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駐車場から管理事務所で400円の観覧料を支払い、進むと記念運動場にでる。
その先に移動できるジオラマがある。
「世界遺産 中城城跡」の石碑があり、背面に中城城の三の郭の城壁が見える。
昭和二十年(1945)の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、
中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている。
道なりに進むと左に高い城壁があり、中央に門(入口)がある。
左側は三の郭の城壁で、高いところは物見台になっていたようである。
この入口は北の郭に入る門で、中城城の裏門である。
中城城の正門は南側にあるが、駐車場からはこちらが近いので、こちらから入り、正門側に抜けることにする。
東に向けて建てられた裏門はペリー探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチで、ひときわ美しかった。
裏門をくぐった先は北の郭である。 北側の石垣には銃眼のような穴が開けられていた。
「 北の郭は護佐丸が大井戸(ウフガー)を取り込み、拡張したとされる郭である。
北の郭は立体的な構造になっており、このまま右奥(東)に向うと裏門を抜けて裏門へ、下に降りると井戸がある。 」
北の郭を一段下りると、こちらは削平されておれず、道は凸凹したままだが、 この外側を堅固な石垣が囲み、守っている。 北の郭は上の段、中の段、最下段の大井戸と三段構成になっている。
説明板「ウフガー(大井戸)
「 大井戸は番所井戸(バンジヨガー)とも呼ばれる。
当初は城の外側にあった水場を、護佐丸時代に城内に取り込むべく城を拡張し、井戸を作った。
ただ発掘調査ではこの井戸は16世紀のものと判明しており(護佐丸は15世紀中旬)、
番所井戸という名前から、一の郭に番所が置かれた時代のものだと考えられる。
井戸から排水溝の跡も見つかっている。 」
北の郭から三の郭への石段は立派な石段で、西洋風の雰囲気がする。
石段を上った先にあるのは三の郭である。
1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸によって増築されたもので、新城(みーぐすく)とも呼ばれる。
「 城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、
自然の岩石と地形的条件を活かした美しい曲線で構成されている。
その築城技術の高さは、芸術的と言われ、歴史的にも高い評価を受けている。
中城城跡は、十四世紀後半頃まで、先中城按司が数世紀にわたり、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭
の主な部分を築き、座喜味グスクから移ってきた護佐丸により、
北の郭、三の郭が増築され、現在見られるグスクの形が完成したようである。
沖縄の城(グスク)は、本土より古い時代から
石積技術が発達していたという。
石垣は、古い順から野面積み(南の郭)、布積み(豆腐積み、一の郭、二の郭)、
相方積み(亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)で造られている。
増築された三の郭や北の郭の城壁は「相方積み(亀甲積み)」という石積技術の最も進んだ積み方で積まれている。 」
三の郭から北の郭に戻り、進むと西の郭である。 未整備中で中には入れなかった。
「 西の郭の両側は崩れたままという感じだが、 兵馬の訓練をしたといわれるところで、長さが東西に百二十メートルある。 」
左に石段を登ったところにあるのは二の郭である。
二の郭はけっこう広い。 東側には「忠魂碑」が建てられている。
設置された階段を登り、南側の城壁の上に行くと、ここから二の郭内の眺望ができる。
二の郭は布積み(豆腐積み)の城壁で、二の郭の曲線の美しさは一際目をひく。
一の郭側に細かくカーブを描いていた。
階段を降りて、一の郭へ向かう。 一の郭側の城壁は高く、少し高いところにアーチ式門がある。
「 二の郭と一の郭は高低差があり、一の郭の方が数段高くなっている。 そのため、
城門に石段があり、高さを調整している。。
この城門は裏門を築造した時、アーチ式に改築したと考えられる。 」
門をくぐると一の郭に出る。
一の郭の石垣も布積み(豆腐積み)工法で造られた城壁である。
一の郭は城内で最も広い郭で、かっては正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台があった、
と伝えられる
郭の北側に囲いがあり、進入禁止になっていたが「一の郭正殿跡の調査概要」という説明板があった。
「 現在地は中城ぐすくの中心にあり、先中城按司や護佐丸などの城主が、
