mrmaxの城めぐり 沖縄県1 (首里城)


沖縄は明治十二年に沖縄県として日本に併合されるまで、 四百五十年の長きにわたり続いた琉球王国である。 
首里城は琉球王国の栄華を伝える華麗な王城で、日本100名城の第100番に選定された。 
首里城玉陵は、第二尚氏の尚真王が父尚円王の遺骨を改葬するために築いた陵墓である。 


かうんたぁ。




首里城

平成二十七年(2015)二月二十日、首里城を訪れた。 
首里城は那覇市内を見下ろす丘の上にあり、 首里城公園として約十八万uの敷地になっている。 

「 沖縄では城のことを「ぐすく」というが、 沖縄に城が誕生したのは集落が形成され、 それを束ねる按司(あじ)と呼ばれる
リーダーが現れた十二世紀以降のことである。 
最初は小さな城が二百以上造られ、互いに競い合ったが、 やがて北山、中山、南山の三つの国に統一された。 
三山時代はしばらく続くが、十五世紀に入ると、尚氏の中山王が沖縄本島を統一し、 中国に朝貢し琉球王と認められて、琉球国が誕生した。 
首里城は、琉球王の居城として、十四世紀末に創建された、 中国や日本の文化が混合する琉球独特の城である。 
しかし、明治に入ると、琉球国は日本に併合され、城主の尚氏は東京へ移住させられた。 
首里城は、大正十四年に国宝に指定されたが、昭和二十年の沖縄戦で焼失。  昭和四十七年(1972)五月十五日に、沖縄が、 本土復帰した時はわずかに守礼門(しゅれいもん)と園比屋武御嶽石門と円覚寺総門、 弁財天堂があっただけで、首里城周辺は沖縄戦により完全に焼け落ちていた。
日本政府は沖縄の本土復帰を後押しするため、首里城の復元を進めて来た。 」

「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されたのは、復元された本殿ではなく、首里城の城壁と園比屋武御嶽石門などである。 
観光客で賑わう守礼門は、首里を東西に貫く大通りの綾門大道の東側にある楼門で、 本土の城なら城の大手門に相当する門である。 

「 沖縄戦で焼失したが、県民の強い希望により昭和三十三年(1958)に復元され、 現在は沖縄県指定有形文化財である。 
扁額には「守禮之邦」とあり、 「琉球は礼節を重んじる国である。」という意味を持つ、 中国の使者への外交上のメッツセージが書かれている。 
中国からの冊封使が琉球に来た際には、琉球国王以下の高官らが守礼門まで出迎えて、 三跪九叩頭の礼をとっていた。 
扉を持たない中国の牌楼洋式の門を基にしているが、 柱は四本、二層の屋根を持つ赤瓦は琉球独自のもの。  まさに沖縄を代表する建築物である。 」

園比屋武御嶽石門は、首里城の歓会門と守礼門との間にある石造りの門で、 昭和四十七年(1972)に国の重要文化財に指定され、 平成十二年(2000)には首里城跡などとともに、 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。

「 石門の背後にあるのが園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)である。 
御嶽石門は御嶽の礼拝所である。 
園比屋武御嶽は、第二尚氏第三代王・尚真のとき(1519) 、 首里に連れてこられた西塘により創建されたという。 
御嶽(うたき)は、国王が各地を巡航する旅に出るにあたり、 必ず拝礼した場所で、 最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)が就任する際に最初に拝礼する聖域で、 王家尚氏ゆかりの島・伊平屋島の神・田の上のソノヒヤブを勧請し、祭っている。 
御嶽はかっては広範な森だったが、現在は小学校の敷地になり、小さなものになっている。 
昭和八年(1933)に国宝に指定されたが、沖縄戦の戦禍によって王城などとともに荒廃したため、 指定が解除された。  昭和三十二年(1957)に復原されたが、 その後、旧石門の残欠を再利用して修復作業が行われたといわれる。 
石門を注意深く見てみると、明らかに摩耗の度合いが異なる部分があるのは、このためである。 」

首里城城壁
     守礼門      園比屋武御嶽石門
首里城城壁
守礼門
園比屋武御嶽石門



御嶽石門を過ぎると、あまへ御門(うじょう)と称される首里城の正門である歡會門(かんかいもん)に出る

説明板「歡會門」
「 首里城の城郭内に入る第一の正門です。  中国皇帝の使者「冊封使」などを歓迎するという意味で、この名がつけられました。  「あまへ御門」ともいいます。  「あまへ」とは沖縄の古い言葉で「歡んで迎える」を意味しており、歡會はその漢訳です。  門の両側の一対の獅子像「シーサー」は魔除けの意味をもっています。 
1500年前後に創建、沖縄戦(1945年)で焼失、1974(昭和四十九)年に復元されました。 」

