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右に入ると、左側に伊波晋猷の墓があった。
「 伊波晋猷は明治時代の人で、三高、東大に進み、語学を修めた。 東大在学中から、浦添が首里以前の古都であったことを最初に論じた「浦添考)などの、 優れた論文を発表。 帰郷して県立図書館長となり、 琉球処分後の沖縄差別で、自信を失った県民の自信と誇りを 回復する啓蒙活動を行った、という人物である。 」
その先には城の石垣が復活していて、その前に 「前田高地壕群(北側)」の説明板がある。
「 日本軍は、前田高地の地形を利用して、第62師団独立混成第63旅団が、
洞窟・トンネル・トーチカ連鎖陣地を構築した、と思われ、
「 内部は壕口が一つ破壊されても問題がないように、壕同士が繋がっていた 」 と、
日本兵の手記があります。
現在、残っているが、内部の落盤や土砂の堆積が激しく、中に入ることはできません。 」
左側は浦添ようどれの上部で、浦添市内がよく展望できた。
「前田高地壕群(北側)」の説明板の先の茂った樹木の下を見ると、
岩の下に穴があるのが確認できた。
見学路に戻ると、石垣の手前の右側に説明板がある。
説明板「 城壁(復元) 」
「 こちらの城壁は、発掘調査の成果に基づいた整備により、復元されたものです。
浦添城跡は、沖縄戦後の採石により、城壁の石材が持ち出され、城壁がほとんど残っていないため、
復元整備にあたっては事前に発掘調査を行う必要があります。
この場所についても、発掘調査を行ったところ、城壁の切石がかろうじて残っている、
状況を確認することができました。
この城壁は、残っていた切石を生かし、失われた部分に新しい切石を積み上げることによって、
復元しました。
浦添教育委員会 」
両側に復元された城壁があり、そこを通り過ぎて進むと、 左側は、松林地区で、空地の一角に「愛国知祖之塔跡」の説明板がある。
「 愛国知祖之塔は、沖縄戦において、最も熾烈な激戦が展開された、
ここ浦添城跡に、愛知県沖縄戦遺族会(現在は愛国知祖之塔護持会)等により、
昭和三十七年(1962)に建立されました。 昭和四十年(1965)にこの場所に移設後、
1994年には糸満市の平和祈念公園に移され、新しい愛国知祖之塔とともに、
愛知県出身の沖縄戦・南方地域戦没者約五万一千名(内沖縄戦戦没者約三千名)を追悼し、
平和を祈念する施設としての役割を果たしています。
浦添市教育委員会 」
その近くに「浦添家の屋敷跡?」の説明板がある。
「 この一帯にみられる敷石は、第二尚氏第三代国王・尚真王の長男である
尚維衡を祖とする、浦添家の屋敷跡かもしれません。
敷石は1983年の発掘調査で確認され、明朝瓦(中国の技術で造られた瓦)がみつかっています。
尚維衡は、父・尚真王の不興をかい、首里城から浦添城へ移されました。
第七代国王の尚寧王は浦添家の出身で、尚寧王のひ孫にあたります。
浦添市教育委員会 」
発掘時の写真が説明板に付いていた。
その先の崖側に休憩所があり、浦添市が一望できる。
その手前に「ハクソー・リッジ」の説明板があった。
「 沖縄戦当時、浦添城一帯の丘陵は米軍から「ハクソー・リッジ」、
日本軍から「前田高地」と呼ばれていた。
米軍攻撃正面となる北側は険しい断崖であるうえ、
頂上まで上りつめた米軍に日本軍が猛烈な攻撃を浴びせる戦術をとったため、
米軍の退却の際は多数の負傷兵が取り残されました。
信教の理由から、武器を持たない衛生兵・デスモンド・ドスは、
日本軍の猛砲火のなか、多くの兵の命を救ったため、
のちに名誉勲章を授けられました。 」
「正殿跡?」の説明板があった。
「 この遺構は、1998年に行った発掘調査でみつかったものです。
縁石が置かれ、石が敷かれている様子を確認しました。
その他にも、石列や柱の跡とみられる穴などがみつかっています。
これらの遺構は、ここに正殿があった事を示すものと考えられます。
浦添城跡の北側は、沖縄戦後の採石で、大きく削り取られたため、ほとんど残っていません。
そのなかで残っているこの遺構は貴重です。
浦添市教育委員会 」
広場の中央に近いところに「殿(とうん)」の説明板があった。
「 殿は、ウマチーなど、村の祭を行う場所で、この浦添城内の殿では、
仲間集落と前田集落が一つになって、祭りを行っていました。
ウマチー(麦・稲の豊作を祈願、または感謝する祭)の際は、
二本の竹の端を結び合わせたアーチを作り、
それに向かってノロ(王府から任命され、王国や村々の祭祀を取り仕切った神女)をはじめ、
参列者が手を合わせてから、祭を行ったそうです。 」
