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「大手先門跡」の石柱の先には近代的なビルの北九州市役所などが見える。
「 細川忠興が築城した小倉城は「唐造り」とよばれる全国でも珍しいもので、
本丸を中心にして南に松の丸、北に北の丸、それらを囲い込むように二の丸、三の丸、外郭
が配された梯郭式平城であった。
慶応九年(1866)の長州戦争で、小笠原氏の小倉藩は長州軍の攻撃前に小倉城撤退を決め、八月一日付け火により、小倉城は焼失してしまった。
明治に入ると、陸軍歩兵旅団の本部が松の丸跡に、明治三十一年(1898)には第十二師団司令部が本丸跡に置かれた。
大正に入り、師団は久留米に移転、昭和九年、八坂神社が北の丸跡に遷座された。
小倉城跡は、小倉北勝山公園と八坂神社、小倉城庭園などの他は、北九州市役所などの公共施設になっている。 」
目の前には、 昭和三十年代に、豊前小倉御天守記や小倉城絵巻、延享三年巡見上使御答書等を基に、 鉄筋コンクリート構造によって建てられた天守閣がある。
「 細川忠興が建てた天守閣は四重五階の大天守と一重の小天守からなる連結式層塔型天守である。
大天守は、最上階外廻縁が幕府への遠慮により、重数(階数)を少なく見せるため、
雨よけのために雨戸で覆われた下層よりも張り出している、いわゆる唐(南蛮)造りで、
最上層の入母屋破風を除き、破風が一切ないものだった。
この天守は天保八年(1837)に失火により御殿とともに焼失。
その後、天守台に「御三階」と呼ばれる建築を建てて、天守の代用としたとされる。
現在の天守閣は、破風などは地元観光面への考慮から要望によって付加されたもので、
大入母屋破風や千鳥破風・唐破風などの破風が見られる。 」
天守閣の前には大名屋敷と庭園、また、堀の周りに櫓が再建されている。
天守閣の周囲を歩くと、「第十二師団司令部跡」の標柱や長州戦争の大砲があった。
また、いくつかの門跡が表示されていて、門跡の石垣には当時を偲ぶ感じがした。
小倉城へはJR山陽新幹線・鹿児島本線・日豊本線小倉駅から徒歩15分、鹿児島本線・日豊本線西小倉駅から徒歩10分
続日本100名城の小倉城のスタンプは、 しろテラス(小倉北区城内2-1 4月〜10月9時〜18時、11月〜3月9時〜17時) にある
下 関
小倉城見学後、下関に向う。 冬の味覚のふぐを食べるためである。 泊るホテルは下関グ
ランドホテル。 海側と陸側では料金がかなり違う。 海側の方が高い。
以前二度訪れていて、その時は仕事だったので、接待で料亭のようなところでふぐ料理を食したが、どの店だったか分らない。
それでホテルの中の店に1万円弱のコースを予約した。 食べて満足、見て満足である。
同行した娘は下関に幕末の志士達の遺跡を探しに長府町などに行っているが、ふぐは初めてといい、喜んだ。
ホテル周辺の名所に立ち寄る。
下関駅よりバスでみすそ川バス停で降りると丸尾公園があり、上には高速道路の関門橋がある。
ここは関門海峡の中で一番せまく約七百メートルしかないため、潮の流れが速いことで知られる。
公園の一角に「壇の浦古戦場跡」の記念碑がある。
「 西に東に一日四回その流れを変える関門海峡。 寿永四年(1185)三月二十四日、平知盛を大将にした平家と源義経ひきいる源氏がこの壇の浦を舞台に合戦をした。 当初は平家が優勢であったが、潮の流れが西向きに変わり始めると源氏が勢いを盛り返し、平家は敗退。 最後を覚悟した知盛がその旨を一門に伝えると、二位の局は八才の安徳天皇を抱いて入水。 知盛も後を追って海峡に身を投じ、平家一門は滅亡。 この時を期に、日本の政治は公家から幕府の武家政治へ移行していった。 」
「安徳天皇御水之処」の石碑には、 二位の尼の辞世の句として
「 今ぞ知る みもすそ川の 御(おん)ながれ 波の下にも みやこありとは 」
と書かれていた。
海に目を転ずると対岸は近く感じる。 この狭い海峡に自動車運搬船やコンテナー船などの色々な船が行き交っていた。
その前に義経の八艘跳びの銅像があった。
関門海峡は幕末に長州藩兵と英、仏、蘭、米四ケ国連合艦隊との交戦がくり広げられた舞台で、青銅砲が並べられている。
説明板
