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猪鼻城は延宝二年(1674)の水戸光圀による甲寅紀行の中に 「 千葉の町を出づるところの左の方に古城あり。 伊野花という云ふ 」 とあり、この頃は「いのはな」の名称で呼ばれていたことが分かる。
「 城の範囲は元禄二年(1689)の涌谷伊達氏文書に 「 千葉城跡 高さ二十間程、長さ拾丁程、本丸、二の丸あり
西の端に伊勢の宮あり 」 と記述されているとのことから、
台地先端部の神明社、亥鼻公園から千葉大学医学部の敷地までの猪鼻台地上だったと考えられている。
天守閣があるところが二の丸の跡で、神明社があるところは物見台だったようである。
江戸時代に入ると、現在の千葉市のエリアは旗本などに分割統治されていたようすである。 」
神明社の一角には 「史跡猪鼻城跡」 の石碑が建っているが、城跡を示す土塁や空掘などの様子はどこにも見られなかった。
猪鼻城の仕様などは記録に残っていないようで、神明社から下に降りる崖にその面影をしのぶだけである。
当然のことだが、天守閣などあるはずはなく、居館であったはずである。
当日、天守閣で会った六十五歳〜七十歳の二人ずれの男性の話では、
彼らの小学校時代には護国神社だったという。
調べたところ、千葉護国神社は昭和十二年に創建され、千葉空襲で焼けたが、再建され、
昭和四十二年に他に移転していた。
近くにある東禅寺は千葉貞胤が嘉暦二年(1327)に建立したと伝えられる寺院である。
猪鼻城のある猪鼻台から東に続く台地には尾根中央部を通る道がある。
「 江戸時代頃から土気往還、東金街道と呼ばれ、
千葉の町(登戸付近)からお茶の水、病院坂、千葉大学医学部前を通って、青葉の森公園に至っていた。
その先土気地区を経て大網、四天木方面に繋がる土気往還、大宮から野呂、中野を通って東金街道の二本の幹線として
千葉と外房を結ぶ性格を持っていた。
現在の千葉市域は江戸時代、江戸に近いため、大大名は置かず、
小大名領と旗本領、天領に細かに分割支配されていた。
市内に唯一陣屋を持ったのは生実藩の森川氏で、明治まで続いた。 」
江戸時代には、佐倉藩や成田山や木更津などの町は大きく、
登戸は房総の米や魚を江戸に運ぶ海運で栄えていたが、所詮小さな町だった。
明治になり、印旛県と木更津県が合併して新たな県が誕生した際、
こうしたローカルな千葉町に県庁が置かれたことや県名に千葉が採用されたことは不思議である。
印旛県は佐倉に適当な土地がなかったことと東京に近い市川などに県庁を置きたかったようであるが、
これも土地がなかったので断念。
最終的には印旛県と木更津県の境となる千葉城のあった、現在の本千葉に決まったといわれる。
しかし、千葉を県名に採用した理由は分らなかった。
猪鼻城へは千葉駅前バスターミナルから、京成バス千葉大学病院行きまたは 南矢作行きで、「郷土博物館・千葉県文化会館」で下車
寺台城
平成二十六年(2014)十一月三十日、成田市にある寺台城跡を訪れた。
「 寺台城は千葉氏の家臣・馬場氏の代々の居城だったが、馬場伊勢守勝政が秀吉の小田原攻めの際、徳川軍の攻撃を受け、市内で討死し、城は落城。 その後、海保甲斐守三吉が後をついたが、殺されて廃城になった。 」
寺台城があったのは成田山新勝寺の先に江戸時代には成田街道の寺台宿があったところで、
入口は「右国道51号 直進江戸崎、空港」の標識 の手前左側にある「寺台城址」の標識である。
民家の間の細い道に入ると民家につきあたる直前に「寺台城址100m←」の標識がある。
正面の山は少し崩れているが、昔は城の空掘などになっていたと思われる。
細い山道を進むと台地の鞍部で道が左右に分かれるが、少しくぼんだ道は空堀の遺構である。
右の道を五十メートル進むと台地の縁近くに小さな祠があり、
その近くに「寺台城址」の標柱が建っていた。
「 寺台城は永興寺から北に続く二十メートルの高さの台地に堀切で四つ郭に分けた城で、
かってはここに物見台が築かれ、台地の南麓を走る佐原街道を見下ろす位置にあった。
物見台の北側の郭は農協会館の建物が建てられたため消失。
物見台の南の郭には城の主要部の建物があったと思われるが、今は笹藪に覆われて入っていくことはできなかった。 」
もう一度街道に出て、南の細い道に入る。
これは物見台の南の二つの郭の間の堀切道である。
そこを抜けると右側は畑になっていて、奥には鷲神社があるが、この開墾されているところが郭だったのだろうか?
また、左側の郭跡は藪化して入っていけなかった。
以上の結果、形状の確認はできなかったが、関東地方に多い連郭式の縄張りを持った城であることだけは分った。