休憩所の道を少し戻ると樹木がある所がデイークガマと呼ばれるところである。
説明板「デイークガマ」
「 デイークガマは、鍾乳洞が陥没してできた御嶽(うたき)です。
デゴの木があった洞穴(ガマ)が名前の由来です。
1713年に成立した地誌「琉球国由来記」には、浦添城内の御嶽について記されており、
その中に「渡嘉敷嶽」という名前がみられ、それがデイークガマにあたると考えられています。
戦後はガマの内部に、コンクリートブロックの囲いを造り、その中に戦没者の遺骨を納めました。
後に、遺骨は糸満市の摩文仁(まぶに)へ移されています。
* 落盤のおそれがあるため、ガマ内部に入ってはいけません。
浦添市教育委員会 」
下に降りてみると、「浦和の塔」の石碑があり、その先には鉄格子のはまった穴があった。
「 浦和の塔は、沖縄戦争で散華した人々を祀る慰霊の塔です。
一九五二年に市民の浄財と本土土建会社の協力によって建立されたもので、
納骨堂には浦添城跡を中心に市内各地で散華した軍人や民間人五、〇〇〇人余柱が安置されており、
市では毎年十月には慰霊祭を催し、英霊を慰めています。
浦添市役所 」
デイークガマの先は右に傾斜しているが、その一角に「埋葬人骨」の説明板がある。
「 1983年の発掘調査で、当時の城壁裏の地ごしらえから、
グスク時代の人骨が発見されました。
人骨は二十歳前後の女性で、身長は一五〇センチほどでした。
人骨の状態は良好で、仰向けで、両腕、両脚を胴体に密着するまで、
強く折れ曲げられた状態で葬られ、副葬品はありませんでした。
浦添市教育委員会 」
その先に、下に下る階段があり、両側には城壁の一部である石組が見えた。
その先は何か作業をしていたので、引き返したが、
あとで「浦添城の前の碑・馬ヌイ石」があることを知った。
「 浦添出身の尚寧王が、1597年に、首里から浦添城までの石畳道を整備した際の
竣工記念碑である。
表には琉球かな文字、裏は漢文で、「尚寧王の命令で国民が力を合わせて、岩を刻み、
道を造り、石を敷き、川には虹のような橋をかけた」と記されている。
現在のものは、沖縄戦で破壊されたため、1990年に復元されたものである。
石碑の前の大きな石は、馬ヌイ石と呼ばれ、浦添城に来た際に、馬の乗り降りのため、
の踏み台として使われていたものである。 」
ここから先程みた「浦添ようどれ」の説明板まで戻る。
説明板「琉球国中山王陵 浦添ようどれ」
「 浦添ようどれは、琉球王国初期の王の墓で、極楽陵ともいいます。
咸淳年間(1265〜1274)に英祖王が築いたといわれ、
その後、14世紀後半〜15世紀前半に石垣がめぐらされました。
さらに、1620年には、浦添出身の尚寧王が改修し、自らもここに葬られました。
ようどれの頂(現在地)から墓庭へは、まず急坂の石畳道を下り、
かってはトンネル状であった暗しん御門を通って、二番庭にでます。
そして、中御門と呼ばれるアーチ門をくぐり抜けて、墓室のある広い一番庭にいたります。
墓室は岩盤に大きな横穴を二ヶ所掘り、前面を石積で塞いだつくりです。
墓室の中には、中国産の石で作られた骨を納めるための石厨子があり、
仏像などが巧みに彫刻されています。
去る沖縄戦で、浦添ようどれの石積は大きく破壊されましたが、
戦後琉球政府によって墓室は修復され、平成12年〜17年には墓庭の石積が復元されました。
「ようどれ」とは、琉球の言葉で夕凪のことで、「ユードゥリ」と発音します。 」
「浦添ようどれ」の説明板から左に入ると、「浦添ようどれ入口」の看板がある。
その先は急な階段で、下りていくと「浦添八景 浦添ようどれ」の標柱があり、階段が続いていて、階段の先の空地に降りると、また階段を上っていく。
その先には「昭和9年頃の暗しん御門」の説明板があり、
かっては右側の岩盤と左側の石積の門柱がトンネル状になっていたことが分かった。
説明板 「昭和9年頃の暗しん御門(くらしんうじょう)」
「 暗しん御門、加工した岩盤と石積みでできたトンネル状の通路のことです。
薄暗くひんやりしていて、地下通路を通って「あの世」に行くような雰囲気でしたが、
沖縄戦で天井の岩盤は崩れてしまいました。 」
左は復元された石垣、右側は岩盤の間の狭い道を進むと、
前方に石垣で囲まれた空地があるが、これが二番庭で、その先にぽっかり空いた門がある。
階段を上り、門に入ると広場が現れる。 一番庭である。
その先右の白い建造物から先が「琉球国中山王陵 浦添ようどれ」である。
中央部に行くと「浦添ようどれ」の説明板が立っている。
「 十三世紀に造られた英祖王の墓といわれ、
千六百二十年に尚寧王により改修されました。
改修のいきさつは「よいどれの碑文」に記されています。
