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鳥居をくぐると右側に社務所があり、御朱印をいただいた。
橋を渡り参道を進むと、拝殿があり、お参りした。
「 拝殿は向拝が3間、前面の1間通りは床上ではあるが、
吹き放しを形成している。
本殿は、奥行きの深い3間1面前室付きの平面で、この上に入母屋造りの屋根が乗っていて、
その前方に3間の向拝が付き、屋根はそのまま葺き降ろしになっている。
幣殿は、本殿と拝殿を繋ぎ、正面側の柱間は両側の建物と合っていないが、
角柱の面取り幅は拝殿と同様に大きいことから、古い様式で建てられている、という。
これらの建物は18世紀の前半に建てられたと推定されている。 」
左手は柳城公園になっていて、運河(堀)は川下りのコースになっていて、舟乗り場もある。
ここに「日吉神社の由来」の石碑があり、前述の説明板より詳しく書かれていた。
日吉神社由来碑
「 柳川地方に古くより「山王さん」の名で親しまれている日吉神社は、
伏見天皇の正応三年(1290)に近江国坂本に鎮座の日吉神社の御分霊を現在地にお祀りしたのが
始まりと伝えられ、山王宮又は山王大権現とも呼ばれています。
御祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)で、地主の神として、古来より魔除、厄除の御神徳あり。
万福招来、繁昌、満足を授けると言われています。
その後、数百年を経て、柳川城主蒲池治久公ー立花宗茂公ー田中吉政公、
立花藩代々の城主の信仰厚く柳川城鬼門の守護神として、
また郷土の總氏神として、藩民挙って崇敬し奉ったのであります。
社殿は元禄九年立花鑑虎公祈願成就によって再建され、当地方最古の建築と称されております。
その後、昭和五十年鎮座七百年を記念し、神殿、拝殿の一部を修復しましたが、
近年神殿の老化頓に進み、このたび、神殿銅板總葺替、諸社の大修復を行いました。
(以下省略)
昭和六十一年十月吉日 柳川總鎮守 日吉神社 」
川べりを歩くと、柳並木になっていて、 右側に「筑後国主 田中吉政公之像」と書かれた銅像が建っている。
説明板「田中吉政公」
「 田中吉政は、天文17年(1548)近江国(滋賀県)に生まれました。
その後、織田信長、豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康に仕え、
天文18年(1590)、5万7千石余の岡崎城主となり、のちに加増され、10万石の大名になりました。
慶長5年(1600) 関ヶ原の戦いでは東軍に属し、敵将石田三成を捕らえた功績により、
筑後一円の国主となり、柳川城を居城としました。
田中吉政は、天守閣の築造など、柳川城の整備や各支城の強化、筑後川・矢部川の治水事業、
本土居の築堤をはじめとする干拓事業、道路の新設・整備などの土木事業に業績を残しましたが、
慶長14年(1609)2月18日、江戸参勤の途中、伏見で客死しました。
亨年62歳で、京都の黒谷に葬られたとされています。 」
その先で車道に出るが、弥兵衛門橋の手前の左側に北原白秋歌碑が立っている。
「 水のべは柳しだるる橋いくつ 舟くぐらせて涼しもよ子ら 」
橋の手前に「三の丸戌亥門 弥兵衛門跡」の石碑がある。
橋を渡り、左折すると左側に柳川高校の寮があり、テニスの指導を受けている生徒達がいた。
柳川高校は私立のスポーツ強豪校で、ゴルフ、野球、剣道で、有名選手を出していて、
周囲に三つの学生寮を持っている。
なお、柳川の県立高校は伝習館高校である。
伝習館高校は、文化七年(1824)に創建された藩校が前身で、明治27年(1894)に県立伝習中学になり、
昭和24年の学校改革で、柳川高等女学校と合併し、県立伝習館高校となった。