「 合計六回の戦いがあったが、元和元年(1864)八月、長州軍の敗退により、
下関海岸の砲台に装備された青銅砲はすべて戦利品として外国に運び去られた。
長州砲は天保十五年(1844)に萩藩の鉄砲家郡司嘉平治の手によるものである。
現在ここに置かれている青銅砲はパリの軍事博物館にあるものを複製したものである。 」
バスに乗り、赤間神宮前バス停で下車すると、正面に竜宮城のような赤い楼門がある。
これは赤間神宮の楼門で、水天宮の幣額があった。
「赤間神宮の由来書」
「 壇の浦戦いで崩御した安徳天皇を赤間関紅石山麓の阿弥陀寺境内に奉葬した。
建久二年、 朝廷は長門国に勅し、御陵の上に御影堂を建立し、建礼門院の御乳母の女 少将の局・命阿尼を奉侍し、朝廷の勅願寺とした。
明治維新の廃仏棄却により阿弥陀寺は廃寺となったが、
御影堂を天皇社と称することになり 明治八年に官幣中社に指定し、地名をとり、社号を赤間宮とし、社殿を造営した。
なお、赤間神宮の御祭神は第八十一代安徳天皇で、御祭祀は安徳天皇と一緒に沈んだという八咫鏡である。 」
赤い楼門は水天門といい、明治九年に昭憲皇太后が奉献された 「 いまも猶 袖こそぬるれ わたつみの 龍のみやこの みゆき思へば 」
という御歌にちなみ、昭和三十三年に竜宮造に造営されたものである。
門の脇をくぐると階段の上に外拝殿などの建物が見えるが、
これは第二次世界大戦の空襲により焼失したものを昭和四十年に再建されたものである。
境内には耳ない芳一堂があり、その先に平家一門の墓がある。
隣にある安徳天皇阿弥陀寺陵は非公開である。
下関グランドホテルの近くにはふぐの独特のせりで有名な唐戸市場があり、一般人でも入れるとあったが、
営業時間を終了し、人っ子一人もいなかった。
下関グランドホテルの裏から門司行きと巌流島行きの船が出ている。
娘が前回訪れ巌流島行きの船に乗ったのは夏で、このあたりは賑わっていたというが、この日は閑散としていた。
その先にはしものせき水族館があるが、営業時間から入っても時間が足らないので断念した。
なお、隣の遊園地の観覧車は夜色々色が変わり、食事したホテルからの景色がきれいだった。
下関は戦前、韓国への渡航として賑わい、古い建物が数軒残っている。
今回十数年ぶりに訪れたが、水産業や造船業の衰退の影響か、活気がなくなっているような気がした。
門司港
平成二十八年(2016)一月二十一日、下関から関門汽船で門司に渡る。
あっという間に対岸の門司港に到着した。 船を待っている時間が長かった。
門司港からJR門司港駅までに古い建物が残っている。
「 大正から第二次世界大戦まで、門司港からは一ヶ月の間に、
台湾、中国、印度、欧州へ六十隻もの客船が出航していたといわれる。
オレンジ色タイルと白い石の帯が調和したデザインの外観、八角形の塔屋の美しいビルは、大正六年(1917)に建てられたもので、当時は大阪商船門司支店として営業していたのである。
一階は待合室、二階はオフィスとして使われていて、外国へ胸躍らせて旅立つ人々で大変賑わっていた。 」
その先にある白いビルは日本郵船門司支店だったビルである。
交叉点を左折して行くと左側にあるのは国の重要文化財に指定されている旧門司三井倶楽部
の建物がある。
「 旧門司三井倶楽部は大正十年に三井物産の社交倶楽部として建てられたもので、 ハーフティンバー様式(木骨様式)と呼ばれるヨーロッパ伝統の木造建築工法で建てられたもので、 木造の骨組みの間を漆喰やレンガ、石などを使って埋めて壁が作られ、 木造の骨組みがそのまま外観デザインのアクセントとなっている大正モダンを感じさせる建物である。 内装には各部屋にマントルピース(暖炉)が配置され、 ドア枠、窓枠、大階段の親柱などには幾何学模様のアールデコ調の飾りがされている。 全国を講演をする為に来日したアインシュタイン博士が宿泊した。 」
現在の旧門司三井倶楽部は、一階がレストランやイベントホール、二階にはアインシュタインメモリアルルーム、
門司出身の女流作家、林芙美子の資料室がある。
その他、周囲には門司港税関などレトロな建物が残っているが、これらを見ると門司港の繁栄ぶりはいかばかりと思った。
バナナのたたき売りの発祥地ともいわれる。