歡會門をくぐると、龍樋、冊封七碑と瑞泉門がある。

説明板「龍樋、冊封七碑と瑞泉門」
「 石段の途中の右手に泉があります。 龍の口から水が湧きでていることから、 龍樋という名があります。  龍の石彫刻は、いまから約500年前の1523年に中国からもたらされた当時のままのものです。 
龍樋の水は、王宮の飲み水として使われました。  また、中国からの使者「冊封使」が琉球を訪れたとき、 那覇港近くにあった宿舎「天使館」まで毎日この水が運ばれたといいます。 
この周辺の石碑は、龍樋の水の清らかさを賞賛した冊封使たちの書を刻んだもので、 冊封七碑と呼ばれています。  沖縄戦でほとんどが破壊されましたが、拓本をもとに1996(平成8)年に復元されました。
石段上の門は瑞泉門(ずいせんもん)で、 その名は龍樋の水が瑞泉(りっぱな、めでたい泉の意味)と讃えられたことに由来します。  別名「ひかわ御門」ともいいます。  「碑」は樋(とい)のことで、「かわ(川)」は沖縄では井戸や泉のことをさします。  さきほどの歡會門とちがい、双璧の石門の上に櫓がのっています。  この形式は日本本土の主な城の門と共通しています。  創建は1470年頃。 沖縄戦で焼失し、1992(平成4)年に復元されました。 」

歡會門
     瑞泉門嶽      龍樋
歡會門
瑞泉門
龍樋



その先に漏刻門がある。 

説明板「漏刻門(ろうこくもん)」
「 漏刻とは、中国語で水時計という意味です。  この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。  門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、 太鼓をたたいて時をしらせていました。 
別名「かご居せ御門」ともいいます。  駕籠で登城することが許されていた身分の高い役人も、 国王に敬意を表しこの門で駕籠から下りたということからそのように呼ばれました。  創建は15世紀頃。 老朽化のため昭和初期には撤去されていたものを1992(平成4)年に復元しました。 」

漏刻門をくぐると右側に赤い建物の広福門がある。

説明板「広福門」
「 広福(こうふく)とは「福を行き渡らせる」という意味です。  建物そのものが門の機能を持っているのが特徴です。 
門の正面に向って左側は、士族の財産をめぐる争いを調停する「大与座(おおくみざ)」、 右側が神社仏閣などを管理する「寺社座」という役所になっていました。  創建年は不明。 明治末期頃に撤去され、1992(平成四)年に復元されました。 」

左側の一段高いところに日影台と供屋がある。 

説明板「日影台(ひかげだい)」
「 漏刻が水時計であるのに対し、日影台は日時計のことです。  琉球王朝時代、首里城では日時計を用いて、正午およびその前後の時刻をはかり、 また漏刻でくわしい時刻をはかったといわれています。 
日影台は、十二支が刻まれた時刻板(石の円盤)に銅製の棒が取り付けられ、 その日影によって時刻をはかれるようになっていたと推測されます。
沖縄戦で破壊されたものを、2000(平成12)年にかっての形態に復元。  日影台の示す時(地方太陽時)は、日本標準時に対して約30分遅れています。 」

漏刻門
     広福門      日影台
漏刻門
広福門
日影台



広福門をぬけると広場で、身を乗り出すと首里城の門と石垣、 その先に見えるのは那覇市内のコンクリートで出来た住宅とビルである。 
朱色の琉球瓦の建物があり、「万国津梁の鐘と供屋」の説明板があった。 

説明板「万国津梁(ばんこくしんりょう)の鐘と供屋(ともや)」
「 万国津梁の鐘は、1458年に鋳造され、首里城正面の前にかけられていた銅鐘です。  万国津梁とは「世界に架ける橋」という意味です。  鐘には「琉球王国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国と日本の間にあって、 船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である」 という主旨の銘文が刻まれており、 往時の海洋王国としての誇らしい心意気が示されています。  ここに展示している鐘は沖縄県立博物館所蔵の実物をもとに、鋳造当時の状態に複製したものです。 建物は供屋という施設ですが、往時の具体的な使われ方はわかっていません。  いずれも2000(平成12)年に復元されました。 」

広場の右側にあるのは首里森御嶽で、首里城にある御嶽の一つである。 

説明板「首里森御嶽(すいむいうたき)」
「 首里森とは首里城の別称で、御嶽とは沖縄の聖地または拝所のことです。  琉球の神話では、この御嶽は神が造った聖地であり、首里城内でもっとも格式の高い拝所の一つです。  城内にはここをふくめて「十嶽」と呼ばれる10ヶ所の拝所があったといわれています。 
国王が城外の寺社に出かけるときにこの御嶽で祈りをささげ、神女たちが多くの儀礼を行いました。 
石積内の植物はガジュマルやクロツグです。 1997(平成9)年に復元されました。 」

