mrmaxの城めぐり 千葉県9 (館山城)
館山城は里見氏九代目の里見義康により天正十八年(1580)に築城された城である。
館山城
平成二十六年(2014)七月四日に館山城を訪問した。
「 館山城は、里見氏九代目の里見義康により、
天正十八年(1580)に築城された城である。
館山城の竣工は天正十八年(1580)の夏で、豊臣秀吉の小田原攻めの時は普請の最中であった。
里見義康が本拠である安房の岡本城を出て、小田原に着いたときは、
小田原城が開城間近で、義康の遅参は秀吉の怒りに触れ、北条氏が滅亡した後、
上総の地は没収され、安房一国に減されたので、上総の久留里城から安房の館山城に入った。 」
館山城は館山湾に面した小高いところにあり、現在は城山公園になっている。
坂を上っていくと「館山城址」の木柱の先には広々とした風景が広がっていた。
館山城址は空地になっていて、浅間神社や「里見城跡」の石碑や「里見の千力猿」の碑が建っている。
その中に「館山城跡 解説 」 と書かれた石碑の中味は城の歴史をしっかり説明していて、よかった。
「 館山城は里見氏九代当主義康が築いた名城である。
この地は鏡ヶ浦に臨んだ標高七三・九米の独立した小丘であって、
要害の地であるので、既に保元(1151〜1159)の昔、沼ノ平太こと平ノ判官貞政が居館した所と伝えられている。
里見氏代々記によると、この頃、里見氏の居城であった岡山城(富浦町岡山)は位置に恵まれず、
八代義頼の時から館山築城を計画していた。
義康は父の遺志を継いで、天正十六年築城にかかり、二年半を費やして竣工、館山城と命名した。
房総里見誌に「 石塁峨々として築き上げ、堀は深満に等しく、矢倉高く、蒼天を仰ぎ、
郭を真倉といい、大手を根来下、搦手を藤井という。
並びに上、中、下と町割して、四天とも日々群集し、繁昌す。 」 とあるように、
城郭、堀、楼閣、武家屋敷、城下町など計画造成され、
城そのものは地積約四十三万平方米(約十三万坪)の壮麗、堅固な平山城であった。
かくして、館山城は武門の誉れ高い房総里見氏の居城として、鏡ヶ浦湾頭にその威容を誇ること二十七年、
十代忠義の時、外祖父小田原城主大久保忠隣(ただちか)の罪科に関係ありとして安房国を没収、
伯耆国倉吉に国替(九月九日)されると共に、惜しいかな、
城は破却され、十代百七十年の栄華の夢は空しく、今はただ残塁、破壁を残すのみとなった。
時は慶長十九年(1614)九月三十日のことである。 」
慶長十九年(1614)に里見氏は改易され、館山藩は取り潰しとなり、館山城も廃城となり、破却された訳である。
「 その後は幕府の天領になっていたが、天明元年(1781)に稲葉正明が館山藩主となり、
館山に入ったが、城を再建することはなく、二代目の正武が城の麓に館山陣屋を構えて、そこを新たな政庁とした。 」
現在城跡に建つ天守閣は、昭和五十七年(1982)に、丸岡城を模して建てられた模擬天守で、
館内は館山市立博物館分館(八犬伝博物館)となっている。
「 倉吉に移封になった忠義が、不遇のまま生涯を閉じた時、
殉死した八人の家臣をモデルに、滝沢馬琴が「南総里見八犬伝」を書いた。
城山公園の殉死者の供養塔は室町時代の五輪塔であるが、里見氏への思いは伝わる。 」
館山は東京湾への入口で、第二次世界大戦では機関銃の陣地として要塞基地にもなり、
館山城の遺構はほどんど残されていない。
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館山城址からの展望 | | 館山城跡解説碑 | | 天守閣(八犬伝博物館) |
館山城(八犬伝博物館)へは館山駅からバスで10分
9時〜16時45分 月・祝日の翌日・年末年始休
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