校歌の作詞は北原白秋、作曲は山田耕作という凄い人達による。
その先左側の狭い三叉路をはいると、右側に石垣が続く。
左側は柳川高校で、柳川城の二の丸跡だが、遺跡は残っていない。
右側の石垣は柳川城があったころの石垣の一部である。
その先を右折すると柳川城址の説明板とその上に燈籠が立っている。
説明板を読もうとしたが、文字が薄れてしまい、読むことができない。
市には改善を望みたい。
説明板の脇の道を上ると、礎石とも思える石が転がる広場に出た。
北側に進むと、柳城中学のグランドが下に見え、ここに柳川城址の説明板が立っていた。
説明板「柳川城址」
「 柳川城は、戦国時代末、蒲池鑑盛によって造られたと考えられますが、
当時の縄張りなどを示す史料はありません。
ただし当時の柳川城は、「二方は海、二方は沼堀縦横」(薦野家譜)、
つまり、掘割と海に囲まれた城でした。
天正15年、立花宗茂が入城すると、
天守閣や櫓、橋(参照・・三柱神社欄干橋の擬宝珠)などの建築を命じました。
慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、改易された立花宗茂に替わって、
柳川城に入った田中吉政が、柳川城と城下町を大規模に改修したと考えられます。
元和6年(1620)、立花宗茂が筑後柳川に再封され、以後立花家歴代の居城となりますが、
明治5年(1872)、失火により、本丸・二ノ丸と天守は焼失。
その後、払い下げられて、本丸・二の丸を囲んだ城濠は埋め立てられて、
現在は、市立柳城中学校内に、柳川城跡の公園として整備されています(柳川市指定史跡) 」
左側に「柳川城址」の石の説明板がある。
説明板「柳川城址」
「 柳川藩主立花氏12万石の本拠となっていた平城跡、
永禄年間(1558〜1569)蒲池鑑盛入道宗雪が、支城として築いたのが始まりと伝えられています。
天守の高さは、10丈7尺5寸(約35m)、石垣の高さは4間1尺5寸(約8m)、
天守閣の棟には鯱があり、その目は金色に輝いていたというほどの栄華をきわめた城でしたが、
明治5年に焼失。
現在は柳城中学校の校庭の一隅に、小丘と石垣の一部を残すのみになっています。
(昭和53年5月柳川市文化財史跡に指定」」
柳川城は、本丸と二の丸を内掘で囲み、本丸の南に三の丸、西に西三の丸、
北に北三の丸を設け、これを中掘で囲み、武家屋敷群を設け、その外を外堀で囲み、
その外にある二つの川で挟んだ間を運河で繋げるように囲んで、
柳川城は四重の掘に囲まれていた。
西側の掘の幅は45間6尺(約82m)もあった、という。
中央部の右に二の丸、左に本丸を配置し、北の櫓と南の巽櫓を土塀で挟み、
中央に本丸櫓門を設けて、本丸と二の丸を分けていた。
本丸の南西角に五層の天守閣と小櫓、北西角にも櫓を置き、中央部に本丸御殿があった。
本丸御殿では、藩主や藩士たちが政治を行っていた。
二の丸には、当初は藩主家一族の屋敷があったが、御花畠に移転してからは、
番所と木屋などがあるだけであったようである。
二の丸と本丸は今は埋め立てられてしまったが、水堀で囲まれていて、
二丸御門から欄干橋で、南の三の丸に繋がっていた。
内掘を挟んで三の丸があり、重臣達の屋敷や御厩があった。
さらに、外堀に囲まれた部分に武家屋敷群があった。
江戸後期には、堀を挟んで西側に接する鬼童小路も御家中に組み入れられた。
柳川城は明治5年の火災で、天守を含め、本丸、二の丸が焼失しまう。
その後、明治維新の廃城令により、払い下げられ私有地となったが、
大正時代に買い戻され、昭和三年(1928)に城跡と城濠の一部が公園として保存、
柳城公園と命名され、通称「へそくり山」造成され、翌年公会堂が完成した。
現在、本丸・二の丸付近は市立柳城中学校、柳川高校の敷地になっているが、