広場からの風景
     供屋      首里森御嶽
広場からの風景
供屋
首里森御嶽



下図は、首里城図である。 

左下にこれまで歩いてきた、歡會門、瑞泉門、漏刻門、広福門があり、 中央奥の褐色の建物群は首里城の本殿などの建物(火災により焼失して現在はない)である。 
その(奉神門)右側にある広場は、「下之御庭(しちゃぬうなー)」と呼ばれている。 

「 正殿前の御庭(うなー)に対し、「下の庭」という意味である。 
正殿前でおこなわれるさまざまな儀式の控えの場であった。 」

広場の中央右側に首里森御嶽、手前側に系図座・用物座がある。 

「  系図座は、士族の家系図を管理していた役所である。 
用物座は、城内で使用する物品などを管理した役所である。 

首里城図
首里城図



下之御庭の正面にある赤い建物が奉神門(ほうしんもん)である。

説明板「奉神門」
「 奉神とは、「神をうやまう」という意味です。  別名、「君誇御門(きみほこりうじょう)」ともいいます。 
向って左側は薬・茶・タバコを扱った「納屋(なでん)、 右側は城内の儀式などに使われた君誇(きみほこり)という部屋になっていました。  3つの入口のうち、中央は国王や中国の冊封使などの身分の高い人だけが通ることができました。  1992(平成4)年に復元されました。 」

奉神門の前に陶器が埋められていた。 

説明板「奉神門前の天水甕」
「 奉神門前の下之御庭には、少なくとも4基の大きな甕が地中に埋るように設置されていた。  その状況は古写真や絵図資料に表現されており、発掘調査でも確認されている。  古文書には天水甕と記されているので、消防用の水を貯めていたのではないか、 と推測されている。  天水甕の復元にあたっては、遺構と規模・形態などが類似する陶器(壺屋焼)の事例を参考に、 発掘調査で確認された位置に設置されている。 」

奉神門をくぐると広い広場に出る。 その奥に正殿がある。
広場は御庭(うなー)と呼ばれる広場である。 

説明板「御庭(うなー)」
「 御庭は一年を通じて様々な儀式がとり行われた重要な空間でした。  御庭では元旦の儀式など重要な祭事や、 中国からの使者を迎える儀式をはじめとした外交上の儀式などがおこなわれました。 
中央の道は「浮道」といい、国王や冊封使など限られた人のみ通ることができました。 
中央の浮道の左右に帯状に敷かれているタイルは磚(せん)という敷瓦で、 この色違いの列は儀式のときに諸官が位の順に並ぶ目印になっていたが、 このような工夫は首里城独特のものでした。  」

奉神門
     天水甕      御庭 正殿
奉神門
天水甕
(手前)御庭 (奥)正殿



首里城は本土復帰の記念事業として十八世紀頃の姿を基に復元作業が行われ、 正殿が完成したのは平成四年、その後、南殿、番所、書院、鎖之間などが復元された。

正殿は、琉球国王の政務やさまざまな儀式が行われた建物である。

「  正面の手前に低い石段があるが、石段が始まる両脇には龍の彫刻の石柱がある。 
これを「大龍柱」といい、その奥(石段の終わるところ)にも一対の「小龍柱」がある。 
大龍柱は高さ4.1m(龍柱3.1m、台座1m)で、吽形と阿形の対になっている。
正面屋根下の唐破風妻飾には、中央に火焔宝珠と大かえる股、 両脇に金龍と瑞雲の彫刻が施されているなど、 首里城の中心的な建物にふさわしい装飾がほどこされていた。 」

右側の手前建物は番所(ばんどころ)で、奥の二階建の建物は南殿である。 

「 番所は城内の取次をする受付的な役割をもつ建物であった。
南殿は、別名「南風の御殿(はえのうどうん)」ともいい、日本式の年賀・節句などの行事、 薩摩藩の役人の接待がおこなわれた。 創建は十七世紀前半で、日本風の建物になっていた。  二つの建物とも彩色はされていませんでした。  」

左手の建物は、北殿で、「北の御殿(にしのうどうん)とも呼ばれていた。 

「 琉球王国の行政組織は「首里王府Iと呼べれ、 国王を頂点に、摂政1名、三司官3名などの首脳部がおり、 その下に様々な名称の役所が置かれていました。  各役所の首脳クラス15名で組織される審議機関が「表十五人」で、 行政上の問題を検討して、三司官に上申しました。 
摂政・三司官の詰める役所が北殿で、王府の中央政庁として、大勢の役人が出入りしていた。 
また、中国からの「冊封使」をもてなす宴はここで催された。 
江戸時代末期に、アメリカ海軍のペリー提督が黒船をひきいて琉球を訪れた時にも、 ここで式典がおこなわれました。 
創建は十六世紀初めで、中国風の建物になっていた。 」 

