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隣に展示されていたのは「大身槍名物日本号」である。
説明板
「 母里(ほり)太兵衛友信は黒田如水、長政に仕えた槍の使い手である。
酒豪で知られ、福島正則に勧められ、大盃の酒を見事飲み干し、正則より日本号の槍を手に入れた。
このエピソードをモチーフとしたのが福岡県の民謡黒田節である。
関ヶ原合戦では如水、長政両夫人を大坂から中津城まで日本号を構えて無事脱出させ、
その後は如水に従って九州各地を転戦し、手柄を立てた。
黒田家の筑前入国後一万八千石を与えられ、鷹沢城ついで大隈城を守護した。 」
日本号は手入れが行き届いていて、見事な槍である。
「 日本号は刃信尺(303cm)を越える槍を大身というが、本槍は優に倍を越す321.5cm。
平地全体に大きく樋(ひ)をかき、柄剣に巻き付いた龍が今にも飲む込もうとする姿が彫られている。
これを倶利伽羅文といい、不動明王を表している。
柄の全面には煌びやかな螺鈿(らでん)細工が施されている。 」
この展示室は黒田家の刀を期間限定で公開しているようである。
常設展示場には福岡の古代から近代までの歴史がわかりやすく展示されていた。
昼食を挟み、十一時三十分から十四時までいた。
福岡市博物館へは西新駅から徒歩10分
西鉄バス「博物館南P」「博物館北口」から徒歩10分
福岡城
博物館南口からバスに乗り、赤坂3丁目で下車し、国体道路に出て、
レストラン喫茶青山を過ぎると福岡城址の堀が見えてくる。
福岡城の歴史が記されている。
「 慶長五年(1600)冬、黒田長政は、関ヶ原の戦いの功績により筑前一国五十二万三千石を与えられ、小早川秀秋の居城だった名島城に入った。
この城は三方を海に囲まれ、防衛に優れていたが、大きな城下町を造るのには適さなかったので、博多の西側にあった福崎の地に新しい城と町を築くことにした。
築城に当たった普請奉行は野口佐助一成で、江戸城や大坂城の石垣積みを手がけた名人である。
幅50mを超える内掘で、本丸、二の丸、東二の丸、南二の丸などを囲み、中枢部は総石垣造であった。
大天守、中天守、小天守が連なる巨大な天守台が築かれたが、天守が建っていた事実は確認されていない。
慶長五年(1600)から慶長十二年(1607)までの七年の歳月をかけて完成した城は福岡城と名付けられ、
福岡と博多という新旧二つの町を持つ城下町が生まれた。
福岡という地名は黒田家の祖先ゆかりの備前国福岡からという説や福崎と岡山という地名を合成したとする説などがある。
その後、幕末まで黒田家の居城となった。
歴代の藩主により、二の丸御殿や西の丸御殿の増築など数度の改修が行われたが、
幕末の嘉永、万延年間、十一代藩主の黒田長博により、大改修が行われている。
福岡城には四十基以上の櫓が曲輪の要所要所に建てられていたが、今残るものは南の丸多聞櫓と伝潮見櫓など、
ごく僅かである。
戦後、日本の各地で天守閣や城郭の復元や石垣が再建される中で、福岡城は整備されなかった。
三の丸だったところは平和台球場、平和台競技場などのスポーツ施設、
裁判所、市立美術館などの公共施設の他、
住宅私有地などになっている。 」
橋の手前に「史跡福岡城跡」の石碑があり、右手奥には石垣が見える。
橋を渡って、木立の中を行くと右手に石段と櫓が見えてきた。
「 福岡城は福崎丘陵に築かれた梯郭式の平山城で、本丸を囲むように二の丸、その外に大きく三の丸、南丸が配され、 四十七の櫓や十の門を配し縄張りの範囲は約二十五万平方メートルと大阪以西では最大規模の城郭だった。 」
目にした石垣の上の櫓は二の丸南多聞櫓である。
多聞櫓の下から見上げると石垣の組み方が江戸時代初期のものと分り、高く積み上げられた石垣の下を一回りする。
福岡城物語「多聞櫓」と書かれた説明板がある。
説明板「多聞櫓」
「 南丸(二の丸南郭)にある国指定文化財の多聞櫓は、
江戸時代から残っている数少ない建物のひとつです。
二層の隅櫓とそれに連なる三十間の奥行を持つ平櫓からなります。
