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ウローカーへ行くと、「久高島遙拝所」の説明板があり、海の中に久高島が見えた。
説明板「久高島遙拝所」
「琉球王国の絶対的な存在である国王はまさに太陽であり、
その太陽があがる方向にある久高島は、東方楽土ニライカナイへの「お通し(遙拝)」所として、
沖縄各地で崇拝されています。
南城市教育委員会」
木の階段を上ると、石畳の道が現れるが、「御門口」の説明石があった。
「 斉場御嶽の入口で、神社でいえば拝殿にあたる所です。
琉球最高の御嶽ゆえに、ここから入場できるのは王府関係者に限られていました。
右側には御嶽内にある六つの拝所を示す香炉が置かれ、
一般の人々はここで御嶽の中に向って拝みました。 」
御嶽の中には六つのイビ(神域)があり、
かっては王朝関係者以外はここで参拝をしていた、という格式のある御嶽なのである。
道の右角の「御門口(ウジョウグチ)」の説明板にも
「ここにある香炉は、御嶽内にある六ヶ所の拝所を表しています。
触れることはご遠慮ください。
南城市教育委員会」
とあった。
香炉とは説明板の下にある四角な石のことで、この上に線香を置いて神に祈るという、
この地独特のものである。
いよいよ、聖域に入っていく。 石畳は琉球岩で敷かれ、続いていた。
うっそうとした亜熱帯の樹木が茂る中を進む。
道の左側に崖下に空洞があるところに到着した。 大庫理(ウフグーイ)である。
説明石「大庫理(ウフグーイ)
「 首里城正殿の二階は大庫理と呼ばれ、祭祀的な機能を持つ格式の高い場所です。
聞得大君のお新下り儀式での「お名付け(霊威づけ)」儀式が、
首里城と同じ名前を持つこの場所でとり行われるのは、
その名にふさわしいことと、言えるでしょう。
前面にある磚(せん)敷きの広間では、神女たちが聞得大君を祝福し、
琉球王国の繁栄を祈りました。 」
道を直進するが、周囲は湿気が多いようで、ふきなどの植物がみっしり生えている。
三叉路で左折すると、右側に「斎場御嶽の艦砲穴」の説明板がある。
「 1945年の沖縄戦において、「鉄の暴風」と形容されるほどの砲弾が撃ち込まれ、 終戦直後は沖縄本島内至るところに、艦砲穴といわれる砲弾でできた穴が残っていたが、 大半の艦砲穴は埋められるなどして残っていない。 そのため、沖縄戦の様子を伝える戦争遺跡として保存している。 」
その先にある拝所は寄満(ユインチ)である。
説明石「寄満(ゆいんち)」
「 寄満とは、首里城内にある建物の名前で、国王のために食事を作る厨房を指します。
当時、ここには国内外からの海幸・山幸が集まりました。
それが、「豊穣の寄り満つる所」と理解されていたのでしょう。
同じ名前を持つ斎場御嶽のこの場所には、第二次大戦前まで、
その年の吉兆を占う馬の形をした石(うまぐゎーいし)が置かれていました。 」
寄満とは、王朝用語で「台所」を意味するが、ここで調理をしたわけではなく、
貿易の盛んであった当時の琉球では、世界からの交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と、
解釈されている。
三叉路に戻ると、「←寄満 三庫理→」の道標があり、三庫理(さんぐーい)に向う。
ここは巨大な石灰岩の山で、自然石や洞穴に囲まれたここ場所には、いくつもの拝所が集まっている。
崖下中央に貴婦人様御休所がある。
右側の崖の下に鍾乳石のつららのようなものが二つぶら下がっている。
下には二つの壺があり、その左には南城市教育委員会が立てた
「シキヨダユルアマガヌビー(奥側) アマダユルアシカヌビー(参道側)」の案内板がある。