正殿
     南殿と番所      北殿
正殿前の両側に大龍柱
(奥)南殿(右手前)番所
北殿



番所は一階平屋建てで、首里城に登城してきた人々の取次を行っていた。 
番所から中に入ると、その先に二階建ての南殿があり、 ここでは、年間を通して行催事などが行われ、 薩摩藩の役人の接待を行う場所としても使用されていた。  また、右側に連結た建物には御書院と鎖之間、そして、庭園があった。 

説明板「御書院・鎖之間と庭園」
「 御書院は、国王が日常の執務を行った建物であり、 取り次ぎ役や近習など側近がその周辺に控えていた。  三司官は取り次ぎ役を通じて国王に面会し、報告を行うとともに指示を仰いだ。  また、中国皇帝の使者(冊封使)や那覇駐在の薩摩役人を招き、ここで接待を行うこともあった。 
書院の右奥にある狭い部屋は鎖之間で、王子などの控所であり、 また諸役の者たちを招き、懇談する施設だった、といわれる。 
庭園は書院・鎖之間と一体をなす重要なもので、城内では唯一の本格的な庭である。  書院に招かれた冊封使たちはこの庭園の魅力を讃える歌を詠んでいる。 
建物と庭園が造られた時期は、十七〜十八世紀頃と推定されている。  
建物と庭園の復元は、遺構発掘調査の成果や古絵図・配置図、 明治期から昭和初期までの古写真などの根拠資料に基づき、 有識者等で構成する専門委員会の工事監修を得ながら行われた。  建物は2007年1月に、庭園は2007年7月に、復元されている。 」

書院の裏座には「内炉之間」があり、ここでお茶が点てられた。
御茶之間は、茶道具一式を用意した場所である。 

御書院と庭園
     御書院      内炉之間
御書院と庭園
御書院
内炉之間



下図は正殿周辺図で、朱色の分は正殿、赤紫は御内原(おうちばら)と呼ばれた、 江戸城では大奥と呼ばれたところである。 
その下の薄緑の書院に接続し、奉行詰所・御物當詰所があった。 
また、図では近習詰所が南殿の一部になっていて、 今回訪問した時は黄金御殿への通路のようになっていたが、 かっては下の写真のような二階建ての細い建物が建っていた。

説明板「近習詰所」
「 近習詰所は、近習頭や近習役、筆者、側近など、 約二十名あまりの役人が詰めていた場所である。  その役人たちは、 国王の朝夕の雑用や居住空間である御内原(おうちばら)からの出入りに付き添っていた、とされる。  建物は南殿の東側に隣接し、南殿や黄金御殿などと二階部分で連結していた。  その内部には、鈴引と呼ばれる小座敷や御茶煮詰(おちゃにーづめ)と呼ばれる部屋が あった。 建物の創建年は不明である。 
現在の建物は、遺構・古写真・小地図などの関連根拠情報に基づき、整備され、 連絡路、展示場として使用されている。 」

正殿周囲図
     二階建ての近習詰所      現在の近習詰所
正殿周囲図
かっての近習詰所
現在の近習詰所



近習詰所の右手には奥書院があった。 

説明板「奥書院」
「 奥書院は国王が執務の合間に休息した場所である。  建物の規模は三間X三間半(5.46mX6.37m)で、 国王の部屋の他に奥書院奉行の控えの部屋があったとされる。  建物の創建時期は不明であるが、1715年頃に再建したという記録がある。 
往時の奥書院は北側の近習詰所や西側の御物当詰所につながっており、 東側には刈銘御嶽が隣接し、南側には庭園があった。 
現在の建物は、遺構・古写真・古地図等の関連根拠情報に基づいて復元されている。 
  建築構造= 木造平屋建て、寄棟造、本瓦葺  
  主な木材 = 日本ヒノキ  
  石 材 = 基壇 : 琉球石灰岩 礎石: 細粒砂岩(方言名ニービヌフニ)   」

奥書院の王様の部屋から庭と石垣が見えた。 

説明板「奥書院庭園」
「 この庭園は、国王が執務の合間に休息した奥書院の庭です。  つくられた時期は、建物と同じく17〜18世紀頃と推定されます。  絵図資料や古写真などから、物見に至る斜面に庭石を巧みに配した規模の小さな庭であったことが わかります。  書院・鎖之間庭園が表向きの庭であったのに対し、 プライベートな庭となっていました。 
発掘調査では、この庭の主景とされる鍾乳石が出土しました。  この鍾乳石(欠陥箇所を部分的に修復)を中心に、城内で出土した石材も利用して、 古写真及び絵図資料をもとに、庭園を復元しました。 
庭園内の植栽については、古写真に写る植物から、 当時植えたと考えられるリュウキュウツワブキ、オオタニワタリなどを選びました。 」