高く積み上げられた石垣を土台に築かれ、「石落」を備えていることから、
いざというときの防衛のための櫓と考えられています。
また、現在の多聞櫓は後世の改修を受けたものと考えられ、
平櫓は嘉永6年(1853)から翌年にかけて建て替えられたものです。
戦後、現在の西日本短大の学生寮として使われたこともありました。
なお、平櫓の内部は、一般的には突き抜けの状態になっていることが多いなか、
本櫓では、十六の小部屋に別れています。 この多聞櫓の内部は非公開となっていますが、
イベント時等に一般公開しているほか、桜の時期にはライトアップされ、
幻想的空間がつくり出しています」
門から中に入ると右側に二階建ての隅櫓と平櫓が続いている。
その前には井戸もあった。
外に出て、その先に進むと右側に「黒田官兵衛ゆかりの本丸裏御門跡」の説明板がある。
説明板「裏御門跡」
「 この看板の左手が福岡城の中枢である本丸への入口のひとつ、裏御門跡です。
ここから本丸へ抜けた先には、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」が建っていました。
この門の左手にある石垣は、古古時打櫓台にあたり、
その先の坂になっているところに本丸の入口の一つ、裏御門があったようである。
近年、古写真や文献等による調査で、下之橋御橋門に隣接する「潮見櫓」(伝潮見櫓)と伝えられてきた櫓こそ、
この古時打櫓である可能性が高くなり、本来の潮見櫓は解体保存されている櫓であることが判明しています。 」
当時の写真が掲載されていて、櫓門の裏門の左側の石垣が古時打櫓台、
その上に二層の古時打櫓(時櫓、太鼓櫓とも呼ばれる)があったことが分かった。
裏御門から先は本丸になる。
にには藩主が政務を行うとともに住居として使われた本丸御殿が建っていた。
福岡藩主は長崎奉行に任じられた人が多く、在城する期間が他の藩主より多かったようである。
明治六年(1873)の廃城令発布に取り壊されたので、今は植栽があるだけの広いスペースである。 」
江戸時代には本丸御殿の南側に鉄御門があったが、今はない。
本丸御殿の南側を囲うように高い石垣があり、石段で登ると総石垣で築かれた中枢部に出る。
ここは天守台といわれたところである(天守は築かれなかったいう説が主流である)
天守台は石垣積みの名人といわれた普請奉行・野口佐助一成の手によるもので、
強固な打ち込み接ぎで積まれている天守跡の総石垣は見る者を圧倒させる見事なものである。
説明板「福岡城天守台跡)」
「 歴代の福岡藩主も眺めたであろう天守台跡からは、福岡市内360度全方向のパロラマを楽しめます。
江戸時代なら福岡城下が一望できたことでしょう。
そして、もしも天守閣が存在していたとしたら、そこからはより一層爽快な眺めが得られたはず。
この天守閣の有無については議論されていますが、仮に存在したとすると、
天守台の礎石や石垣の規模から5層の大天守閣が建っていたと推定され、
東側に中天守、小天守が立ち並ぶ52万石の大藩にむさわしい威容を誇ったに違いありません。 」
天守台上からの景色はよく、西側に大濠公園、眼下に平和台競技場やラクビー場などのスポーツ施設、東側に天神方面が一望できる。
福岡城は東側の那珂川を堀として利用し、南北には高石垣を長く築き、
西側にある干潟・草ヶ江を大きな池沼堀として活用して造られていた。
天守台跡から下に降り、本丸御殿跡を過ぎると、右側にあるのが二層櫓の祈念櫓である。
説明板「福岡城物語本丸(表御門跡・祈念櫓)」
「 二の丸から表御門跡を抜けると、いよいよ福岡城の中枢である本丸になります。
表御門は大正7年(1918)に、黒田家の菩提寺である崇福寺(博多区千代)に移築され、現在まで同寺の山門として使用されています。
また、本丸の東北方面(鬼門)の角には、祈念櫓があります。
これは鬼門封じの祈念をするために建立されたもので、棟札によると万延元年(1880)3月に起工、
同年10月に竣工したものです。
この櫓は、大正七年(1918)に、陸軍省から払い下げられ、北九州市八幡区の大正寺境内に移築、
