mrmaxの古城めぐり 千葉県の城 5(国府台城・関宿城)

国府台城は扇谷上杉氏の家宰・太田道灌が下総国国府台に陣取り、仮の陣城を構えたのが国府台城のはじめとする説がある。 
関宿城は、長禄元年(1457)に、簗田成助が築城したのが始まり。


かうんたぁ。




国府台城

平成二十六年(2014)五月九日、市川市にある国府台城跡を訪れた。 
国府台城跡は京成国府台駅の北方にある里見公園周辺にあった城である。 
里見公園に着くと、「国府台城跡」のプレートを発見。 
近くにあった 「 国府台城跡 」 の説明文は分りやすく、城の歴史を伝えている。

「 鎌倉草紙によれば、文明十年(1478)に扇谷上杉氏の家宰太田道灌が下総国国府台に陣取り、仮の陣城を構えたとあり、 これが国府台城のはじめとする説がある。 
道灌は武蔵にいた千葉自胤を助け、敵対する千葉孝胤と戦うためにここに陣を取り、 境根原(柏市)に出陣し、孝胤を破っている。 
これより以前の康正二年(1456)、千葉自胤は兄の実胤とともに市川城に立ち籠り、 足利成氏方に抵抗していたが、 簗田出羽守らにより城を落され、武蔵石浜(台東区)に逃れていた。 
この市川城と太田道潅の仮の陣城との関係が注目されるが、同じものなのかどうかは不明である。 」

国府台は標高20〜25メートルの下総台地の西の端で、 江戸側に平行して南に張り出した大きな舌状の丘陵であり、 現在の里見公園の中に土塁状の城郭遺構が現存する。  また、公園の北に向って城郭の遺構らしいものが確認できる。 
公園内の遺構は破壊が激しく、築城時期を想定するのは難しいが、太田道灌の時代よりは後に属するとする推測もある。 

この地はその後、天文と永禄の二度にわたり、 小田原の戦国大名北条氏と安房国の里見氏らにより行われた合戦、 いわゆる国府台合戦の舞台になっている。 
天文の合戦では小弓公方の足利義明が戦死している。
公園にはこの戦いで戦死した足利義明の「戦死図」があった。

「 天文七年(1538)の戦いは北条氏綱と小弓公方足利義明、 里見義堯らが戦かったもので、 小弓(千葉市)に居を定めた足利義明と北条家が担ぐ本家筋の古河公方の戦いである。 
天文七年(1538)、足利義明、里見義堯らは江戸川を渡って攻めてきた北条軍と戦い、 足利義明はこの地で戦死し、里見方は国府台城から退却した。  その後、里見方は国府台城を奪い返した。 」

永禄七年(1564)の戦いは、着々と東国に覇権を確立せんとしていた北条氏康と、 これに抵抗する里見義堯、義弘らの戦いであった。

「 (前年の永禄六年にも合戦があったとする説もある)
永禄七年(1564)、里見義弘は国府台城に籠城し、下総進出を狙う北条方を迎えうった。 
里見方は緒戦で優勢に戦ったが、北条軍は里見方の油断を付き、 翌朝暁に国府台城を攻めると城内は大混乱になり、 義弘は安房に敗走し、国府台城は以後、北条氏の支配下に置かれた。 
永禄の合戦の結果、北条軍は圧勝し、里見方は盟友である正木氏などの一族などに、 多くの戦死者を出し、安房に敗走する。 」

国府台城は、この合戦のなかで激突する両軍の争奪の場となり、 戦後、北条氏より、規模を拡大強化され、 初期のものから戦国期の城郭に進化した、という説がある。 

「 天正十九年(1590)の豊臣秀吉による小田原征伐により、 関東に国替えになった徳川家康は、 国府台城は江戸俯瞰の地であることから、廃城にしたといわれる。
廃城後の江戸時代には畑が広がっていたが、 明治に入り東大が移転する計画が起き、農地を買収。  しかし移転計画は中止になり、陸軍の用地になり、野砲連隊が置かれるなど、 市川は軍都になった。 
里見公園のところには陸軍の教導団病院(現在の国立国府台病院)が作られたが、 移転。 その後に、大正十三年、浅草の花やしきを模した「里見八景園」が出来たが、 昭和の恐慌のとき倒産したという。 
その後、昭和三十三年に里見公園が作られ、現在に至る。 」

国府台城跡碑
     足利義明の戦死図      里見公園
国府台城跡
足利義明の戦死図
里見公園



里見公園には江戸時代に建てられたという「里見諸将群霊墓」「里見弘次公廟」「里見諸士群亡塚」と三つ並んだ墓碑が 残されている。 また、「夜泣き石」もある。 
里見公園は遊園地などに使われたこともあり、 国府台城の遺構はほとんど残っていないが、 南西にある「羅漢の井」の上部あたりはその土塁である、と思った。 

「 国府台城は利根川(現在の江戸川)により、「守る」のはよく、 「攻める」に難しい土地で、要塞としては適している。
しかし、敵対する勢力が跋扈する武蔵、上総、下総、相模の中心地に位置するので、 独立した城郭には向かなかったのだろう。 」

羅漢の井の案内板には、「 江戸名所図会 羅漢の井 」 の絵に、 井戸から総寧寺方面の風景が描かれている。
今は里見公園になり、直通では行けないが、 里見公園の北部に安国山総寧寺という寺院があり、入口に説明板が立っている。