天守台跡の高台が市の指定史跡になっている。
この後、藩主邸になっていた御花畠に向う。
柳川城を出て、左折し進み、本城町交叉点を左折すると、堀に突き当たる。
ここには川下りの舟が多く停留していた。
その先にあるのは御花・松濤園である。
「 御花は元禄10年(1697)に、4代藩主立花鑑虎により、別荘として建てられました。 城の南西のこの地を当時「花畠」と呼んでいたことから、
柳川城の二の丸の機能を移したこの屋敷は、柳川の人々から、「御花」の愛称で呼ばれ、
親しまれた。
庭園は面積3300u、仙台松島の佳景を模して築造された。
明治になり、立花家は伯爵家となり、十四代当主が松濤園、西洋館、大広間、などの
現在も残る施設を造った。
庭園は明治41年〜43年に大改修を行い、約280本のクロマツ(大部分は200年以上の古木)と
庭石約1500個、石灯籠14基、
大広間前の沓脱石の巨石は旧天守閣の台石を移したと伝えられる。
西洋館は迎賓館として明治四十三年に建てられたもので、当時自費で自家発電所を設け、
輸入品のシャンデリアや電気器具を使っていた、という。
大広間は、迎賓館の間として造られたもので、全て木曽桧を用い、中の間・三の間の床は
畳を取り除くと能舞台となる。 」
現在は、殿様や奥方達の居室であった部屋を使用した料亭「集景亭」、
松濤館はホテルとして末裔が経営されている。
御役間は見学受付入口で、見学できるのだが、コロナで16時までに短縮されていて、
到着したのが16時10分のため、見学できなかったのは残念である。
御花を出て、道なりに進むと、左手には掘の先に立花家の建物が連なる。
橋を渡るところで、川下りを楽しむ二人がいた。
船頭は竿一本だけなので、水面に高低差がないのだろう、と思った。
橋を渡ると堀に沿って西に進むと、川のほとりに神社の鳥居があり、沖端天満宮祭の説明板がある。
説明板「沖端水天宮祭」
「 沖端水天宮祭は、毎年5月3日〜5日までの3日間行われます。
この祭の特徴は、神社横の掘割に「三神丸」と呼ばれる川舟6隻をつないだ大きな船を浮かべ、
その上に舟舞台をつくり、囃子や芝居が奉納されることです。
囃子には、三味線、笛、締太鼓、つり太鼓が使用され、
囃子の調子は、京風の上品な古典的なものに、異国情緒豊かなオランダ風の調子が交じりあい、
別名「オランダ囃子」ともいわれています。
曲の構成は「留まり」「上り」「下り」の3つの大楽章からなっており、
舟の動くに合わせて使い分けられています。
この祭には、掘割の両岸に露店が立ち並び、水難事故から子供たちを守る願いをこめて、
子供づれの参拝客で賑わいます。 」
江戸時代の柳川はこの先は有明湾の端で、有明湾は潮の満ち引きが激しかった、といわれる。 田吉政時代から干拓が行われ、今はかなり先に有明湾がある。
説明板「沖端水天宮由来」
「 文禄三年(1594)立花宗茂公が、筑紫次郎(筑後川)の浅瀬を狐火に誘導されて、
無事に柳川城に入城されたのは、
狐の加護によるものと稲荷神社(豊受姫神)を建立された。
其の後、文化年間に京都彌剣神社(祇園社)の御分霊を合祀され、
当時祭の際は、各町より小舟を出して、舟舞台を造り、余興や囃子を奉納しました。
明治二年に久留米水天宮の御分霊を合祀し、水難安産の神として崇敬の宮です。
水天宮合祀と同時に文化文政時代の形式そのままの舟舞台を造り、
其を六そうの舟に乗せ、三神丸と名づけ、歌舞伎を上演し、
舟舞台囃子を奉納しました。
囃子は古典的の中に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交り合って、
別名オランダ囃子とも呼ばれて、古い歴史を持つ郷土芸能で、
現在は氏子の小中学生による舟舞台囃子保存会が昭和五十年に結成され、