観音堂として使用されました。
そして、昭和58年(1983)、同寺より福岡城に旧位置に戻された経緯があります。
大正初期の撮影と推定される写真の祈念櫓をみると、
下見板張り、城漆喰の壁、軒先を方杖と軒桁で支える二層の櫓となっており、
復元された現在の祈念櫓とは著しく外観が異なっており、別の櫓かと思われるほどですが、
福岡城から大正寺に移築された際に大幅な改変を受けたと考えられています。
1、2階の窓格子は白漆喰塗り仕上げで当時の様子をとどめています。
福岡城の特徴として、47ともいわれる多数の櫓があったことが挙げられますが、
現存しているのは本櫓のほか、国指定史跡の多聞櫓や解体保存中の潮見櫓など数えるほどとなっています。 」
江戸時代には左側に表御門があり、そこを出ると二の丸だった。
本丸の石垣の下に「二の丸跡」の石碑が建っている。
二の丸跡には梅の木が植えられていて、梅の名所として有名のようである。
この先は扇坂で、突き当たった左側に江戸時代には松の木御門が、
また、右折した先には扇坂御門があったようで、石垣のところに「扇坂御門跡」の石碑がある。
ラクビー場が二の丸御殿跡で、江戸時代にはこの南側に貯水場になる水の手と呼ばれている場所があった。
説明板「福岡城物語 二の丸(二の丸御殿・水の手・お綱門)」
「 福岡城の二の丸は、大きく「二の丸」「東二の丸」「南二の丸」に分れて、
現在地は東二の丸にあたります。 現在は運動場(ラクビー場)になっている北側まで石垣があって、
「二の丸御殿」が建っていたようです。 その南側は貯水池となる「水の手」でした。
「東二の丸」から扇坂を抜けると、現在の梅の名所で知られる「二の丸」へ続きます。
この扇坂の近辺に「お綱門」と呼ばれる門がありました(扇坂御門か東御門か異なる門であるかは諸説あります)。
柱に触れただけで熱病に冒されたり、夜中にうなされたりするといわれたその門には、
恐ろしくも哀れな話が語り伝えられています。 」
お綱は福岡藩二代藩主・黒田忠之の妻で、
お綱門は後に采女(うねめ)が預けられていた浅野の本宅跡に建てられた長宮院に移されました。
当院は福岡大空襲で消失し、その跡地は現在、家庭裁判所になっています。
ラクビー場の南部から眺めた祈念櫓は二層で美しいフォルムである。
二の丸と三の丸の間にあったのは東御門で、今は石垣が残るだけである。
説明板「福岡城物語 東御門跡」
「 (前略) 現在地の「東御門跡」は「三の丸」、「二の丸」をつなぐ門で、
ここから二の丸、本丸、天守台と城内を登っていくメインルートでした。
三の丸には藩主を支える家老職の屋敷群がありました。 」
平和台競技場の左手にある母里太兵衛邸長屋門や大手門の下之橋御門や潮見櫓が福岡城の数少ない遺構である。
東御門跡を出たところにあった平和台球場跡は柵で覆われているが、
「鴻臚館跡」の表示があり、遺構の調査が行われているところである。
持統二年(688)に建てられた筑紫館(つくしのむろつみ)が、
平安時代に中国風の「鴻臚館」という名に変わった。
説明板「史跡 鴻臚館跡」
「 鴻臚館(こうろかん)は、外国からの賓客をもてなし、滞在させるために平安京と難波と筑紫の3ヵ所に設けられた施設で、筑紫の鴻臚館は古くは筑紫館と呼ばれました。
奈良時代までは外交専用の施設で、中国(唐)や朝鮮(新羅)からの使節は、来日するとまずここに収容され、
朝廷の許可を得ると京へ向かい、帰国の際にも筑紫から船出しました。
我が国の遣唐使や遣新羅使、留学生などもここから船出するなど、
筑紫の鴻臚館は外国への直接の窓口としての役割を担っていました。
平安時代になると、やがて外交使節の来日が途絶えて遣唐使も廃止され、
かわって唐や新羅の商人の来航が増加します。 商人らは朝廷の許可を得て交易を行い、
迎賓館は外交の場から交易の場へと変容していきました。
鴻臚館はこれまで博多駅北方付近とする説が一般的でしたが、
昭和六十二年(1987)の平和台球場の外野席の改修工事に伴う発掘調査により、
偶然その遺構の一部が発見され、その後、本格的な発掘調査が行われ、現在も続いている。 」
