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交叉点を左に入る狭い道を約二キロ走ると公民館があり、
ここを右折して進むと「座喜味城跡」の標識があり、中に入ると座喜味城跡公園の駐車場がある。
脇に藁葺きの小屋があり、隣に「高倉」の説明板があった。
「 この建物は、豊かな農村のシンボルとでも言うべき穀物倉庫です。
かっては南西諸島の各地に分布していました。
風通しをよくして湿気を防ぐために、床下をうんと高くしてあるのが特徴です。
また、ねずみ返しとして、柱の上部にトタン板を巻き付けて、
ねずみが登れないようにしてあります。
柱の数は、4本、6本、9本といろいろあり、礎石の上に立つ建物です。
沖縄の組踊「銘刈子(ぬかるしー)」の中で、天女妻の羽御衣(羽衣)が
六ツ俣の蔵(むついまたぬくら) 八ツ俣の内(やついまたぬうち)
稲束の下(んにづいかぬした) 栗束の下(あわづいかぬした)
と歌われているのも、この倉の類と思われます。
倉への出入りには、角材をえぐって、階段をつけた取り外しのきく一本足のはしごを用います。
このはしごは、裏返しにすると、物を下ろすときの滑り台になります。
この高倉は、もともと沖之永良部島にあったものを民俗資料として、
1976年12月に移築しました。
(以下省略) 」
左側に「世界遺産琉球王国のグスク及び関連遺産群 座喜味城跡」の碑があり、
階段の右側には「座喜味城跡」の石柱が建っている
階段を上り、松林に入っていく。
すこし登り坂になっている道をすすむと、正面に座喜味城の石垣が現れた。
「 十四世紀の中国の歴史書には、「 琉球は、北山、中山、南山の三国に分れて、
三人の王同士が覇権を争っていた。 」 と記されている。
座喜味(ざきみ)グスク(城)は、グスク時代と、
琉球王国誕生という時代の変わり目の十五世紀の初めに、
この地(中頭郡読谷村)に築城された城である。
築城家としても名高い読谷山按司(よみたんざあじ)護佐丸(ごさまる)によって作られたと伝えられる。
築城した護佐丸は十四世紀末、山田城で生まれたといわれ、伝承では山田城の城壁を解体して、座喜味城に使ったといわれている。 」
「国指定史跡 座喜味城跡」の説明板があった。
「
座喜味城は、15世紀の初頭、築城家としても名高い護佐丸によって築かれたといわれる。
護佐丸は、当初、座喜味の北東約4qにある山田グスクに居城していたが、
1416年(1422年という説もあり)中山尚巴志の北山城攻略に参戦、
北山攻略後は戦後処理のため、一時北山にとどまったといわれ、
その間に座喜味の地へ築城を開始したという。
城跡は座喜味部落北側の小高い丘、標高約120m余の名護層(赤褐色土)からなる台地を
石灰岩の切石積で取り囲んで築かれており、
城は2つの郭(かこい)からなる連郭式の形態になっている。
城郭内の面積は約4012.51uで、沖縄のグスクとしては中規模である。
この城には、一の郭と二の郭にアーチの門がそれぞれ一つずつ造られているが、
アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめこまれており、
他のグスク等には類例がみられない。
このことから、座喜味城のアーチ石門が現存するアーチの沖縄で、最古のものと見られている。
座喜味城跡は、1972年の本土復帰に伴って、国の史跡に指定され、
翌年の10月から沖縄県ではじめて史跡整備事業が文化庁と県の補助を受けて開始された。
整備事業に伴う遺構発掘調査がなされ、成果を上げた。
出土遺物は、グスク系土器と須恵器が少量、中国製陶磁器や古銭などがあり、
これらの出土品中最も多いのは中国製の青磁と陶器で、これらの中国陶磁からみると、
15世紀から16世紀までのものがみられることから、座喜味城は護佐丸が1440年に中城城へ移った後も
使用されたと考えられる。
