の門
土塁
天守跡



「銅櫓跡」の説明板がある。 明治初期の写真があったので、廃城の時壊されたのだろうか?

「 木造、銅瓦葺き、六間四方、二階造り。  この銅櫓は土井利勝が将軍より拝領し、江戸城吹上庭内より移築したもので、もとは三層であって、 太田道灌が造ったものといわれる。 」 

江戸時代、本丸には本丸御殿などの建物があったが、 明治維新後の廃城令により建物の大部分が壊され、今は芝生が植えられた広場になっている。 
その一角に正岡子規が明治二十七年(1894)に本所ー佐倉間に開通した総武鉄道を初乗り佐倉を訪れた際詠まれた
 「 常磐木や 冬されよさる 城の跡 」 という句碑が建っている。 
なお、城築城時に本丸の南側と二の丸の東側に、堀をとびだして出丸が造られ、城の防備に備えていた。 
二の丸の左手に「二の門跡」の説明板があり、明治初期に写された写真があった。

「 二の門は本丸から大手門に至る第二の門で、ニの御門と呼ばれていた。 
木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行八間で、 一の門の東方一直線上にあり、武器庫として使用された。 
門内は二の丸といい、藩政を執る役所が置かれていた。 」

その先は浅間坂だが、「堀田正睦公像」と書かれた銅像が建っている。

「 幕末の文政八年(1855)に佐倉藩主となり、天保十二年(1841)老中に就き、 安政二年(1855)に老中首座となり、翌年外国事務取扱として、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスとの 日米修好通商条約締結などで奔走するが、井伊直弼の大老就任で、老中を罷免され、蟄居した。  また、藩校を拡充し、蘭学を導入、医師佐藤泰然を招いて佐倉城下の本町に順天堂を開かせ、学問を奨励した人物である。 」

銅櫓跡
     正岡子規句碑      二の門
銅櫓跡
正岡子規句碑
二の門



その先のカーブしたところに「三の門跡」の説明板があった。

「 三の門は木造、本瓦葺、二階造り、梁間三間、桁行六間。  この門は御作事の諸道具を入れた倉庫として使われ、門内は 三の丸といい、 家老屋敷が置かれていた。 」

江戸時代には現在自由広場になっているところに侍屋敷があり、三の門は侍屋敷と城を区切る門だった。 
三の門の右手にも左手も空掘があり、侍屋敷と城を区切っていた。  また、姥ヶ池も城を守る役目をはたしていた。 
自由広場の道の反対にくらしの植物苑があるが、このあたり一帯も江戸時代は侍屋敷だった。 
なお、自由広場にある佐倉城址公園センター(佐倉城址公園管理センター)には日本100名城スタンプが置かれている。
その先にあったのが「大手門跡(追手門)」の説明板である。

「 大手門は惣曲輪の表門。 この門の西側に広小路、中下町、大下町といった武家屋敷が整備され、 三の丸御殿、会所なども置かれた。 
大手門の写真の中央に広小路と重臣屋敷の塀が写されている。 」 

広い車道に出ると「佐倉藩 藩校 成徳書院跡」の石碑が建っている。 

訪れた感想をいうと、 「 佐倉城跡は江戸時代の城と近代(明治〜昭和前半)の軍隊のあとの両面があり、二つの歴史を示していた。 
城を示す部分は空掘と土塁、そして、水堀に守られた西出丸、南出丸の形状などが良好に残っている。 」

城の周囲は、城を囲んで坂も多く、サムライの古径「ひよどり坂」などを歩いたが、かなり険しかった。 
宮小路(旧鏑木小路)には数軒の武家屋敷が今も残っていて、日常生活を営んで居られた。 

三の門跡
     大手門      武家屋敷
三の門跡
大手門
宮小路(旧鏑木小路)




佐倉城へは、京成電鉄京成本線京成佐倉駅から徒歩約20分  
JR総武本線佐倉駅から徒歩約25分  
佐倉城のスタンプは城下町佐倉歴史生活資料館にて  




 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