復元された奥書院
     かっての奥書院      奥書院と庭
復元された奥書院
かっての奥書院
奥書院と庭



奥書院の庭の石段の先にあるのは、 刈(正式にはくさかんむりの下に刈という文字)銘御嶽である。 

説明板「刈銘御嶽(かわるめうたき)」
「 御嶽おは、聖地・拝所の総称で、信仰や祭祀の重要な対象である。 
首里城には数多くの御嶽があり、そのなかのひとつが刈銘御嶽である。  城内の御嶽はかって、 王家繁栄や航海安全、五穀豊穣などの儀式を行う重要な場所であった。 
復元にあったっては、明治時代の測量図や現地に残る遺構に基づき整備されている。 」

近習詰所の建物に戻り、先に進むと黄金御殿(くがにうどうん)で、 「内原の女性たち」という説明板があった。 

説明板「内原の女性たち」
「 御内原では、王妃・王夫人・王妻の他に、十三歳前後の独立する前の王子、 結婚前の王女をはじめ、王の母親・祖母などが居住していた。  また、王の乳母や王子・王女の乳母もいた。  御内原に仕える女性は、王妃・王夫人をとりまく 「御側御奉公(うすばぐふーくー)」と称する士族の婦女グループと、 多岐にわたる宮廷職務を分掌する「城人(ぐすくちゅ)」と総称される女官グループに 大きく分かれていた。  御側御奉公は、王・王妃・王夫人の近親者から選ばれ、王妃・王夫人の世話をしていた。  城人は、身分に関係なく都市・地方から選ばれ、国王とその家族の世話をしていた。 」

黄金御殿(くがにうどうん)は、国王や王妃・王母のプライベートゾーンといえる建物で、 二階には居間や寝室があったという。 
赤い漆の格子の部屋は「おせんみこちゃ」である。 
ここは正殿二階の南東の隅の部屋である。
国王、王妃の居間・寝室にあたる「黄金御殿(くがにうどうん)と正殿の南側が隣接し、 二階部分は廊下で、正殿と繋がっていた。 

説明板「おせんみこちゃ」
「 ここは「おせんみこちゃ」と呼ばれる部屋で、国王みずから女官とともに、 毎朝東方に向って拝んでいたところである。  「御床」は神棚として神霊が祭ってあり、女官は抹香を焚いて「火の神」などを拝礼していた。  身分の高い神女の任命儀式なども、国王、王妃臨席のもとに、ここで行なわれた。 
18世紀の正殿の修理記録には、「御床」の両脇の柱は黒漆、壁は黄漆などと記されている。 」

窓越しに見えた庭は黄金御殿庭園である。 

説明板「黄金御殿庭園」
「 この庭園は、黄金御殿の2階の東側にあり、地表から石を高く積みあげて、 2階部分で約六坪(18u)の四角の広場を造り、周囲を瓦石垣で囲んでいる。 
琉球王朝時代の庭園の様子がわかる資料は残っていない。  しかし、黄金御殿が撤去された後の昭和10年頃の古写真が残っており、 現在の庭園を整備する上での参考資料としている。 」

刈銘御嶽
     おせんみこちゃ      黄金御殿庭園
刈銘御嶽
おせんみこちゃ
黄金御殿庭園



正殿二階は大庫理(うぶぐい)と呼ばれる場所で、日常的には王妃や身分の高い女官たちが使用した空間である。

「 正殿の裏側一帯は「御内原(みうちばら)」と呼ばれ、 国王の家族や女官の生活の場として、多くの建物が建てられていた。 
「御内原」や正殿2階を含むこの一帯は女官が管轄しており、 男子禁制の領域であった。 」

正殿二階は一階に比べて、天井が高く、各部屋の装飾も豪華である。 
二階の御差床は国王の王座として様々な儀式や祝宴が行われたところである。  玉座である御差床の上部には中国皇帝より贈られた御書の扁額がいくつも掲げられていた。 

「 正殿二階中央にある御差床(うさすか)は格式の高い儀式に使用し、 「唐玻豊(からはふ)」は、 正月の儀式や中国皇帝への親書(上表)を送る時などに、国王が唐衣装で椅子(御轎椅)に座り、 御庭(うなー)に並ぶ諸官とともに儀式を執り行った重要な場所で、 背面には「中山世土」の扁額が見える。 
  御庭からこの部屋を眺めると、 唐破風造の屋根や龍の飾りに囲まれた格式ある空間となっている。 」

