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入城すると「世界遺産登録資産の石垣石材」の説明板があり、 その近くに「首里城跡の石材」、「勝連城跡の石材」、「中城城跡の石材」の標板と岩石が置かれていた。
説明板「世界遺産登録資産の石垣石材」
「 「琉球王国のグスク及び関連遺産群」 として世界遺産に登録されたグスクは、
今帰仁城、首里城跡、勝連城跡、座喜味城跡、中城城跡の5つの遺跡があります。
いずれのグスクも城壁は石垣で築かれています。
石垣の構築技術は、中国や朝鮮など大陸からの影響と考えられていて、
これを琉球独自に発達させたものとされています。
この石垣には石灰岩という石が使われていますが、
それぞれのグスクが立地する土地によって石灰岩の種類が異なるため、
各城で個性ある石垣が築かれています。 」
今帰仁村文化センターによると、
「 今帰仁城は、沖縄の他のグスクはよくみられるような白い石(琉球石灰岩)ではなく、
硬く割れにくい古期石灰岩でできた城壁で、地形に沿って曲りくね、
雄々しく立ちはだかっている。 」 という。
なだらかな坂になっていて、上っていくと道の右側に今帰仁城のジオラマがあった。
「 沖縄では十一世紀頃から農耕が始まり、集落を束ねる按司(あじ)が台頭。
十三世紀頃になると、勢力争いが生じて、グスク(城) が造られるようになった。
なかでも北部地域で強力な力を誇った今帰仁グスクの按司が、本島北部各地の按司を束ね、
十四世紀前半に北山王国が誕生した。
中国の史書に 「 琉球国山北王(はにじ)、中山(みん)、南山(はんあんち)」の三王が登する。
この頃の沖縄本島は、北部地域を北山、中部地域を中山、
南部地域を南山が、それぞれ支配した「三山鼎立の時代」であった。
北山王は沖縄島の北部を支配下とし、運天港を使って中国と貿易をしていた。
応永二十三年・永楽十四年(1416)、北山王は、本島統一を目論む中山王の尚巴志(しょうはし)の
連合軍と合戦を交える。
しかし、腹心、本部平原(もとぶへいはら)の裏切りにより、城内に火の手があがり、
最後の北山王は切腹して果て、三代続いた北山王国の時代は終わった。
今帰仁城は北山王が滅ぼされた後も、中山王が北部地域の管理のため、北山監守を派遣し、
監守の居城として利用された。
その際、北山王国の建造物は破壊され、首里城と同じように正殿などが整備された。
慶長十四年(1609)、薩摩藩は琉球王国に侵攻し、奄美大島、徳之島、沖永良部島、
そして、沖縄本島を攻略する。
その攻撃の第一目標となったのが今帰仁城である。
島津軍は運天の浜から上陸し、今帰仁城は炎上してしまう。
四月四日、首里城が陥落、尚寧王は降伏し、独立国家の琉球王国は中国からの冊封体制をとりつつ、
徳川幕藩体制の中に組み込まれる時代に入った。
そして、1665年、監守が首里へ引き揚げでついに廃城となりました。 」
道案内の表示に沿って進むと、左側に見える城壁は外郭である。
「 高さは二メートル前後と比較的低い石垣が延長数百メートル蛇行して続いているが、これが発見されたのは昭和五十年、沖縄海洋博覧会の工事中のことである。
石垣が積まれた箇所が発見され、その後、城郭の一部であることが確認され、
昭和五十四年には国の史跡今帰仁城跡の一部として、追加指定された。 」
「古宇利殿内」という説明板の脇に祠がある。
「 沖縄の方言で古宇利のことを「フィ」と言うことから、 「フィ殿内」と呼ばれています。 祠(ほこら)は古宇利島のある北東の方位を向いていて、 今帰仁村唯一の離島である古宇利島の人々が旧8月に遙拝します。 また、今泊の神行事の時には、今帰仁ノロが拝みます。 平成二十二年に古写真を基に移築、復元されました。 」
城壁に囲まれた中にある入口は、今帰仁城の正門の平郎門である。
