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さらに進むと、左側に樹木が茂っているところがあり、その先に城壁が見えてきた。
さらに進むと、道より一段低いところに、「史跡 知念城跡」の石柱があり、
その隣に説明板があるのだが、字ははっきりせず、読めなかった。
「 前述の説明板に、知念城はミーグスク(新城)とク―グスク(古城)と、
よばれる二つの郭からできている、と説明にあったが、
ク―グスク(古城)は、アマミキヨの長男、天孫氏の時代に、ミーグスク(新城)は
内間大親(尚真王の異母兄弟)の時代に築かれたとの伝承があるが、
ミーグスク(新城)は二つの門と石垣に囲まれた郭で、、
目の前の城壁はミーグスク(新城)のものである。
ク―グスク(古城)は、古代琉球岩そのまま積み上げた城壁であったようだが、
目の前の樹木の中に埋まり、確認することはできなかった。 」
城壁にあるアーチ門は正門で、城壁は野面積みと切石積みが混在して作られていた。
また、門手前の左側に飛び出している城壁が、ク―グスク(古城)と同じ作りではないか?、
思った。
門をくぐって振り返り、正門の石垣を眺める。
木材はアーチ門の崩れを防ぐために、つくられたもので、後日補強用に入れられたものなのだろう。
アーチ門の周囲の石は大きく、隅に行くにつれ、小振りの石になっている。
すべて表面を平らに加工した切石積みである。
城内は空地で、草が茂っている。
入口の説明板には、 「 正門を入ると、「火の神」が祀られている小さな祠がみえ、
さらに奥には「友利御嶽(ともりうたき)」があります。 」 とあったが、
説明もなく、みたところそうしたものは見つけられない。
(注)帰宅して調べると、中央の石垣の左に金網フェンスがあるが、
その中にあったようである。
表示があればお参りにいったが、フェンスがあるので入れないと思っていた。
裏門の右手に「焚字炉」の表示があり、よく見ると石組がある。
「 焚字炉(フンジロー)とは、文字を書いた紙を焼くためのものである。
1838年に來島した冊封使の林鴻年が、文字を書いた紙を敬うことを説き、
設置させたのが焚字炉の始まりである。 」
裏門から外に出るが、沖縄最古の歌謡集
「おもろさうし」にも謡われた城跡の正門・裏門の石造アーチ門は美しかった。
その先の左側は海に面した高台で、穏やかな海が広がっていた。
城壁が右側の道はその先から石畳で、道は荒れていた。
草叢に「←ウファカル」「←知念按司の墓」「←知念大川」の道標がある。
かっては石畳をはさんで古屋敷が点在していたという。
正門から北西に三百メートルほどの崖下には知念按司墓が、
その近くには稲作発祥の地といわれる「ウファカル」があるというので、
道を下っていったが、途中で右に入っていかなかったようで、行けなかった。
そのまま坂を下ると大川で、大川御嶽があった。
その先の小川が大川で、その先に知念城の駐車場がある。 こちらからも知念城へ行けたのだ!!
以上で、知念城の探訪は終了した。
所在地: 南城市知念字知念上田原
那覇バスターミナルから、東陽バス 38番 志喜屋行きで、60分、久美山バス停下車、
徒歩約20分
那覇空港から車で60分(那覇空港自動車道南風原北ICから、国道329号、331号線を知念方面へ)
時間がなくて訪問できなかったが、南城市には、以下の城(グスク)跡がある。
◎玉城城
築城の年代は不明だが、英祖王統(1260〜1349)の第四代目・玉城王が居住し、
城を修築拡大していったといわれる。
琉球開闢(かいびゃく)の神・アマミキョが築いたという伝承があり、
琉球王国の聖地巡礼である東御廻り(あがりうまーい)の霊場とされていたことから、
古代祭祀を研究するうえで貴重な遺跡とされ、昭和六十二年(1987)に国の史跡に指定された。
知念半島の標高百八十メートルの丘陵上に自然の断崖を利用して築かれ、
西北が崖、東方の傾斜地に高い石垣を積みあげ、段々状に上から一の郭、二の郭、三の郭を配置している。
郭内には、天つぎの御嶽があり、玉城城は城としてよりも宗教的要素が強かったのではないかと考えられる。
◎具志頭城
具志頭城は十四世紀の中期頃、英祖王統第二代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城だった。
自然の断崖上に建てられた連郭式の城であるが、その遺構はほとんど残っていない。
祠と立岩の拝所や琉球石灰岩の石積みがあちこちにあるだけで、今は公園になっている。