平和台球場跡の奥に展示館が開設されて、その遺構や大陸外交の歴史、交易品などが展示されている。
また、そこには名城百選のスタンプもあり、娘は捺印のため立ち寄った。
平和台球場跡地の脇を進むと福岡城の堀に出て橋が架かっている。
その手前にあるのが「上之御門跡」の説明板である。 今は上之御門はなく、石垣が残るだけである。
訪問して感じたのは広大な敷地だったことが分ったことである。
池沼堀として活用された大濠公園だけでも広いし、三の丸部分はスポーツ施設や公共施設をすっぽり飲みこんであまりある。
また、桜の名所、舞鶴公園になっている本丸址の石垣の見事なこと。
特に天守跡とさせるところの石組、小天守、大天守の石垣は高く組まれて、高度な技術だったことに感心した。
福岡城(その2)
令和三年(2021)八月二十四日、娘が福岡市博物館で開催されている「静岡東照宮至宝展」を
見学したいというので、福岡入りし、小生は前回訪れなかった福岡城の北部を見学した。
宿泊する祇園のホテルに荷物を預け、天神経由のバスに乗り、平和台バス停で降りると、
道の左右にある外堀は蓮が水が見えない程、ぎっしり繁茂していた。
土橋の上の橋を渡ると、正面に杭が横に並び、その先は草地で枡形を形成している。
これが上の門跡で、左折し、右折すると裁判所の左側に出る。
小生は杭前で右折して、白漆喰の土塀が乗る石垣に沿って進む。
正面に現れた空地は平和台球場跡で、一角に「鴻臚館跡」の説明板が立っていた。
説明板「鴻臚館跡」
「 鴻臚館跡は古代(7世紀後半〜11世紀中ごろ) の迎賓館として、
日本の3ヶ所に設けられましたが、遺跡が確認されたのは、この筑紫の鴻臚館のみです。
1999年ー2013年まで、平和台球場跡の発掘調査を行いました。
その結果、堀をはさんで南北二つの建物があり、何度か建て替えられていたこと、
堀に橋が架けられていたことなどがわかりました。
この広場では、8世紀前半期の建物を囲う門と塀、トイレなどを地表表示しており、
遺跡は地下に保存されています。 」
左下の写真は説明板にあった発掘時の鴻臚館跡の様子である。
鴻臚館跡展示館は、発掘された遺跡を風雨から保護するために、
覆屋(ふくどう)を建て、礎石などの遺構を発見した当時のままの姿で展示していて、
平成七年(1995)に建てられた。
日本100名城の福岡城のスタンプが置かれている。
説明板を直進し、突き当たりを右折すると、福岡城むかし探訪館が建っている。
「 昔の福岡城をCGで再現する、時空のバーチャルムービー。
黒田如水・長政親子や彼らを支えた家臣の話や天守閣などを展示パネルで紹介している。
9時〜17時 入場無料 年末年始はおやすみ 」
道に沿って進んで行くと、正面に平和台陸上競技場が見えてくるが、 左手を見ると虎口の石垣がある。 これは東御門の石垣である。
「 東御門は、三の丸と二の丸をつなぐ門で、
ここから二の丸、本丸、天守台と城内を登っていくメインルートだった。
門をくぐると左手にラクビー場があるが、江戸時代には水の手だった。
道は真直ぐ扇坂を上って行くと、西御門が江戸時代にはあった。 」
東御門より先は前回訪れているので、今回は未訪問の大手門に向って直進する。
左側には二の丸の石垣が続いていて、右側の競技場を越えて進むと、車道に出るので、
右折して「平和台競技場前」の交叉点まで進む。
交叉点を横断して進むと、名島門がある。
説明板「名島門(なしまもん)」
「 この門は、天正15年(1587) 小早川隆景が多々良川口の名島に築いた名島城の脇門で、慶長年間(1596-1614) 黒田長政が居城を名島城から福岡城に移すとき、
黒田24騎の一人である林掃部にさげ渡され、邸宅の門として使用されていたもので、
「名島ひけ」と呼ばれた名島城の数少ない遺構の一つです。
明治の中ごろ、長崎に移築されそうになったのを、当時の代議士により買い戻され、
天神の自宅の門として使用されていましたが、
戦後ビルの建築に伴って現在地に移築されたものです。 」