二階の御差床の正面には御庭に面した小部屋があり、 正月の儀式の時など、国王が椅子(うちゅうい)に座り、 御庭に並ぶ高官の謁見を受けた。 
正殿の一階は、国王みずから政治や儀式を執り行うところで、 「下庫理(しちゃぐい)」と呼ばれていた。 
正殿にはさまざまな彫刻で飾られるが、向拝部奥小壁には立体的に彫られた獅子と金龍もその一つである。 
また、正面の柱には国王の象徴である吽形と阿形の龍が対になって描かれていて、 頭棟飾りなどあざやかな飾りと威風堂々とした造りになっている。
広場中央の一段高い床が国王の玉座「御差床(うさすか)」である。   

説明板「1階御差床」
「 中央の一段高い床が正殿で行われる政治や儀式の際に、 国王が出御する王座「御差床(うさすか)」である。  この裏側には2階に通じる階段があり、国王はこの階段を降りて御差床についた。  左右には国王の子や孫が着座した平御差床がある。 
御差床の両脇の朱柱には金龍と五色の雲が描かれ、 天井は丸く上部に折れ上げて格式を持たせている。  記録によると、平御差床の床の間には麒麟、鳳凰の画が掛けられていた。 」

二階の御差床
     国王の座した椅子      一階御差床
二階の御差床
国王の座した椅子(うちゅうい)
一階御差床




二階へ行き来する階段にはそれを隠す戸が付いていて、その左に平御差床があった。 
正殿は「百浦添御殿(ももうらそえうどん)」と呼ばれ、首里城の中心的な施設である。  建物は三階盾で、一階(下庫理)は国王みずから政治や儀式を執り行う場所、 二階(大庫理)は国王や親族、神女たちが儀式などを行う場所、 三階は通風を目的とした屋根裏部屋であった。 
正殿の建築は、ところどころに中国の宮殿建築の影響が見受けられるが、 構造や細部の意匠は日本の建築様式を取り入れており、 琉球独特の表現となっている。  発掘調査から、14世紀末の創建と推定されている。  その後、現在の位置で、数度の焼失、再建が繰り返されてきた。  復元された建物は、18世紀初めに再建され、沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルにした ものである。 

冊封使一行が入国した時は、広場の御庭(うなー)に建物を建て、国王はその前で、 臣下と共に出迎えた。 
帰り道に見える淑順門は国王やその家族が暮らす御内原への表門で、別名「みもの御門」「うなか御門」ともいい、 門の造りは櫓門形式・入母屋造、本瓦葺となっている。 
そこから奥を見ると今も復元作業が続けられていてことが分かる。 
久慶門は昭和五十九年(1984)に再建されたものである。 
ここを出ると城外で近くに円覚寺総門と放生橋、弁天堂と円鑑池などがある。 

二階への階段
     冊封使を迎える儀式      淑順門
二階への階段
冊封使を迎える儀式
淑順門




首里城は令和元年(2019)十月三十一日午前二時過ぎに、正殿から出火し、 隣接する北殿と南殿、書院・鎖之間、黄金御殿、二階御殿、奉神門にも延燃し、 正殿は全焼してしまいました。 
従って、上記の首里城の記述の内、奉神門からの先の記載は今は見ることができなくなっています。 
誠に残念なことです。 




再び、沖縄を訪れた。

令和三年(2021)十月二十八日〜三十日、二泊三日の沖縄旅行を行った際、 最終日に国際通りと首里城玉陵を見て、帰宅した。 

国際通り

コロナは九月下旬には少なくなり、緩和処置に移行していたが、 沖縄は患者数はなかなか減らず、行きの飛行機の乗客はまあまあだったが、 帰りの一八時発の飛行機は二割ほどで、観光客が少ないと痛感した。 
最終日は南部の平和祈念公園、ひめよりの塔を見学し、 糸満で道の駅を訪れた後、レンタカーを空港営業所で返し、ゆいレールで県庁前駅まで行き、 国際通りを歩いたが、ステーキ屋など食べ物屋がほとんど休業していた。 
アイスを買った店の話では、二年前から休業し、支給金で生活している店が多い、とのこと。  内地と違い、「なんとかなるさあ!!」という気質のうちなんちゅうではこの方がよいのかも しれない、と思った。 
沖縄の本土復帰当時に仕事で毎月沖縄へ出かけていた小生は、 仕事に関係無くなったあとも、何回か訪れているが、沖縄の本土化の動きはすざましい、と 思っている。 
今や国際通りは観光地というよりもビジネス街に変貌を続けており、 特に県庁北口から松尾交叉点まではこの傾向は続くと思われる。 
三越も撤退し、バス停に名を残すのみで、跡地は国際通りのれん街になっていた。 
沖縄に訪れる日本人は那覇以外の地で沖縄の海の素晴らしさを感じ、そこを拠点に移動し、 那覇では宿泊のホテルとして利用する程度になっている。  唯一の公設牧志市場建て替えで、仮設営業になっており、目玉の首里城も焼けてしまった。 
外国人の来日目的は免税店であるが、これは空港でも対応ができるので、 コロナが終わっても、国際通りのかってのような賑わいは難しいのではないか?
訪れたのは土曜日の昼頃であるが、通りには人がほとんどいなかった。 
ホテルの数が増えたなあ、と思いながら、人数の少ない国際通りを歩き、 国際通りのれん街に入り、昼飯を食べ、牧志まで歩いた。 