「 十八世紀に編纂された「琉球王国由来記」に
「 北山王者、本門、平郎門ヲ守護ス 」 と掲載されている今帰仁グスクの正門である。
昭和三十七年(1962)に修復された。
門の天井部分は大きな一枚岩を乗せてあり、両側(左右)に狭間が設けられていて、
堅牢なつくりとなっている。 」
平郎門を通り抜けて、大庭に向かって左側部分は大隅と呼ばれているところである。
「 平郎門をくぐって、左側に広がる城郭で、堅牢な城壁が周囲を囲んでいる。
広い郭で、かつて兵馬の訓練を行ったと伝えられている。
現在は立ち入り禁止だが、御内原からその全域が眺められる。
大隅には城外への抜け道といわれている洞穴がある。
実際に抜け出せるのかは不明だが、危険なため、現在は金網で入口を塞いで立ち入り禁止である。
」
大隅には蜜柑や桜が植栽され、内地より早く咲く沖縄の桜が咲いていた。
平郎門(へいろうもん)からはずれた右側のくぼ地になったところを「カーザフ」という。
「 ここは一段と低い所で、その両側は切り立った谷底になっていて、 露頭した岩盤に直接積んだ堅固な石積みは、かつて城壁として鉄壁をほこったと想像できるが、 現在は大掛かりな工事中だった。 」
平郎門をくぐって、右側にある道は旧道で、グスクの奥に向う本来の通路である。
主郭に向ってまっすぐに伸びる七五三形式の石階段は1960年代に整備されたものである。
説明板「旧道」
「 平郎門から直線的に伸びる石階段は、1960年代に整備された階段です。
本来の登城道は、平郎門から城内に向って石階段の右手側にあります。
1860の発掘調査によって石敷きの小道が発見されています。
旧道は、大きな岩盤の谷間を利用して、道幅を狭く造り、
敵兵が攻め入っても大勢の兵隊が上の郭まで一気に入れないように工夫されたつくりになっています。 」
平郎門からまっすぐ伸びた七五三形式の階段を登りつめると開けた広場に出る。
ここは「大庭」とよばれる政治や宗教儀式が行われたと考えられる場所で、
かってはここを囲むように、正殿、北殿、南殿が配されていた、といわれる。
説明板「大庭(ウーミヤー)」
「 政治や宗教儀式が行われたと考えられる場所で、
首里城の御庭(うなー)と同様の機能を有していた郭と考えられています。
七五三の階段を登ってきて、大庭を取り囲むように、正面には正殿(主郭)、右側は南殿、
北側の一段高いところに北殿跡があったと考えられます。
北殿跡には、建物跡と見られる礎石が今も残っています。 (以下略) 」
志慶真乙樽の歌碑が立っている。
説明板「志慶真乙樽(しげまうとうたる)の歌碑」
「 今帰仁城 しもなりの九年母(くにぶ)
志慶真乙樽が ぬきやいはきゃい 」
大意: 今帰仁グスクの南にある志慶真ムラという集落に「乙樽」という美女がいました。
黒髪が美しい乙女の噂は国中に広がり、「今帰仁御神」と呼ばれ、
時の山北王も側室として仕えさせました。 なに不自由なく暮らす幸福な毎日を過ごしましたが、
高齢の王には長い間後継ぎが無く、王妃も乙樽も世継ぎを授かることばかりを祈っていました。
やがて王妃が子を授かり、そのことを季節はずれの蜜柑が実ったことに例え、
子供のはしゃぐ声に満ちた平和な様子を謡っています。 」
大庭の東南川にカラウカーと呼ばれるくぼんだ岩石があり、常時水をたたえている。
かって、女官たち髪を洗い、水量で吉凶を占ったと伝えられる。
大庭の北側は北殿跡(ハサギミヤー)と呼ばれ、現在も香炉が設置され、重要な祭祀の場になっている。
説明板「ツイツギ(城内下之御嶽)」
「 今帰仁城跡内には御嶽のイベ(最も聖なる場所)が二つあります。
大庭の北西にあるツイツギは、「琉球国由来記」(1713年)に「城内下之嶽」、
神名「ツイツギノイシズ御イベ」と記され、旧八月のグスクウイミという祭祀の時、