墓室は向かって、右の西室が英祖王陵といわれ、
向かって左の東室に尚寧王と彼の一族が葬られています。
墓室には骨を納めるための石製の厨子が安置されています。
沖縄戦や戦後の砕石で、浦添ようどれは徹底的に破壊されましたが、
1996年から実施した発掘調査の成果に基づき、
2005年に戦前の荘厳な姿を復元しています。
浦添市教育委員会 」
ようどれを跡にして、暗しん御門を下ったところにある空地を右折して少し行き、
右手を見ると先程のようどれとその先に前田高地壕群下の城壁が連なっていて、
壮観であった。
浦添城へは琉球バス交通 牧港線(55番)で仲間バス停から徒歩15分
◎ 浦添グスクようどれ館(浦添グスク跡のガイダンス施設)
浦添市仲間2−53−1 098−876−3555 9時〜17時 月休
琉球バス 56系統 浦添小学校前バス停から徒歩5分
美浜アメリカンビレッジ
浦添ようどれ館を出て、国道58号を北上し、宜野湾市を通り抜けると、北谷(ちゃたん)町になる。
美浜交叉点の次のを左折すると左側に、ザ・ビーチタワー沖縄の大きな建物があり、
その奥一帯が北谷公園サンセットビーチである。
ここにはイオンとその前は市営駐車場で無料である。
アメリカンビレッジは道の右側一帯で、カラフルで色々な形をした建物が建っている。
それらの建物を繋ぐ形で、中に駐車場があるので、そこに停めた。
アメリカンビレッジは、ショップを中心に、レストランやアミューズメント施設が集結し、
約八十の店舗が集まるデポアイランドを始め、地元でも人気がある店があり、けっこう楽しめる。
観覧車があるのはカーニバルパーク美浜だが、コロナで観光客が少なく閑散としていた。
Habu Box AKARA店は、沖縄Tシャツのパイオニア的存在で、
沖縄の自然や文化をデザインしたオリジナルTシャツやカットソーが数多く展示されていた。
沖縄は年中常夏なので、スーツやジャケットの店はなく、Tシャツの店と帽子の店が多かった。
ハローインの前に訪れたので、カボチャやその他に装飾したデスプレーになっていた。
ステーキの店も多い。 国際通りにもあるSTEAKHOUSE88の他、数軒が散らばってある。
depots Gardenの建物は気にいったが、空港で沖縄そばを食べてきたので、
まだ腹に入らない。 あきらめた。
かわりに、Hawaiian pancake Cafe に入った。
ハワイ特産のコナコ―ピーの専門店で、パンケーキで有名である。
コナコ―ピーはやわらかな味で、うまかった。
頼んだパンケーキはチヨコレートとマロンのクリームが乗っているもので、
娘から少し分けてもらったが、それで満足した。
アメリカンビレッジへは那覇空港から車で40分
那覇バスターミナルよりバス名護西線あるいは読谷線で、軍病院下車、徒歩5分
西海岸リゾート
アメリカンビレッジを跡にして、国道58号を北上すると、右手にあるのが嘉手納基地である。
更に北上すると、喜名交叉点に出て、前回訪れた座喜味城跡ややちむんの里がある。
「 自然豊かな場所に広がる焼物の産地で、ガラス工房を含む16の工房が点在。 魚紋や赤絵など、暮らしになじむ個性豊かな作品を展示、販売している。 」
県道12号で残波岬公園へ行き、国道58号で北上し、恩納村の万座毛に向った。
「 残波岬は、東シナ海に大きく突き出ている岬で、
隆起したサンゴの断崖が約2kmに渡って続き、
先端に立つ灯台と青い海のコントラストが美しい。
万座毛は高さ約20メートルの断崖絶壁で、ゾウの鼻に似た奇岩が有名な景勝地である。
芝生が広がる崖上には約300mの遊歩道が設けられ、散策しながら東シナ海を眺めることができる。 」
その後、沖縄サミットが開催された万国津梁館のある部瀬名岬に行き、
ブセナ海中公園・海中展望塔に入り、海中を泳ぐ魚を眺めた。
西海岸リゾート地区にはプライベート人工砂浜と豪華な建物のホテルが立ち並ぶ。
ANAインターコンチネンタル 万座ビーチリゾートには妻と娘と泊まった。
ホテルムーンビーチにも泊まったが、本土復帰当時からあるホテルなので、
クラシカルなので、今はどうなのだろうか?
今回、喜瀬ビーチパレスに泊まったが、上記のようなクラスでなく、
こちんまりした大きさで、ビジネス客や海を楽しまない旅行客には手ごろのホテルに思えた。
小生のように、しばしば沖縄を訪れる人にはおすすめできると思った。
かねひで喜瀬ビーチパレス 名護市喜瀬115−2 098−052−5151
万座毛へは那覇空港から車で1時間。 入場料:100円
海中展望塔へは那覇空港から車で60km、約90分
那覇空港または那覇バスターミナルからバスでブセナリゾート前下車