「 壺は二本の鍾乳石から滴り落ちる「聖なる水」を受けるためのもので、 それぞれが、中城御殿(国王の世子)と聞得大君の吉兆を占うとともに、 お正月の若水とりの儀式にも使われる霊水でした。 」
左側の三角形の空間の突き当たりが三庫理(サングーイ)で、右側がチョウハナの拝所で、
いずれも首里城内にある場所と同じ名前を持っている。
現在、コロナの為、中に入れなかったので、拝所は確認できなかった。
また、その先にある久高島遙拝所も同様である。
ここは多くの見学者が訪れていたので、十分な見学はできず、終わった。
帰りに「斎場御嶽への参道」という説明板にであった。
「 この参道は、琉球王国時代の頃に行われた国王による聖地巡礼の儀式である 「東御廻り」の際、待垣泊(マチガキドウマイ)から斎場御嶽へ向かう道として使用された、 といわれています。 参道の中腹にはウローカーという井泉があり、そこで禊ぎを行ったのち、 斎場御嶽の入口である御門口へと向かいました。 」
この後、南城市地域物産館の南側にある知念岬へ行った。
知念岬は、知念岬公園になっていて、手前に駐車場がある。
知念岬はうみにせり出したようにあり、赤い屋根の東屋からは、太平洋が一望でき、
久高島は海の先にかすかに見えた。
遊歩道があり、下には岬が飛び出し、高台になり、橋が架かっている。
心地よい海風に吹かれながら、散策が楽しめる。
海岸線の上には、気持よさそうに、ハンググライダーが飛ぶ姿が見られた。
沖縄旅行で一番のんびりした至福の時間であった。
今夜の宿は、ユインチホテル沖縄である。
沖縄では珍しく、温泉があるホテルで、温泉は塩分が濃い泉質であった。
斎場御嶽へは県庁南口から東陽バスの38系統に乗ると乗り換えなしで行ける。
おもろまち駅前から琉球バス58系統に乗り、開南で下車し、
東陽バスの38系統に乗り換えても行ける。
那覇空港または那覇市内から車で高速道路を経由し40分〜50分
「玉泉洞」
南城市玉城前川には、おきなわワールド文化王国があり、広大な敷地に鍾乳洞の玉泉洞と
ハブ博物公園など、十の施設が点在している。
その中で、王国村と玉泉洞へ入った。
玉泉洞には、「東洋一洞」と名付けられている場所があり、
ここには二メートルを越える背の高い
鍾乳石が数多く林立していて、天井高20m、幅20m、奥行80mの大広間であった。
鍾乳石には化石も混じっていた。 この施設は見る人に楽しんでもらうためだろうが、
それぞれに名前を付けている。
水が池のように溜って、下に流れている所には「黄金の盃」と名付けていた。
説明板「黄金の盃(おうごんのさかづき)」
「 この鍾乳石はリムストーンと呼ばれ、高さは25m、外周31mもあり、
このタイプの鍾乳石では日本最大の大きさです。 」
三十分位の見学だったと思うが、見る価値はあった、と思った。
ここは南風原南ICに近く、那覇空港にも近いので、団体客のバスは時間調整にも使われるようで、
以前、会社の社員旅行で訪れた時は、王国村とハブ博物館の組み合わせで料金は鍾乳洞の半分だった。
南部の戦跡めぐり
令和三年(2021)十月二十九日、沖縄本島の南部を旅した。
「
沖縄は第二次大戦で、一番被害の大きかったところで、特に南部に於ける戦死者の数が多い。
軍港の那覇が近かったことと、海岸線からの平坦地が多いため、上陸しやすかったからである。
日本陸軍も沖縄決戦に備え、多くの兵を集め、また、沖縄の青年、少年、女学生を召集し、
その結果、多くの若い命が奪われた。 」
今回の旅行の最後は平和祈念公園とひめゆりの塔の訪問である。
平和祈念公園は、糸満市の摩文仁の丘を南に臨み、南東部に美しい海岸線を眺めることができる台地
にある。
「 当該地区は、我が国の歴史上唯一の地上戦が繰り広げられた沖縄戦の最後の激戦地であったことから、昭和四十年に琉球政府により、沖縄戦跡政府立公園の指定を受けた。