「 総寧寺はもと近江国観音寺の城主・佐々木氏頼により、 永徳三年(1383)、通幻禅師を開山として、 近江国左槻庄樫原郷(滋賀県坂田郡近江町)に創建された曹洞宗の寺院であった。
ところが、天正三年(1575)に至り、小田原城主・北条氏政が寺領二十石を与えて、 下総国関宿(千葉県関宿町)に移した。 
関宿の地はしばしば水害を被ったため、寛文三年(1663)、徳川四代将軍家綱に願って、国府台に移った。  その折、幕府は寺領として百二十八石五斗余、山林六万五千坪を与えている。 
寺は古くから一宗の僧録に任じられていたが、 徳川家康が天下を掌握すると宗門の統一支配の面から、 寺の住職に全国曹洞宗寺院の総支配権を与え、曹洞宗の大僧録に任じた。 
歴代住職は十万石大名の格式を以って遇され、江戸小石川には邸が与えられた。 
寺の格式の高さは今日残る下馬石によっても分る。 」

少し入った参道の右側に 「曹洞宗里見城跡総寧寺」という石柱が建っていた。 
本堂の左方に二基の五輪塔があったが、 これは関宿からの移転の際に移された関宿藩主・小笠原政信夫妻の供養塔である。
里見公園も明治時代に国買収されるまでは総寧寺のものだったようで、 里見公園は昭和三十三年に造られたという。 
国府台城は太田道灌や北条氏と里見氏、古河公方と小弓公方の戦いという歴史的な故事が残る城であるが、城の遺跡としては物足りなかった。 

羅漢の井
     総寧寺      五輪塔
羅漢の井
総寧寺
五輪塔



所在地:千葉県市川市国府台3−9
国府台城跡(里見公園)へは京成国府台駅から徒歩で15分
JR市川駅からバスで10分「国府台病院」から徒歩で3分



関宿城(せきやどじょう)

令和三年(2021)十二月五日、笠間城、土浦城を訪問した後、関宿城を訪れた。 
圏央道境古河ICで降りて、茨城県境町と千葉県野田市との境に架かる境大橋を渡る。  
博物館入口の交叉点で、右に折れ、坂を下り、田畑が広がる道を直進すると、 関宿三軒家で、その先の高台に城のような建物が見えてくる。
これは千葉県が運営する関宿城博物館である。 

「 関宿城は、長禄元年(1457)に、簗田成助が築城したのが始まり。  簗田氏は、一貫して古河公方・足利氏の家臣として働き、 河川水上交通を掌握し、この地を治めていた。 
六代続いたが、 天正二年(1574)の北条氏との関宿合戦に敗れて開城し、水海城へ退去した。 
この戦いでは、上杉謙信が救援のために出陣したが、 謙信が頼んだ佐竹義重が出陣の気配を見せないないのを怒って、帰国したため、 落城したという、話が残っている。 
天正十八年(1590)、徳川家康が関東に入封すると、 家康の異父弟・松平康元が入城し、関宿藩二万石が誕生した。 
以後、城主は、松平、小笠原、北条、牧野、板倉、久世、牧野、久世、と交代。
宝暦二年(1708)に、久世重之が入城すると、明治に至るまで、久世氏が世襲した。 」

関宿は幕府の重要拠点の一つであることを示すのは、 歴代藩主八家の中から、二十二名が老中、三名が京都所司代になっていることである。
関宿は利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の中心地であったことから、 関所(川関所)が置かれて、繁栄していたが、河川がしばしば洪水の被害をもたらし、 幕末の財政は破綻を免れる程度の苦しさであった。
寛保二年(1742)の江戸洪水により、利根川上流部の舞木、赤岩、北河原及び新川通が破堤し、関宿城下は甚大な被害を受け、城郭は大破した。
廃城になったのは、明治四年(1871)である。 

「 関宿城は、利根川や江戸川を自然の堀として、本丸、本丸の南に二の丸、本丸の東に水堀があり、その外に三の丸や郭があり、外郭に家臣団の屋敷が置かれていた。 
その配置は江戸後期の「諸国当城下之図下総国関宿」に描かれている。 
北条氏重はわすか三年間の統治であったが、江戸川と権現堂川の治水工事に尽力し、 関宿城の時の鐘を鋳造するなどの大きな治功を挙げている。 
久世家の時代には関宿城の新築が行われている。 」

現在、関宿城博物館から見られるのは、堤防下の茅の原野と江戸川に架かる橋、 また、整備された田畑である。 

「 城跡は、明治時代以降に、繰り返されてきた河川改修により、 堤防の下に埋もれてしまった、といい、 博物館の南500m行ったところに本丸跡があり、「関宿城跡」の石柱が建つというが、夕方になり、確認は出来なかった。 」

関宿城には御三階櫓と呼ばれる天守の代用の櫓が、本丸に建っていた。 

「 1671年に天守が破損し、 その再建の際は、江戸城の富士見櫓を模して再建されたという記録が残っている。 
現在、博物館に、御三階櫓を模した櫓があるが、1995年に建てられたもので、 城跡とは無関係な場所に建てられている。  藩政時代に御三階櫓が築かれた場所は河川改修により、旧状をとどめていない。  」

関宿城博物館では、関宿藩や関宿に関する展示がある。

関宿城博物館
     河川改修後の姿      御三階櫓
関宿城博物館
河川改修後の姿
御三階櫓



所在地:千葉県野田市関宿町
関宿城へは、東武伊勢崎線東武動物公園駅から朝日バスで約30分、
新町下車、徒歩15分で関宿城博物館
関宿城博物館 月休、月曜日が祝日の時は翌日、12月28日〜12月31日




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