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道路を横断して、城に向うと道の左手で発掘調査が行われていた。
見つかったのはカー(井戸)である。
このあたりでは仲間ヌウカー、門口のカー、その奥でミートゥガー、ウタミシガーが
発見されているので、その一つである。
右側に石垣が続いていたが、両側の石の間に小さな割石を入れた頑丈な石垣に思えた。
この先は四の郭で、「史跡勝連城跡」の石柱があり、
現在も保存工事が行われているのか?その先の上部に工事車の姿が見られた。 」
右側には石垣に囲まれた曲輪があり、海の先には勝連半島が見えた。
ここからは勝連城の石垣全体が見えた。
三の曲輪に入るには曲輪前の曲がりくねった石垣の中の道を上っていく。
石段を上ると、かっては門があったと思える石垣がある。
ここが三の曲輪である。
説明板「三の曲輪」
「 三の曲輪ではこれまでの調査の結果、時代の移り変わりの様子がわかりました。
古い時代は掘立柱の建物が建ちならび、
表面に粘土を貼ったすり鉢状の遺構も中央部で見つかっています。
これは水を貯める施設ではないかと考えられています。
新しい時代になると、この三の曲輪全体が二の曲輪に建っていた殿舎建物と一対をなし、
儀式などを行う広場に変わっていきました。
その後、城が滅んでからは祭祀の場として使用され、
中央西側に「肝高の御嶽(きみだかぬうたき)」、
その近くに神人(かみんちゅう)たちが祭祀の際に休憩する「トウヌムトウ」と呼ばれる石列などが残されています。 」
肝高の御嶽(きみだかぬうたき)は、二の曲輪の石垣を背に、
「肝高の御嶽」の標石の先にある。
三の曲輪から石段を上ると二の曲輪で、殿舎の跡の表示があった。
説明板「二の曲輪」
「 二の曲輪では、正面約17m、奥行き約14.5mの大きな殿舎跡が発見されました。
この建物は城の中でもっとも重要な建物であったと考えられています。
礎石のあるしっかりした建物で、屋根に板または草葺きだったと考えられていますが、
周囲からは大和系瓦も発見されることから、一部瓦葺きだった可能性もあります。
また、建物の四隅には長方形の石灰岩による石積みが発見されています。
この石積みは、建物と同時にあったと考えられていますが、機能についてはわかっていません。
また、二の曲輪の西側には地元で、「火の神」と呼ばれている場所があります。 」
二の曲輪の北西側の洞穴は、「ウシヌジガマ」と呼ばれている。
「ウシヌジ」とは、伝説では敵に攻められ、危険なときに時に身を凌ぐ場所という意味がある。
石段を上ると、一の曲輪に出る。 標高一〇〇メートルのところである。
説明板「一の曲輪」
「 一の曲輪は、昭和四十年(1965)から数回にわたって発掘調査が行われ、
いろいろなことがわかりました。
岩盤をけずって平坦にするなど、
大がかりな土木工事を行い、
瓦ぶきの建物があったことがわかっています。
多くのグスクの中で、瓦ぶきの建物があったのは、現在のところ、
勝連城のほかには首里城、浦添城だけです。
出入口の門付近から唐草様の浮き彫りのついたアーチ石の一部が発見されており、
装飾の施された豪壮なアーチ門であった可能性があります。 」
一の曲輪は海抜百メートルの高さにあるので、北は金武湾を囲む山々や太平洋の島々が望まれ、
南は知念半島から中城湾、それをへだてて護佐丸の城である中城城が一望できる。
これで、勝連城の見学は終えた。
勝連城へは、那覇バスターミナル52番与勝線で約2時間、勝連城跡前下車、すぐ
那覇バスターミナル29番屋慶名線で約2時間、西原下車、徒歩約10分
中城城跡から仲順バス停から与勝線で約1時間、勝連城跡前下車、すぐ
勝連城のスタンプはあまわりパーク観光案内所に設置されている
◎あまわりパーク観光案内所 うるま市勝連南風原3807−2 098−978−7373
年中無休 9時から18時
(御参考) 勝連城の歴史
勝連城は琉球王国の王権が安定していく過程で、
国王に最後まで抵抗した 有力按司・阿麻和利(あまわり)が居住した城である。
伝承によると、英祖王系二代目大成王の五男、勝連按司により築城されたといい、 五代続いたが、跡継ぎがなく、伊波按司の六男を養子に迎え、 七、八代目は浜川按司、九代目は茂知附按司という。
茂知附按司は圧政を敷いたことから人々の信頼を失い、
クーデターにより阿麻和利にとって代わられたと伝えられる。
北谷間切屋良(嘉手納町)で生まれた阿麻和利は、すぐれた才能の持ち主で、
勝連按司に仕えた。
領民の信望を得た阿麻和利は、九代茂知附按司に代って城主になると、
本土をはじめとする対外貿易を活発に行い、この勝連を大いに繁栄させた、と伝承されている。
沖縄最古の歌謡集である「おもろさつし」に、勝連城や城主(按司)について、数多く謡われていて、 勝連は「きむたか(肝高)」と表現され、日本本土の京都や鎌倉にたとえられる程繁栄したとある。
「 沖縄の古謡「おもろさうし」に次のように謡われている。
一 かつれんわ なおにきや たとゑる
やまとの かまくらに たとゑる
又 きむたかは なおにきゃ
(勝連は、なににたとえようか、京都や鎌倉にたとえる
又、気高き勝連は、なににたとえよう )
一 かつれんの あまわり
とひやくさ ちよわれ
(勝連の阿麻和利、千年もこの国を治めよ )
又 きむたかの あまわり
又 かつれんと にせて
( 又 気高き按司阿麻和利よ 又 勝連にふさわしく )
又 きむたかと にせて
( 又 きむたかの名にふさわしく )
阿麻和利も「千年もこの勝連をおさめよ 勝連の名高き王」と讃えている。 」
若くして勝連の按司となった阿麻和利は、
国王の重臣で中城城に居城していた、宿敵の護佐丸を1458年に討ち、
さらに王権の奪取を目指して国王の居城である首里城を攻めたが、大敗し、
王府軍に攻められて落城し、廃城になったといわれている(護佐丸・阿麻和利の乱)
城内からは中国、元代の染付陶磁器が出土しており、
中国貿易がさかんに行われたことが感じられる。
民俗学者の柳田国男は、
『 勝連が当時の文化の中心であったことは、 大和(やまと)の鎌倉のごとしと「おもろそうし」にあるように、 浦添、首里、那覇を中心とした浦添文化に対して、 系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか? 』
と推測している。
阿麻和利が滅ぼされたことで、首里城を中心とする尚氏の王権が一段と安定し、
その後、琉球王朝の誕生をみた。