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交叉点を左折すると左側にブリヂストンの工場が続いている。
右側に小公園があるが、道端に「久留米城二ノ丸跡」の石柱が建っている。
説明文
「 江戸時代には本丸の南に二の丸と三の丸があり、
二の丸は周囲を堀に囲まれた郭で、藩主の御殿などがあった。 」
久留米駅から千一百メートル歩くと「篠山神社と有馬記念館」の看板があり、 その先に本丸の石垣が見えてきた。
「 本丸は南北約百五十六メートル、東西約九十六メートルと、 南北にやや長い長方形で、約十四メートルから十五メートルの高石垣で囲まれていた。 」
道を左に行くと堀と石垣があったが、かなり大きな高石垣である。
久留米城は永正年間(1504年〜1521年)頃に在地の土豪により築かれた篠原城がはじまりといわれる。
「 豊臣秀吉による九州征伐の後、毛利元就の九男、小早川秀包が
筑後国の三郡(御井、上妻、三潴)、七万五千石を与えられて入封し、天正十五年(1587)、
堀を掘削し石垣を積みあげ天守を置くなど、織豊期城郭への大改築を行った。
小早川秀包は慶長五年(1600)の関ヶ原の戦で、西軍に属して戦い、
城主が留守の上、僅かな兵力しかいなかった久留米城は黒田孝高や鍋島直茂などに攻められ、開城勧告に応じて開城された。
秀包が改易となった後、田中吉政が筑後一国の領主として、柳河城に入城し、
その際、久留米城は支城として二男の吉信が入ったが、
慶長十一年(1606)に小姓から切りつけられその傷がもとで亡くない、
久留米城は一国一城令により破却された。
元和六年(1620)十二月、有馬豊氏は筑後久留米に二十一万六千石を与えられ国持ち大名となり、
翌年三月、丹波国福知山より久留米に入部し、
幕府の御墨付きを獲て、一国一城令により破却されていた久留米城の修築と城下町の整備に取り掛かった。
久留米城修築に際しては、榎津城、福島城などの廃城の資材が転用されたという。
また、丹波福知山の瑞巌寺を久留米に移し、梅林寺を建立している。
寛永八年(1631)、筑前国福岡城主黒田長政の指導により筑前堀を完成させた。
慶安二年(1649)から四年掛かりで外郭部を構築し、城下町を整備した。
元禄四年(1691)、四代頼元の代になって漸く城郭が完成し、
以後、明治維新まで久留米は有馬氏の居城となった。 」
江戸時代、本丸に入るため、内堀に架かる土橋を渡ると、正面に冠木御門(二の門)があり、
その先に櫓門(一の門)があり、枡形を形成していた。
冠木御門は本丸の大手虎口にあった桝形門(平門)で、その虎口は内桝形をしていた。
現在は土橋の上に篠山神社の狛犬が鎮座し、その先の両側に冠木門土塀があった石垣がある。
冠木門跡に入ると正面に「久留米城本丸跡」の石柱が建っていて、その左側に石垣と常夜燈、
その奥に鳥居が建っている。
その間にある石垣が枡形虎口に櫓門が建っていた櫓台石垣である。
その先の西側の隅に、石碑が幾つか建っているが「西海忠士之碑」がある。
説明文
「 明治維新で倒れた筑後の人、真木和泉、水野正名など、数十名を表彰する碑である。
有栖川親王から賜った「西海忠士」の大書を刻した碑で、明治二十五年に建立されたが、
福岡西方地震で倒れたので、平成二十七年に復元した。 」
「太鼓櫓跡」の石の黒いプレートがあり、「冠木御門の左手に位置し、三階建てになっていた。 」
と書かれていたので、江戸時代にはここに太鼓櫓が建っていたのだろう。
楼門跡の石段を上るとには篠山神社と有馬記念館などの建物が建っているが、本丸跡である。
「 本丸は南北約百五十六メートル、東西約九十六メートルと、南北にやや長い長方形で、 約十四メートルから十五メートルの高石垣で囲まれていた。 」
左側に有馬記念館と茶室、千松庵がある。
「 江戸時代には本丸南西隅に三重櫓の坤櫓(ひつじさるやぐら)が建っていたが、 有馬記念館の左側の建物はその櫓の櫓台石垣の上に建てられている。 また、 その北にあった「西下櫓跡」に有馬記念館が建てられている。 」
有馬記念館の前の井戸は本丸に残る井戸の一つである。
篠山神社は本丸御殿跡に建っている。
続日本100名城の久留米城のスタンプは篠山神社の社務所にある。
「 本丸御殿は久留米城の中心となる建物で、歴代藩主が政務を執っていたが、
明治七年(1874)の廃城令により解体された。
明治十年(1877)、篠山神社はその跡地に創建され、本殿(神殿)と拝殿が建っている。 」
「乾櫓(いぬいやぐら)跡」のプレートがあった。
「 明治四年(1871)に廃城となり、明治七年(1874)の廃城令によって、
城の大半の建造物は解体された。
乾櫓は本丸北西に建てられた三重櫓で、その北側にあった多聞櫓とともに櫓台石垣は残っていなかった。 」
城の東北部に行くと多聞櫓跡と思えるが、石垣が残っていた。
「艮櫓(うしとらやぐら)跡」のプレートがあった。
「 艮櫓は本丸北東に建てられた三重櫓で、
櫓台石垣の一部を欠損しているが、石垣が残っている。 」
艮櫓からは駐車場越しに筑後川が見えた。
本丸御殿跡(篠山神社)の北西側に固い岩盤をくり抜いて造られた大井戸があるが、
現在は落下危険防止のため、覆いや金網が張られていた。
本丸には他に二つの井戸があり、その内の一つが前述の有馬記念館前井戸である。
「月見櫓跡」のプレートがあった。
月見櫓は本丸東に建てられた三重櫓で、櫓台石垣が残っている。
その東にあったのは東御門で、月見櫓に付属していたため月見櫓御門とも呼ばれた門で、
現在は門礎石の一部が残っている。
下に降りて行くと右側に駐車場があるが、草むらに「蜜柑丸(みかんまる)跡」のプレートがあった。
「 蜜柑丸は本丸東側にあった腰郭で、蜜柑の木が植えられていたことから、
蜜柑丸と呼ばれていた。 現在は車道となり、一部が篠山神社の駐車場として利用されている。
高石垣の右側は小さな石で積み上げられた古い手法の石垣で、
左側の石垣は大きな切石積みの石垣なので、造られた時期が違うように思えた。 」
本丸南東隅に「巽櫓(たつみやぐら)跡」のプレートがあった。
「 巽櫓は元和六年(1620)頃に有馬豊氏により建てられた天守の代用の層塔型の三重櫓である。
城で一番大きな櫓で、縦は約十二・七メートル、横は約十四・五メートルの大きさであった。 」
櫓台石垣が残り、青木繁の石碑が建っていた。
JR鹿児島本線久留米駅から徒歩約15分
久留米駅からバス18系統で6分、大学病院で下車、徒歩5分
久留米城のスタンプは本丸跡の篠山神社の社務所前に置かれている