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水城館の上は水城なので、水城館をでて、館前の左の道を上るとひともっこ山の上に出た。
右側(東側)は樹木が茂っていてその先は見張らせない。
水城は国道で切断されているが、国道の西側には木立が続く土塁群(東堤)が続いているのが見えた。
「 水城は東側に東門、西側に西門があり、
その間に長さ千二百メートル、幅八十メートル、高さ十メートルの土塁と内外に水をたたえた堀が築かれ、
福岡平野の最も狭くなった場所をふさぐように築造されていた。
現在は、東門跡は道路工事により削られ、東門跡から少し先はで、国道と有料道路などの建設により削られ、
更にJR水城駅付近では線路により分断されてしまっている。 」
下記中図は現在の姿を上から見たものである。 上部の国道、その下で高速道路で切断され、
更にその下の鉄道で切断されているが、その先に西堤がある。
右図は西側から見た東門の復元図である。
「 土塁の高さは十メートル以上で、左側は太宰府方面で、
土塁は傾斜して高さ二メートル、長さ四十一メートルの平地となり、
その先に幅四・五メートル〜十メートルの溝状の内濠となっていた。
また、右側の博多方面には幅約六十メートル、深さ約四メートルの外濠を造り、水を貯えていた。 」
下に下りると、水城館の前の細い道と県道の間に「史跡水城址」の石碑がある。
この狭い道が古代の官道跡のようである。
また、「東門跡」の説明板にあった。
「 博多湾の沿岸にあった那津官家は大陸貿易の窓口だったが、敵に攻められやすいことから、
白村江の戦い後、大宰府に移され、大宰府政庁が誕生した。
東門からの官道は博多に至り、海を通じて都や朝鮮、中国に通じていたため、
東門は太宰府に赴任する官人の玄関口で、水城門で出迎えを受け、また送り出された。
寛弘二年(1005)太宰大弐として赴任した藤原高遠は水城で太宰府の印と鍵を受け取り、また、
天平二年(730)太宰府師(だざいふのそち)大伴旅人が帰京した時は水城で役人たちに見送られている。
東門は藤原高遠の和歌に「岩垣の水城の関」と詠われていることから、門の両側に石垣が築かれていたと考える。
寿永二年(1183)までは門が存在したようだが、十三世紀の後半には門がなくなったようで、
交通の要所の為、礎石が一個残るのみなったという。
平成二十六年に発掘調査が行われたが、撹乱されていたため、門の遺跡は残っていなかったが、
門外の脇に造られたと推測されるL字形に曲がる溝が確認されたことや土塁との位置関係などから、
街道脇に一個残っていた礎石から、この付近にあったと推測される。 」
交叉点の東側には「水城大堤之碑」と書かれた石碑と説明板がある。
「 この碑は大正四年(1915) 大正天皇の即位の記念事業として水城青年会が建てたものである。
碑文は水城在住の郷土史家、武谷水城が書き、
背面には水城跡の由来と水城村出身の技師、竹森善太郎が行った水城跡の実測結果が刻まれている。
台座は宝満山から、棹石は博多から水城青年会が自ら運搬したものである。
(碑文の訳) 天智天皇3(664)年筑紫に大堤を築き水を貯え、名付けて水城という。 今からへだてる
こと1252年。 称徳天皇の天宝神護元年3月、太宰小弐従五位下妥女朝臣浄庭を修理水城専知官とす。
今からへだてること1151年。 今、東堤長さ176間3尺(約320m)、西堤384間3尺(約700m)、總長
561間(約1020m)、最高所5間5尺(約10.6m)、基盤の最広所19間1尺7寸(約35m)、中央欠堤所96間(約175m)。
西堤は近年中断し、二堤となる。 この所はすなわち東方関門の跡で片側の礎石が遺存している。
その西方の関門はすなわち吉松墜道の地なり。 」
道路を横断して、水城跡に行った。 こちらは太宰府側である。
反対側に廻ると下左の写真になるが、当時の姿は想像できなかった。
道路を横断し、水城館側に戻り、史跡水城址碑の先まで行くと、
褐色の駐車場のような土地の上に「特別史跡水城跡 太宰府市」の木の看板が建っていて、
その近くに「古代官道(東門ルート)」の説明板があった。
「 官道は東門からほぼ直線的に造られ、外側は北西約10qで古代の港湾施設とみられる博多遺跡群に至った。 また、東門を入ると、南東へ1.2qで、太宰府条坊に入り、政庁に至った。 官道からその先で分岐しして、筑前国分寺に至る道も造られた。 」
水城館まで戻ると、大友旅人と遊女児島の歌碑があり、以下のように記されていた。
「 天平二年(730)冬十二月、太宰府師、大伴旅人は大納言に進み、太宰府を離れた。
水城で旅人を見送る官人たちに交じって、日頃旅人がなれ親しんでいた遊行女婦(うかれめ)がいた。
名は児島。
別れに際して、娘子(をとめ)児島(こじま)は旅人に二首の歌を送った。
「 凡(おお)ならば かもかもせむを 恐(かしこ)みと 振り痛き袖を 忍びてあるかも 」
「 倭道(やまとじ)は 雲隠りたり 然(しか)れども まが振る袖を 無礼(なめし)と 思ふな 」
(歌の意)
あたり前ならああもこうもしましょうものを恐れ多くて痛いほど激しく振りたい袖を我慢しているの
です。 大和への道が雲に隠れ、あなたのお姿はやがて見えなくなるでしょう。 それでも、私が別れ
を惜しんで振る袖を無礼だとお思いになりませんように。
それに対する返歌 大納言 大伴旅人の二首
「 倭道(やまとじ)の 吉備の児島を 過ぎ行かば 筑紫の児島 思ほえむかも 」
「 ますらをと 思へる吾や 水茎の 水城のうえに 涙拭(のこ)はむ 」
(歌の意)
大和への道の途中に吉備国の児島を通ったならば、きっと同じ名の筑紫の児島のことが想われることだろう。
涙などこぼさぬ強い男だと思っていた自分でも、お前との別離が悲しく、水城の上に涙を落すのだ。 」
これが二人の永久の別れとなった。 都に帰った旅人は翌年七月、六十六才で亡くなった。 」
歌碑や東門跡の礎石を見ていると、古代の水城を行きかう人々の息吹が感じられた。
この後、太宰府政庁に向う。
水 城(みずき)へはJR鹿児島本線水城駅から南西数百メートルのところにある(徒歩10分)
西鉄福岡天神駅よりは西鉄電車で、都府楼前駅まで最速約30分 、西鉄都府楼前駅からバスで約10分、徒歩では約40分
水城のスタンプは東門跡近くの水城館(9時〜16時30分、月休 12/28-1/4休)の他、
JR水城駅、大野城心のふるさと館(9時〜19時 月休) 大野城市役所新館3F行政資料室(8時30分〜17時 土、日、祝日休) にある。