mrmaxの城めぐり 千葉県8 (東金城・東金御殿)
東金城は室町時代に千葉氏が築いた鴇之峰城が始まりで、その後東金城の名になった城である。
東金御殿は、徳川家康による鷹狩りの命を受けた佐倉城主土井利勝が、
慶長十八年(1613)から翌年にかけて造営した、東金で鷹狩りする将軍の宿泊施設である。
東金城・東金御殿
東金城へは平成二十七年(2015)十一月二十九日に訪問した。
「 東金城は室町時代に千葉氏が築いた鴇之峰城が始まりで、
その後、東金城の名になった。
千葉氏の家臣・上総酒井氏の酒井定隆は、
土気城を長男の定治に譲り、田間城に移った後、
大永元年(1521)に三男・隆敏と共に東金城に入城した。
以後、土気酒井氏と東金酒井氏と称されるようになった。
東金酒井氏は五代続いたが、天正十八年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際、
両酒井氏は北条方として参戦したため、小田原開城後に東金城は豊臣方に接収され、
廃城になった。 」
東金城があったのは東金市の八鶴湖の背面にある東金高校と本漸寺付近で、
本漸寺の左方に、「東金城址」と「東金御殿跡」の説明板と「御成街道」の道標が建っている。
説明板「東金城址」
「 東西約七百メートル、南北約五百メートルの規模をもつ半独立丘陵の山城である。
東金酒井氏の居城として、天正十八年(1590)まで機能していたことは確実である。
本城の初見は、鎌倉大草紙によると享徳の乱(1454-82)の初期、
美濃より東常縁(とうのつねより)の家臣・浜春利が拠ったとされることである。
標高七十四メートルの最頂部に主郭を置き、西側に一段低い細長い方二郭を配する。
比較的緩傾斜の北側斜面には腰曲輪や支屋根の堀切段差などを設け防衛している。
また、西端の尾根に大堀切、堅堀(消滅)を入れ、西尾根続きからの侵入を防いでいる。 」
説明板「東金御殿跡」
「 東金御殿は、徳川家康による鷹狩りの命を受けた佐倉城主土井利勝が、
慶長十八年(1613)から翌年にかけて、東金代官嶋田次兵右衛尉重次を造営に当らせた。
この御殿は船橋から東金の間に造られた御成街道の終着点にあり、
東金で鷹狩りする将軍の宿泊施設である。
東金城のあった城山の東麓の敷地約六千七百坪に、玄関、広間、坊主部屋、小姓部屋、書院、鉄砲部屋、老中部屋、
台所などの部屋、別棟に鷹部屋、長屋、馬屋、大番所などが建てられた。
小池の拡張も行われ、谷池(八鶴湖)と上池を分けたといわれる。
寛永七年(1630)大御所秀忠の御成りを最後に鷹狩が行われなくなり、
その後、寛文七年(1671)に東金が幕府領(天領)から福島県の板倉領になり、
御殿は取り壊された。 」
東金城跡はこの説明板の左、東金高校との境にある小道を上っていく。
「 東金城は標高七十メートルほどの台地上に築かれていた。
城址入口の説明板には「空堀、竪堀、土塁、5つの郭等が残っている」とあるが、
現在は坂上に御殿山神社があり、その奥に「奥宮」の碑が建っている。
その奥は未整備で藪化が激しく、判別がつかない状態で、
第二次大戦では軍の施設があったようである。 」
「東金古城之図」が説明板にあったが、城の輪郭ははっきりしない。
この図で分かるのは東金御殿と東漸寺、八鶴湖の位置である。
徳川家康の関東入国後の慶長十八年(1603)、家康の御鷹場の宿泊施設として
東金城跡に建てられのが東金御殿で、その跡地に建てられたのが東金高校である。
東金高校の校舎は八鶴湖に映え、なかなか風情あるが、
校門の煉瓦造りの門柱は明治時代のものである。
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説明板と道標 | | 東金古城之図 | | 東金高校の門柱は明治時代のもの |
東金城・東金御殿跡へはJR東金線東金駅から徒歩15分
圏央道/千葉東金道路・東金ICより10分
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