政(まつりごと)を執り行っていた建物が建っていたと考えられる場所です。
護佐丸滅亡後は、中城の地が琉球国王の世継ぎである中城王子の所領となり、
17世紀前半にはこの場所に番所が置かれ、明治期には琉球の日本併合とともに番所は役場に名を改め、
1945年4月に沖縄戦で焼失するまで、同地は中城の行政の中心地として長い期間使用されていました。
調査の結果、石積みで城郭が築かれるより前の13世紀後半から役場のあった近代にかけて、
建物の礎石や柱穴、各種石組遺構、埋甕など700基程の遺構を検出することができました。
(以下略) 」
門の脇に石積みで囲まれたところがあり、「拝所」と書かれている。
「シラ富ノ御イベ」という神が祀られている。
一の郭の石段を登り、アーチ式の門をくぐると南の郭に出た。
南の郭の石垣は野面積みなので、城の中で最初に造られた場所だろうと思った。
現在、南側は発掘調査と復元工事中である。
説明板
「 沖縄の城壁は、本土と違い、石を非常に注意深く刻まれて、つなぎ合わされている。
漆喰もセメントも用いていないので、大水も石の間から流れ出るので、丈夫である。
アーチ門と東側の城壁は数年前に積み直しが行われた。 」
南の郭には複数の拝所がある。
「中森ノ御イベ(通称着替御嶽) 」「雨乞イノ御イベ」 「小城ノ御イベ(通称久高遙拝所)」 「御当蔵火神・ウトウクラヒヌカミ(通称首里遙拝所・シュリウトウジ)」など、 拝所の前の看板に神の名前が書かれていた。
南の郭の石段を登り、アーチ式の門をくぐると西の郭に出たが、その先に正門跡の石垣がある。
かっては楼門であったのだろうか?
表に廻ってみると、正門は西の方向に向けて建てられていて、 門をはさむように両側に石垣がせり出し、 ハンタ(公道)に向って狭間(はざま)がつくられている。
「 1853年5月、日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が、 沖縄本島を訪れた際、中城城にも立ち寄った。 視察の一行は城壁やアーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、詳細な報告文を書いている。 」
正門の左側に「史跡中城城跡」の石碑が建っている。
その先の三叉路を左折すると南の郭の下になるが、カンジャーガマ(鍛冶屋跡) がある。
「 鍛冶を行っていたところといわれるが、城のためか集落のためか定かでない。
一説によると護佐丸が阿麻和利に備えるために武具を造っていたとも伝えられる。 」
三叉路を右折すると公道に出た。
右折して駐車場の方に向うと、右側は西の郭の北側で城壁が二段になっているが、下の石垣は崩れていた。
「ナミナミノ御ノベ」の拝所があり、その先の 「カワヤグラノ御ノベ」 とあるところが、
夫婦井戸(ミートウガー)である。
「 ここは西の郭の一角だったようで、北の郭の大井戸と併せて二つの井戸があり、 城郭内に井戸を確保していることがこの城の特徴という。 」
以上で、中城城の探索は終了した。
中城城へは、那覇バスセンターからバスで「宜野湾市行き」に乗る。
約50分で「普天間」又は「普天間入口」バス停で下車し、タクシーに乗り継ぎ約5分
中城城のスタンプは、中城城管理事務所 ( 098-935-5719 8時30分〜17時 5月〜9月は18時まで) にて
「中城城の歴史」
「 中城城は、屋宜の湊から二キロほど離れた標高百六十メートルの丘陵上に築かれた城で、
中城城が最初に造られた時期ははっきりしない。
先中城按司(さちなかぐずくあじ)が、十四世紀後半頃迄の数世代にわたり、
西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築き上げた。
1440年に、読谷の座喜味城から移ってきた中城按司、護佐丸盛春により、
北の郭、三の郭が増築されたと伝えられる。
護佐丸(ござまる)盛春は名城家で、座喜味城、中城城を築いた人物である。
「毛氏祖先由来記」によると、護佐丸は勝連城主阿麻和利から中山を防御するため、
中城の地を賜った。
しかし、護佐丸は、1458年、王府軍としてやって来た阿麻和利の策略で攻略され、
自害して滅びた。
護佐丸が自害した後は中城王子の居城であったが、
1609年の島津軍の侵入後、「間切番所(マキリバンジョ)」が建てられた。
薩摩の植民地時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、
薩摩の役人がその存在を中国側に知られないように、ここに隠れていた、という伝承もある。
明治に入り、廃藩置県後は中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で焼失した。
中城城跡は、1972年5月15日(日本復帰の日)に、国の史跡に指定された。
指定面積は110,473u(約33,400坪)で、その内、14,473u(約4,300坪)が
城郭の面積である。 」