遺構については、一の郭の北側に間口16.58m、奥行14.94mの石組が発掘され、
この中に建物が建っていたものと、思われる。
しかし、瓦等は出土しない事から、屋根は板葺きか茅葺の建物であった、と推定され、
また、それほどの時代差はないものの、一の郭内において、2つの時期の遺構が確認された。
城跡は第二次大戦において、
一の郭内に日本軍の高射砲陣地が築かれ、戦後も米軍のレーダー基地が建設されたが、
整備の始まった翌年返還された。 城壁は1982年に修復を完了した。
城壁の上に立つと、首里・那覇をはじめ、本島西部本部半島や東支那海に浮かぶ慶良間諸島・
久米島・伊江島・伊平屋諸島が眺望出来る要害の地にある。
文部省・沖縄県・読谷村 」
二の郭のアーチ門の手前に拝所がある。
「 座喜味城には、二御前、城内火神、城内アザナイシ御イベ、 読谷山城之殿の4拝所があったが、現在、二の郭アーチ門前に移設されている。 」
二の郭アーチ門上のクサビ石は三角形である。
石段を上り、門をくぐると、くぐると二の郭で、 中央に一の郭のアーチ石門がある城壁が見えてきた。
「 この城には二つの石造アーチ門があるが、
正面の一の郭のアーチ門は復元されたものである。
先程くぐった二の郭はほぼ当時のものを修理した、とある。 」
アーチ石のかみ合う部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめこまれているが、
先程の二の郭アーチ門天井のクサビ石は三角形であったが、
ここ、一の郭のクサビ石は方形である。
一の郭に上る階段は、旧日本軍の高射砲陣地建設の際に埋まられた、
発掘により姿を現した。
その階段を上り、一の郭に入ると、「建物跡」の標板があり、建物の礎石があった。
「 一の郭では、幅16m、奥行14mの建物跡がみつかった。
屋根瓦は出土しておらず、建物の屋根は板葺きの建物だったと考えられる。 」
その一角に石柱のようなものがあったが、これが寄進灯籠である、という。
「 寄進灯籠は、
護佐丸(唐名毛国鼎)の子孫の座喜味親方盛譜(ざきみうぇーかたせいふ)、唐名、毛達徳が、
1843年(中国年号道光23年)に、江戸幕府(江戸上り)で、
徳川12代将軍家慶への慶賀使(副使)としての任務を果たし、
帰国した際に、領地の城内拝所に建立したものである。
なお、護佐丸は十四世紀末、山田城で生まれたといわれ、
伝承では山田城の城壁を解体して、座喜味城に使ったといわれている。
1440年頃、座喜味城から中城城に移ったとされ、1458年の護佐丸・阿麻和利の変で命を落としたとされる。 」
城壁に上ると、曲線を描き、一の郭を取り巻き、内地の城のような直線は見られない。
その先には読谷の集落と東支那海が見えた。
「 座喜味城の城壁は現代ダムの平面アーチ構造に類似し、
曲線状につながっていて、脆弱な地盤の上でも強固かつ重厚なものになっている。
また、各平面アーチをつなぐ節から外敵を監視できるようになっている。
城壁の高さは高い所で約十三メートル、低いところで約三メートル。
石積は主に布積の方法で積まれているが、相方積、野面積も部分的に用いられている。 」
駐車場に戻ると、ガジュマルの木の下や休憩所に厨子甕が並べられていた。
説明板「厨子甕」
「 厨子甕とは、(本土では骨壷といわれる)洗骨後の骨を納める甕のことで、石製と陶製がある。
年代的には石製が古く、サンゴ石で作られたものが、一般的である。
陶製は壺形が多く、1670年には読谷村の喜名で作られていた喜名焼甕が登場する。
御殿を型どった御殿厨子(屋形厨子ともいう) は、18世紀頃から盛んに作られていた。 」
以上で、座間味城の見学は終了である。
座喜味城へは、那覇バスターミナル29番より、読谷線に乗り、座喜味下車、徒歩約15分
座喜味城のスタンプは世界遺産座喜味城跡ミュージアム(旧読谷村歴史資料館 9時〜18時 入館は17時30分迄 水休 12/28-1/4休) にて