この近くに「←三の丸広場70m 桜園(本丸)320m 鴻臚館跡展示館520m 天守台跡530m →」の道標があった。
門をくぐって、反対側から見ると、右側に石垣があり、
その前の下がったところは舞鶴中学校のグランドである。
交叉点まで戻り、交叉点を北に向うと左側の金網の中に長屋門がある。
これは旧母里太兵衛門邸長屋門である。
説明板「旧母里太兵衛門邸長屋門」
「 この門は母里(ぼり・もり)太兵衛門友信(1556-1615)の屋敷の門として、
現在の天神2丁目にあったもので、昭和40年(1965)にこの場所に移築されました。
母里太兵衛は、黒田二十四騎の一人で、筑前入国後、領内の支城の一つで、
現在の大隅城主になりました。
福島正則から名槍日本号を飲み取った逸話は筑前今様(黒田節)で有名です。
長屋門とは、屋敷の周囲の長屋と門が一体化した形式で、
この門は江戸時代の武家屋敷の長屋門の形態を良好にとどめており、
昭和31年(1956) 県指定文化財に指定されています。 」
その先の道の左側に「牡丹・芍薬園/黒田如水隠居地跡(御鷹屋敷跡)」の説明板と 「黒田如水隠居地(三ノ丸御鷹屋敷)のプレートがある門がある。
説明板
「 牡丹・芍薬園は、黒田官兵衛(如水)が晩年を過ごしたとされる御鷹屋敷跡にあり、昭和55年(1580)に整備されました。
牡丹・芍薬それぞれ約20種、計約2000株の大輪の花々が4月から5月にかけて、
次々に満開を迎え、園内には甘く上品な香りが漂います。
開花に合わせて花見台が設置されます。 」
坂道を上っ行くと、「黒田如水公御鷹屋敷跡」の石碑と説明板が立っていた。
説明板「黒田如水隠居地跡(御鷹屋敷跡)」
「 黒田官兵衛(如水) (1546-1604)は,戦国時代から江戸時代初期にかけて活躍した播磨国姫路
(兵庫県姫路市)出身の武将で、初代福岡藩主黒田長政の父です。
はじめ、姫路の武将小寺氏に仕えましたが、のちに秀吉に従い、参謀役を務め、秀吉を支えました。 関ヶ原の戦いでは息子の長政が東軍の勝利を導く活躍をし、筑前国ほぼ一国を領する大大名となり、福岡城を築きます。 官兵衛もその晩年は名を如水と改め、福岡城や太宰府で過ごしました。
「筑前国風土記」の記述に従えば、官兵衛の隠居地は現在のここ「牡丹・芍薬園」にあったと、
推測されます。 」
この右奥にはビニール網で覆われた牡丹と芍薬があった。
車道に戻り、北に向うとその先は外堀であるが、 その手前の三叉路を左に入ると下の橋大手門(潮見門)がある。
説明板「下の橋御門」(県指定文化財)
「 福岡城は、福岡藩初代藩主、黒田長政によって、
慶長6年(1601)から7年をかけて築かれました。
城への門は、堀に架かる3つの橋、上之橋・下之橋・追廻橋にそれぞれあり、
このうち、下之橋を渡って入る門がここ下の橋御門(下の橋大手門)です。
現在の門は文化2年(1805)に建てられましたが、明治時代に上層部を失い、長く一層のままでした。
平成12年(2000)に不審火によって、被災したため、復旧に向けた調査研究を行い、
同20年に二層櫓門として復原しました。
門の上層部は、部材に残る痕跡・発掘調査成果・絵図・文献史料などにより、
その規模、北側の下屋の様子、柱の立つ位置、外壁の漆喰壁などが明らかになりました。
また、直接の資料を欠く部分は、上之橋御門(上の橋大手門)の古写真や本丸表御門(現・崇福寺山門)
などを参考にしました。
この復原は専門家で構成する、福岡城跡建造物等復原整備検討委員会で検討されたものです。
これとは異なった復原案も提案されましたが、
現段階でより蓋然性が高いと判断させた本案を採用しました。
平成20年11月 福岡市教育委員会 」
下之御門の枡形を通り、下之橋を渡る。
左折して地下鉄大濠公園駅に向ったが、
左手に今歩いてきた下の橋御門の建物などが外堀越しに優雅な姿を見せていた。
これで、福岡城の全てを訪問したことになる。
福岡城へは JR九州新幹線福岡駅から市営地下鉄空港線赤坂駅下車、徒歩約5分
福岡城のスタンプは鴻臚館跡展示館(9時〜17時 12/29-1/3休み) にて