今帰仁ノロが五穀豊穣等を祈願します。
御内原にあるテンチジアマチジ(「城内上之御嶽」)や神ハサギ跡と共に祭祀場として拝まれます。 」
大庭の北側に位置する一段高い広場は御内原と呼ばれ、 かっては今帰仁グスクに仕えた女官の生活の場と伝えられている。
説明板「御内原(ふーちばる)」
「 北殿跡の北側にある一段高いところを御内原と呼んでいます。
この場所は伝説では女官部屋があったと伝えられており、城内で最も重要な御嶽(イベ)があります。
」
御内原の隅に、自然石が高さ一メートル位の石垣に囲まれた拝所は、 テンチジアマチジ(城内上の御嶽)である。
「 今帰仁城で一番神聖な場所とされたところで、 オモロで「今帰仁(みやぎせん)のカナヒヤブ」と謡われた。 」
御内原の北端からの眺望は城内でも最も開けていて、 今帰仁城壁のほぼ全てを望むことができる。
「 、国頭の山並みや離島の伊平屋・伊是名島も眺めることもできる。
特に晴れた日には、
沖縄本島北端の辺戸岬の先22km洋上にある与論島(鹿児島県大島郡)を見ることができる。 」
大庭の東側、一段高くなった郭を主郭(俗称本丸)と呼んでいる。
「 正殿など城内で最も主要な建物があった場所とされる。
主郭には多くの礎石が現存し、一部移動させられた石もあるが、かつての建物の姿が想像できる。
四年間の発掘調査の結果、十三世紀末から十七世紀初め頃まで機能していたことが明らかになった。 」
主郭の一角に建つ「火神の祠」の前に、 「山北今帰仁城監守来歴碑記」の石碑が立っている。
説明板「山北今帰仁城監守来歴碑記(さんほくなきじんじょうかんしゅらいれきひき)」
「 今帰仁按司十世宣謨が、1749年、
首里王府から今帰仁城の永代管理と典礼を司ることを許されたことを記念し、
故地を顕彰すべく建立しました。
今帰仁監守は、尚巴志が1416年に山北王を滅ぼした5年後に、
第二子尚忠(しょうちゅう)を派遣に始まり、
その後、尚真王代に第三子尚韶威(しょうしょうい)を派遣し、
以後同家が代々世襲で現地の監守を勤めました。
碑文の内容は、三山時代の事績から説き起こし、今帰仁按司が今帰仁城を立派に治めたことを記し、
後世の子孫に伝えるための顕彰碑となっています。
同碑文は保存状況も良く琉球王国時代の地方監守の歴史を知る上で貴重な資料です。 」
監守が住まなくなって以後、今帰仁城跡は御嶽として、
広く県内からの参拝者が精神的拠り所として訪れたといい、
今帰仁上りの重要な拝所として、今も参詣者が絶えないという。
火神の祠の前には四基の石灯寵が立っている。
説明板
「 火神の祠(ひのかんのほこら)は、
今帰仁城監守が首里へ引き揚げた1665年頃に設置されたと考えられる。
現在の祠は戦後に改築したものを城の整備事業に伴い現在の位置に移築した。
祠には第二監守一族の火神が祀られていて、
旧暦八月十日には今帰仁ノロ以下の神人(かみんちゅ)が城ウイミの祭祀を現在も行っている。 」
志慶真門郭は城跡南側に位置し、主郭より一段低いところにある。
ここは今帰仁グスクの裏門にあたり、戦略上重要な所であった、と思われる。
城壁は原形に近い形で残っており、築城技術を知る上で重要な場所になっている。
「 この郭は志慶真郭と呼ばれて、城内で最も東に位置する郭である。
石垣は地山を削り、自然岩を利用して積み上げる工法がなされている。
志慶真郭は昭和55年度〜57年度に発掘調査が実施され、
埋もれた階段や石畳道、段々畑のように宅地の造成された平場やそこに築かれた建物跡が
いくつか発見された。
発掘調査では、志慶真郭と大庭(ウーミャー)との通路石敷が確認されている。
郭内の当初の地形は緩やかな傾斜地で、宅地の造成工事により段差を設け、
建物の建立がなされている。
建物は約6mX6mあるいは4mX5m程度の規模で、中に炉跡が見つかっている。