毎年五月三、四、五日、大祭の時は芝居を上演し、
舟舞台保存会の子供達が囃子を演奏し、
町内の若衆が三神丸に竿さし、
水天宮の掘割を上ったり下ったりする様は全国に類がないものです。
(以下略) 」
その先の橋を渡ると三叉路で、右折して進むと旧戸島家住宅がある。
「 寛政年間(1789〜1800) 立花藩勘定方吉田舎人兼儔が建てた、 萱葺入母屋平屋の茶室とそれに付随した庭園。 のちに、藩主に献上して、藩主の茶室として利用されてきたものです。 庭園は320u。 掘割の水を引き入れて造られた築山山水で、 瓢形の池を中心に梅を配し、 苔むした庭石と調和して、閑雅な趣を見せています。 また、茶室にも古風なあしらいが見られ、県文化財の指定を受けています。 また、国の指定名勝でもある。 」
当日は休館日であったので、訪問はしなかった。
三叉路を左折し、その先で右折して行く。
左側にあるのは北原白秋の生家である。 当日は開館時間を過ぎていたので、
道路側から建物の外観を眺めるだけで終わった。
白秋生家・記念館
「 北原白秋は明治18年1月25日、柳川市沖端に生まれました。
白秋の生家は明治34年の大火で焼失しましたが、昭和44年に残っていた家屋を復元。
柳川をこよなく愛した白秋の文学資料、遺品を展示し、公開されています。
昭和60年には、白秋生誕百年記念事業として、
敷地内に歴史資料館(白秋記念館)を開館。
柳川の歴史や漁業、民俗から、
北原白秋の世界までを展示室毎に構成して資料を公開し、
白秋を深く理解する上でも欠かせない資料館になっています。 」
柳川の名物はうなぎめしである。
観光協会からいただいたうなぎめしマップには22軒が掲載され、
「江戸時代後期にはすでに、柳川ではうなぎ料理がさかんだったのだ。
歴史ある町並みを散策しながら、目指せ全店制覇。 」 と書かれている。
御花から白秋生家があるこの周辺が特に多い。
当日は、コロナの緊急宣言で開店している店はほとんどなく、
白秋生家から少し行った右側のうなぎとお食事処千十で、うなぎを食べた。
うなぎめしマップには味グラフとして、
あっさり〜濃厚の度合いが店の紹介とともに記載されている。
この店の紹介には 「 甘いタレとやわらかいふんわりご飯が特徴のせいろ蒸しです。 」とあった。
バスの時間が分からないのと、天神への特急が一時間に二本と少ないので、
タクシーの手配をお願いした。
おかみさんに買物はどこに出るのか聞くと、「佐賀です!!」との返事。
大牟田か久留米と思っていたので驚いた。
大牟田、久留米と佐賀は同じ距離で、車なら30分位で行けるとのこと。
帰宅後、地図を見ると、佐賀空港はもっと近くにあり、佐賀とは鉄道は繋がっていないが、
車ならもっとも良いショップが出来る。
市のホームページでも、明治初期、現在の佐賀県と筑紫地区とが短い期間であったが、
一つの県を形成されていたとある。
今では考えられないが、戦国時代から江戸時代の柳川は北に福岡城、南に熊本城、
西に佐賀城、東に大分府内城があるその中心地にあり、九州の大名にとって、
極めて重要な要衝だったのである。
そうしたことから、九州を制覇した豊臣秀吉は、
九州征伐に貢献した立花宗茂に当地を与え、
徳川家康は三成の首を取った田中吉政に筑紫一国を与え、
外様大名の監視をさせた。
西軍に組した立花宗茂を改易したのに、笠間藩の大名にし、田中氏が無嗣改易後、
この地を与え、十万石もの厚遇を与えたのは立花宗茂という武将が九州の押さえとして
如何に重要であったことを物語っている。
地元では大河ドラマにという運動もあるが、ぬべなるかな、と思った。
川下りは出来なかったが、柳川が江戸時代、
商人の町としても繁昌したのはこの場所に位置したことにあることが確認できたので、満足である。