mrmaxの城めぐり 千葉県6 (久留里城)
久留里城は室町時代に上総武田氏の武田信長によって築かれた山城である。
久留里城
平成二十六年(2014)七月五日、里見氏の本拠地であった久留里城址を訪れた。
JR久留里線の久留里駅から国道410号に出て南東へ進むと、
久留里城入口の案内板があるので細い道に入り、トンネルを抜けて登っていくと、
標高百二十八メートルにある久留里城址資料館に到着する。
久留里城址資料館は久留里城の二の丸跡に建っている。
「 久留里城は、室町時代、上総武田氏の武田信長によって築かれた山城で、
信長の子孫の真里谷氏が上総の地を支配した。
天文年間(1533〜1555)、里見義堯(よしたか)が安房から上総に進出し、本拠地を久留里城に移す。
この後、小田原北条氏の安房・上総・下総への進出が始まり、
天文二十二年(15553)から天文二十四年(1555)にかけ、北条氏の攻撃を受けている。
永禄三年(1560)には久留里城は包囲され、落城の危機に瀬したが、
里見氏の要請を受け、上杉謙信が関東に進出したため、
北条氏は軍を引き、里見氏は危機を脱した。
四年後の永禄七年(1564)、里見氏は下総国府台の戦いに敗れ、
久留里城も一時北条氏の手に落ちた。
天正五年(1577)、里見義堯の子・義弘は北条氏と和睦。
里見義弘の死後、家督を継いた頼義は安房の岡本城に本拠を移し、
久留里城には城番を置いた。
天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで、里見頼義の子・義康は、
遅参した科で、久留里城を含む上総の所領を没収される。
徳川幕府が開かれると大須賀忠政が三万石を与えられ入城したが、
慶長六年(1601)、関ヶ原の戦いの功により駿河国横須賀城に六万石で転封し、
代りに土屋忠直が二万石で入城した。
土屋氏三代目の頼直はうつ状態から、延宝七年(1679)に改易となり、
久留里藩は廃藩となり、翌年廃城になった。
寛保二年(1742) 譜代大名の黒田直純が三万石で入城し、再び久留里藩を立藩し、
幕府より五千両を拝領して、三年の歳月をかけて、城を再興した。
その間の六十年間は幕府の直轄地(天領)であった。
九代目直養の時、明治維新を迎え、明治五年(1872)に廃城になった。 」
薬師曲輪からは、眼下に城主の居館があった三の丸跡などが見下せるが、今は田畑になっている。
資料館前に新井白石の銅像が建っている。
「 新井白石は、江戸時代の有名な学者で、政治家。
幼少より青年期まで二代目の藩主・土屋利直に仕えていた。 」
坂を上って行くと、途中の草むらに「男井戸、女井戸(おいど、めいど)」の説明板がある。
「 この二つの溜め井戸は奈良時代の僧良弁によって掘られ、金剛水とか胎蔵水と呼ばれた。
里見義堯は敵対する北条氏の攻撃を何度となく受けるが、この井戸により籠城して耐えた。
江戸時代、藩主の黒田直亨(なおゆき)の頃から藩士の婚礼の際新郎新婦がこの水を飲み、
夫婦の誓いを交わしたと伝わる。 」
坂の上の本丸跡に、昭和五十四年(1979) 浜松城の天守をモデルにしたRC構造の三層四階の模擬天守が建てられた。
模擬天守の左手の土壇に「本丸・天守跡」の説明板がある。
「 この土塁は寛保三年(1743)から延享三年(1746)にかけて、
黒田直純が城を再築した際、築いたと思われる天守の跡である。
礎石の配列から判断して建物は二層二階だったと推定され、
近世初期の望楼風天守に類似していたように思われる。 」
天神曲輪の説明板があり、ここでの曲輪の意味は他とは違うなあと思った。
「 曲輪とは城郭を呼ぶ場合がありますが、
ここにおいては城内の平らの一区画をいい、城の附属施設を作ったり、
戦いの時、兵士を配備したりした場所をいいます。 」
久留里城へはJR久留里線久留里駅から徒歩で35分
圏央道木更津東ICから車で20分
戻る(城跡めぐり表紙)
(MR.MAXの世界)へ
|