mrmaxの城めぐり 沖縄県7 (知念城)


知念城は、沖縄各地で按司と呼ばれる首長たちが抗争を繰り返していたグスク時代の前半期(十二世紀末から十三世紀)に築かれ、 十七世紀末に改築された後は知念番所(役所)として使われた。 
昭和四十七年(1972)に国の史跡に指定された。 


かうんたぁ。




知念城

令和三年(2021)十月二十九日、知念城を訪れた。 
前日名護市の喜瀬ビーチパレスに泊まり、美ら海水族館に昼迄いて、 沖縄自動車道で南風原南ICで降り、国道331号を走る。 
国道331号から右折して知念バス停の方に入るが、その先の道に入るところが分かりづらい。 
国道の北東約50mを北西に折れ、坂道がカーブしているが、600m位上っていくと、 右側に、知念城の駐車場があり、道の反対に「知念城跡→」の道標があり、 その下に「知念城跡 国指定史跡 昭和47年5月15日指定」の説明板がある。  

「 知念城跡は、ミーグスク(新城)とク―グスク(古城)と、 よばれる二つの郭からできています。  ク―グスクは、古い野面積みで囲まれ、一番高い岩山の上に立地しています。  ミーグスクは、二つの門と石垣で囲まれた郭です。  正門を入ると、「火の神」が祀られている小さな祠がみえ、 さらに奥には「友利御嶽(ともりうたき)」があります。  友利とは、「名高く尊い」という意味があります。 
知念城跡内には、1761年から1903年に至るまでの間、知念番所(間切の番所)が置かれました。 
現在の火の神は、番所が移転した後に、地域の人たちが祠を作り、祀ったものです。  この御嶽や火の神には、地元だけでなく、県内全域からの参拝客も多く訪れ、 東御廻り(アガリウマーイ)の拝所となっています。  知念城跡では、現在史跡整備事業を進めており、 それに伴う調査では18世紀を中心とした様々な資料が確認されています。 
 沖縄県南城市教育委員会      」

舗装された坂を下っていくと、右側に「ノロ屋敷跡」の標柱が立っている。 
ノロ屋敷に入ると琉球石灰岩の石積みがあり、これが祭壇と思われる。 
知念城には城主である知念按司に加え、祭祀を司る祝女が居住し、神との対話を行っていた。 

「 知念城は琉球王国が誕生する前のグスク時代の城で、 南城にも幾つかのグスクが乱立していた。 
「ノロ」とは、沖縄に於ける女性祭司のことで、地域の祭礼を主導する役割を担っている。  琉球王国時代には国王が任命するような制度になり、女性祭司が組織化され、 ノロはその組織の末端に位置していた。 
また、久高島は、琉球を創生したという神、アマミキヨが降臨された地とされ、聖地である。 
その対岸にあるのが知念城で、琉球王国になると、 知念は国王が行う東御廻り(アガリウマーイ)の拝所の一つになった。 」

知念城入口
     ノロ屋敷跡      ノロ屋敷跡
知念城入口
ノロ屋敷跡
ノロ屋敷拝所跡



さらに進むと、左側に樹木が茂っているところがあり、その先に城壁が見えてきた。 
さらに進むと、道より一段低いところに、「史跡 知念城跡」の石柱があり、 その隣に説明板があるのだが、字ははっきりせず、読めなかった。 

「 前述の説明板に、知念城はミーグスク(新城)とク―グスク(古城)と、 よばれる二つの郭からできている、と説明にあったが、 ク―グスク(古城)は、アマミキヨの長男、天孫氏の時代に、ミーグスク(新城)は 内間大親(尚真王の異母兄弟)の時代に築かれたとの伝承があるが、 ミーグスク(新城)は二つの門と石垣に囲まれた郭で、、  目の前の城壁はミーグスク(新城)のものである。 
ク―グスク(古城)は、古代琉球岩そのまま積み上げた城壁であったようだが、 目の前の樹木の中に埋まり、確認することはできなかった。 」