国際通り
     国際通り      桜坂商店街
国際通り
国際通り
桜坂商店街(牧志市場入口)




首里城 玉陵

沖縄滞在中、首里城の修復計画がテレビで取り上げられていて、 来年より工事が始まるという。  前回の本殿の復元では台湾ヒノキが使われたが、今は伐採が禁じられているので、 国内のヒノキが使われるとのこと、また、ベンガラを名護の近くで生産するなど、 色々な試みが行われるようで、楽しみである。 
飛行機の時間に余裕があったので、 前回訪れなかった首里城の王陵(たまうどん)に訪れることにした。 
ゆいレール牧志駅からモノレールに乗ると、下に那覇市のコンクリートで造られたビルと住宅が ぎっしり連なっているのが目に入る。  これだけコンクリートの家があるのは世界でも例がないのではないか?

牧志駅
     ゆいレール      那覇市街地
牧志駅
ゆいレール
那覇市街地



首里駅へ到着し、バスで首里公園入口バス停まで行くのだが、 当日は土曜日でバスが少なく、行ったばかりで、 20分程待って乗ると10分程で首里城公園入口バス停に着いた。 
池端交叉点から坂道を上って行くと、首里城前の交叉点を越えた左手に玉陵の入口があり、 中に入ると右上に入場券売場があり、地下は資料館になっている。 
資料館の前の道の反対に「史跡 玉陵」の石碑がありその下に以下の説明が書かれている。 

「玉陵(たまうどうん)」
「 第二尚王家歴代の陵墓であるこの玉陵は、 首里城への要路綾門大道(あやじょううふみち)に臨み、東は天界寺に隣接するなど、 重要な位置にあります。 墓陵内は、琉球石灰岩の高い石垣によって囲まれ、 全ての庭には珊瑚砂利が敷きつめられています。  東室、中室、西室の三基に分かれた墓堂は、自然の岩壁をうがち、 外部を切石積の家型とした沖縄特有の形式をもつ墓陵といえます。  中室は、洗骨までの間、霊柩を安置するのに使用し(シルヒラシ)、 東室には洗骨後の王および王妃、西室にはそれ以外の家族の遺骨を安置したと、 伝えられています。  また、前庭左側に西面して建つ「たまおどんのひのもん」 (尚真王二五、大明弘治一四年1501)には、陵墓にまつわる当時の事情が伝えられいます。 
その他、墓頂にある雄雌の石獅子や墓室前の高欄などからも琉球文化の粋をしのぶことができます。 
  文化庁   沖縄県教育委員会  
    昭和六二年三月       」

その先に進むと右側にがじゅまるの樹木が茂るが、「西の御番所」の説明石がある、

「西の御番所(いりのうばんじゅ)」
「 王府時代の歴史をつづった「珠陽(きゆうよう)」によれば、 1748(乾隆13)年、初めて玉陵門外の左右に御番所を建て、 2人の御番役を任命したことが記されています。 
また、1901(明治34)年の記録によると、琉球最後の国王であった尚泰(しょうたい)の葬儀の折、 東西の御番所が近親の親族や僧侶の控所となったことなどが記されています。 
ここ西の御番所には、太平洋戦争まで、格式のある家柄から選ばれた御番役が住み込み、 御掃除人を使って、日常の管理を行っていました。
(中略)    
しかし、発掘調査の結果、西の御番所の遺構は、発見できませんでした。 」

玉陵の入口
     史跡 玉陵碑      がじゅまるの樹
玉陵の入口
史跡 玉陵碑
がじゅまるの樹と西御番所跡



その先の右側に琉球石灰岩の高い石垣が見える。 
門の道の反対側に「遙拝所」と書かれたところがあり、かってはここで参拝していたのであろう。 
中に入ると、四方が石垣に囲まれた空間で、正面には墓陵に入る門があり、 まっ白い珊瑚砂利が敷きつめられた前庭である。 