瓦が出土しないことから、茅か板で屋根を葺いた掘立柱建物であったと考えられている。
出土品には、武具類、陶磁器、装飾品、子供用遊具などがあり、
これらの出土遺物により、「家族単位」の生活が営まれていたことが考えられる。 」
現在、そのうち、四棟の掘立柱建物跡の遺構が表示されている。
志慶真門郭は城内の重要な郭の一つで、按司の家臣たちが生活した場所と、考えられている。
郭の南側に、城壁が途中で繋がらず、崩れ落ちているところが、志慶真門の跡である。
「 この門は城の裏門で、その先には志慶真集落があったと伝えられる。
「琉球国由来記」には、「 本部大原、裏門、志慶真門郭ヲ守護シタル 」 として登場、
かって、城門は木造りの供門がのっていたと推定される。
この地区は志慶真川の渓谷を利用して築かれた天然の要塞で、
発掘調査で四棟の建物跡などが確認された。
今帰仁グスクは標高100mの独立した丘の上にあり、
城内の生活用水はここから志慶真川からの水をくみあげ、
急な崖を登って水をかつぎあげたといわれている。
志慶真門郭の東北部に水揚げ場跡が残っている。 」
以上で、今帰仁城跡の見学は終了した。
今帰仁城へは、名護バスセンターから本部循環線で約40分、
「今帰仁城跡入り口」下車、徒歩約15分
今帰仁城のスタンプは今帰仁グスク交流センター(0980-56-4400 8時30分〜17時) にて
美ら海水族館
平成十七年(2015)二月十五日と令和三年(2021)十月二十九日、沖縄美ら海水族館を訪れた。
今帰仁城からは北側に出て、左に向って道なりに進むと、二十分程で、北ゲート駐車場に到着した。
駐車場を出て進むと、イルカの像があり、暑いとミストを吹き出している。
右手に子供が遊べる遊具があり、左手の高くたっているところに立つと、
沖縄戦で米軍の上陸により多数の死者を出した伊江島が見えた。
その先に花でデコレーションされた花カメがあり、その奥左にジンベイサメのモニュメントがあり、
その奥に「美ら海水族館」の表示がある。
水族館へはエスカレーターで、一段下に降り、右に行くと入場券売場がある。
入場券を機械に通して水族館に入ると、沖縄を象徴するサンゴ礁や熱帯魚が展示されている。
クラゲの展示は毒のあるものの個別展示や変わったいかやえびの展示があったが、
内地と違う南国のものであるが、内地でも定番の水クラゲの姿が好きである。
そのコーナーを過ぎると目の前に大きな水槽が現れ、美ら海シアターとある。
映画を写すのかと座って見ていると、
目の前の大水槽を泳ぐじんべいさめやマンタをゆっくり鑑賞するため、と気付いた。
じんべいさめは悠然として泳ぎ、マンタの大きいのには驚いた。
世界最大級の水槽を取り巻くように、2階から1階に向って、
らせん状に見学通路が取り付けられていて、途中にサメ博士の部屋がある。
下では水槽の下を泳ぐ魚を目前に見られるので、近づいて写真を撮る人が多い。
じんべいさめの下に小判さめが張りついているのが確認できた。
エイもマンタ以外のエイも何種類もあったが、マンタはずば抜けて大きい。
水族館の一階を出ると広場が広がっていて、二月に訪れた時は花で造られたヤドカリがあった。
右下にはサンゴ礁に囲まれた海があり、夏には泳げるのかなあ、と思った。
マナティ-館やウミガメ館はその一帯にあり、イルカラグーンの左手におきちゃん劇場がある。
おきちゃん劇場でイルカのショーを楽しみ、多国籍グルメのたこライスを昼飯にした。
「 アメリカ文化の影響を大きく受けた沖縄の食文化では、
タコライスのように沖縄ならではのアレンジを加えた、ユニークなフードも誕生し、
今では沖縄を代表する名物になっている。
タコライスは、スパイスを利かせたひき肉、チーズ、レタスをライスの上に乗せたものである。 」
以上で、水族館の見学は終えた。