城壁にあるアーチ門は正門で、城壁は野面積みと切石積みが混在して作られていた。 
また、門手前の左側に飛び出している城壁が、ク―グスク(古城)と同じ作りではないか?、 思った。 

知念城
     「史跡 知念城跡」の石柱      知念城正門
知念城
「史跡 知念城跡」の石柱
知念城正門



門をくぐって振り返り、正門の石垣を眺める。 
木材はアーチ門の崩れを防ぐために、つくられたもので、後日補強用に入れられたものなのだろう。
アーチ門の周囲の石は大きく、隅に行くにつれ、小振りの石になっている。 
すべて表面を平らに加工した切石積みである。
城内は空地で、草が茂っている。 
入口の説明板には、 「 正門を入ると、「火の神」が祀られている小さな祠がみえ、 さらに奥には「友利御嶽(ともりうたき)」があります。 」 とあったが、 説明もなく、みたところそうしたものは見つけられない。 
(注)帰宅して調べると、中央の石垣の左に金網フェンスがあるが、 その中にあったようである。 
表示があればお参りにいったが、フェンスがあるので入れないと思っていた。 
裏門の右手に「焚字炉」の表示があり、よく見ると石組がある。 

「 焚字炉(フンジロー)とは、文字を書いた紙を焼くためのものである。 
1838年に來島した冊封使の林鴻年が、文字を書いた紙を敬うことを説き、 設置させたのが焚字炉の始まりである。 」

知念城正門
     知念城の中      焚字炉
知念城正門
知念城の内部
焚字炉



裏門から外に出るが、沖縄最古の歌謡集  「おもろさうし」にも謡われた城跡の正門・裏門の石造アーチ門は美しかった。 
その先の左側は海に面した高台で、穏やかな海が広がっていた。 
城壁が右側の道はその先から石畳で、道は荒れていた。 
草叢に「←ウファカル」「←知念按司の墓」「←知念大川」の道標がある。 
かっては石畳をはさんで古屋敷が点在していたという。 
正門から北西に三百メートルほどの崖下には知念按司墓が、 その近くには稲作発祥の地といわれる「ウファカル」があるというので、 道を下っていったが、途中で右に入っていかなかったようで、行けなかった。 
そのまま坂を下ると大川で、大川御嶽があった。 
その先の小川が大川で、その先に知念城の駐車場がある。 こちらからも知念城へ行けたのだ!!
以上で、知念城の探訪は終了した。 

知念城裏門
     展望      知念大川拝所
知念城裏門
晴れた日には久高島が見える
知念大川拝所



所在地: 南城市知念字知念上田原
那覇バスターミナルから、東陽バス 38番 志喜屋行きで、60分、久美山バス停下車、 徒歩約20分
那覇空港から車で60分(那覇空港自動車道南風原北ICから、国道329号、331号線を知念方面へ)





時間がなくて訪問できなかったが、南城市には、以下の城(グスク)跡がある。

◎玉城城
築城の年代は不明だが、英祖王統(1260〜1349)の第四代目・玉城王が居住し、 城を修築拡大していったといわれる。 
琉球開闢(かいびゃく)の神・アマミキョが築いたという伝承があり、 琉球王国の聖地巡礼である東御廻り(あがりうまーい)の霊場とされていたことから、 古代祭祀を研究するうえで貴重な遺跡とされ、昭和六十二年(1987)に国の史跡に指定された。  
知念半島の標高百八十メートルの丘陵上に自然の断崖を利用して築かれ、 西北が崖、東方の傾斜地に高い石垣を積みあげ、段々状に上から一の郭、二の郭、三の郭を配置している。 
郭内には、天つぎの御嶽があり、玉城城は城としてよりも宗教的要素が強かったのではないかと考えられる。 

◎具志頭城
具志頭城は十四世紀の中期頃、英祖王統第二代大成王の第三子具志頭按司が築城したものと伝えられ、以来、代々の具志頭按司の居城だった。 
自然の断崖上に建てられた連郭式の城であるが、その遺構はほとんど残っていない。 
祠と立岩の拝所や琉球石灰岩の石積みがあちこちにあるだけで、今は公園になっている。 



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