玉陵の石垣
     遙拝所      玉陵の庭
玉陵の石垣(右奥)
遙拝所
玉陵の庭



入口の左手には「玉陵碑」が建っていた。 

「 この石碑は弘治十四年(1501)に建てられたもので、 王陵に葬られる人々を規定したものである。  尚真王ほか八人の名が記され、この書き付けに背くならば、 「天に仰ぎ、地に伏して祟るべし」と結んでいる。  碑文には尚真王の長男・次男の名が記されておらず、 王室内に勢力の対立があり、廃されたと考えられている。 」

屋根瓦の敷かれた門をくぐると、正面の石段の上の両側の高欄に小さな獅子像が祀られている。 
その先に閉じられた門のあるところが中室である。 

「 玉陵が使用された時代は、棺を墓室内に安置して、 数年した後に遺骨を洗い清めて改葬する「洗骨」という葬法が主流であった。  中室は洗骨前の遺体を安置する場所である。 」 

玉陵碑
     入場門      中室
玉陵碑(たまおどんのひ)
入場門
中室



左角より、墓陵全体を写した。
墓陵は、自然の岩壁をうがち、切石積の家型とした墓室で、左側が東室、 その隣の筒塔の右側が中室、その右側の家型が西室である。

「 墓域は2442uで、 全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を模した石造建造物である。 
創建当初の東室は洗骨後の王と王妃、 西室には墓前の庭の玉陵碑に記されている限られた家族が葬られた 。 
現在は、三十七基の遺骨を納めた厨子が置かれており、 尚円王から続く歴代国王と王妃四十人が眠っている。 
(注)2代尚宣威と7代尚寧は葬られていない。」

墓陵は、沖縄戦で大きな被害を受けたが、 昭和四十七年(1972)の沖縄返還に伴い、国の史跡に指定され、 昭和四十九年(1974)から三年余りの歳月をかけ、修復工事が行われ、 往時の姿に修復された。 

玉陵
玉陵(たまおどん)



厨子は、本来、仏像や経典などを納める容器を指すが、 沖縄では遺骨を納める蔵骨器のことを厨子と呼ぶ。 
資料館に、東室の厨子の写真が掲げられてあった。

「 厨子は、石や陶器で作られたものが多く、 その形も家形と甕形を中心に多様な形と装飾が見られ、沖縄独特の発展を遂げた。  洗骨した遺骨を納めたことから、本土の火葬用の骨壷に比べ、大型のものが多い。  」

墓陵の左側の頂上には石獅子が鎮座していて、右側の筒塔の上にも獅子がいて、 雄雌の石獅子のようだった。 
墓陵を出て、奥にある琉球瓦の建物を見る。 
東の御番所の建物を復元したものである。 

説明石「東の御番所(あがりのうばんじゅ)」
「 御番所は、法事の折には国王の控所として使用されました。  ところが、太平洋戦争直前には、2間(約360p)四方ほどの大きさしかなく、 国王の葬儀に使用するがん(遺骸などを運ぶ御輿のようなもの)や、 その他の道具類を保存する倉庫として使用されていたようです。 
平成12年(2000)に発掘調査を行ったところ、東西約18m、南北約12mにわたり、 柱を支える礎石や建物の周囲に巡らされた石敷、便所跡などの遺構が発見されました。  さらに、瓦や釘、中国製の青磁や染付、壺屋焼の陶器などの破片も出土しました。 
驚いたことに、西の御番所の部屋割を描いた図を反転させると、 ほぼ柱の位置が一致することがわかりました。  そこで、遺構と写真などを元に分析し、東の御番所を復元しました。  復元にあたっては、砂などで遺構を保護し、元の面よい約45p上げて整備を行っています。 」

以上で、玉陵の見学は終了した。 
隣にレストセンター首里杜館があり、守礼門や首里城も近いが、 首里城の焼跡を確認ないだろうと、ここで終了することにした。

東室の厨子
     雄雌の石獅子      東の御番所
東室の厨子
雄雌の石獅子
東の御番所



首里城へは、ゆいレールでは「儀保駅」、「首里駅」から徒歩約15分  
バスでは那覇バスターミナルから「46番 糸満西原線(鳥堀経由)」で約20分、「首里公園入口」下車、徒歩約5分  
日本100名城の首里城のスタンプは首里杜館、系図館・用物館、北殿のいずれかにて 
首里杜館 ( 那覇市首里金城町1−1 7月第1水と木休 4月〜6月8時〜20時、7月〜9月8時〜21時、10月〜3月8時〜19時 )
系図館、用物館 ( 那覇市当蔵町3  休館日と営業時間は首里杜館と同じ )
北殿 ( 那覇市当蔵町3 7月第1水と木休  4月〜6月8時〜19時、7月〜9月8時〜20時、10月〜11月8時〜19時、12月〜3月8時〜18時 )
 




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