昭和四十七年までに、参拝道、噴水広場、平和祈念広場等が出来、
本土復帰後の昭和五十年六月に沖縄県立平和祈念資料館が開館した。
公園中央部のエントランス広場には、平和の礎や平和祈念資料館、平和の丘、
沖縄平和祈念堂等の施設がある。
本園の東南部一帯の丘陵地は、沖縄戦で最後の激戦地となった場所で、
国立戦没者墓苑や各県の慰霊塔が建立されている。 」
中央口から入ると、駐車場があり、左側の高台に沖縄平和祈念堂が建っている。
正面はエントランス広場である。 その奥に半円形の施設があり、中央に平和の火、
そして、手前に平和の礎がある。
とにかく広く、園内を100円で周回する電動カーが走っていた。
沖縄平和祈念公園をあとにして、ひめゆりの塔に向う。
少し走ると右側にひめゆりの塔があったので、道の反対のお店やさんの駐車場に止めた。
ここは自由に停めてもよいようである。
園内に入ると、「沖縄戦とひめゆり学徒隊」の石碑があり、以下のようなことが書かれていた。
「 昭和二十年(1945)三月、米軍の上陸作戦開始とともに、
沖縄の男女学徒が戦場に動員された。
三月二十三日、南風原の沖縄陸軍病院に配属されたのは、
沖縄県立第一高等女学校と沖縄師範学校女子部の女学生で、
それぞれ、乙姫、白百合と名付けられた。
その両方の名前から姫百合、戦後の
平仮名でひめゆりと呼ばれるようになった。
戦場の病院は、丘の中腹に掘り巡らされた横穴壕にベットを備えただけの施設で、
砲煙弾雨の中、学徒は医者と看護婦の下、負傷兵の看護、水汲み、伝令、食糧の運搬などを担った。 米軍の攻撃が日本軍司令部がある首里まで迫り、
五月二十五日、陸軍病院の南部への撤退が始まった。
学徒たちは、砲弾と悪路のなか、真壁、伊原地区までたどり着いた。
病院としての機能を失った後も、六つの壕に分散して避難し、
伝令や水汲み、食糧の確保の任にあった。
6月十八日夜、ひめゆり学徒に突然、「解散命令」が下された。
負傷した学徒は壕に取り残され、外に放り出された学徒たちは砲弾の飛び交う中、
逃げまとい、追い詰められて、多くの命が失われました。 」
ひめゆりの塔は、沖縄戦末期に、沖縄陸軍病院第三外科が置かれた壕の跡に
立つ慰霊碑である。
まっすぐ進むと、正面に「沖縄戦殉職医療人之碑」が立っていた。
その左側には「陸軍病院第三外科職員之碑」があり、その下に戦没者の氏名が書かれていた。
その左手に「沖縄陸軍病院第三外科壕跡」の石柱があり、その右側に穴が見える。
その奥の白い石碑が「ひめゆりの塔」である。
説明板「ひめゆりの塔」
「 伊原第三外科壕 − このガマ(自然洞窟)は、沖縄戦時、南風原町にあった沖縄陸軍病院
第三外科配属の軍医、看護婦、ひめゆり学徒たちが、
南部への撤退後に避難した場所。 1945年6月19日朝の米軍の攻撃により、
ガマに入っていた約100名中80余名(うち42名がひめゆり学徒と教師)が亡くなった。
ひめゆり学徒の最期の地の一つである。
ひめゆりの塔 − 沖縄戦で亡くなった女師・一高女の教師・学徒の慰霊碑。
終戦翌年、付近の収容所にいた真和志村民により、建立された。 」
その奥に、ひめゆり平和祈念資料館がある。
この後、糸満を経て、空港に向ったが、この道は埋め立て地に立地しているようで、
港に架かる橋を渡る景色は絶景である。
時間があるので、道の駅糸満 ゆくらに寄った。
農協が経営する建物に入ると、新鮮な野菜が山積みされていた。 ばら売りが普通のようだが、
うりの種類も多いようで、これでチャンプルを作るのだろう。
漁協が運営する建物では、魚のまま売られていると思い訪れたが、案に反して、
切り削いて刺身にしたり、伊勢エビをフライにして1500円で売るなどしていて、
持ち帰ればそのまま食べられるようになっていたのには、驚いた。
以上で、今回の二泊三日の沖縄の旅は終わった。
沖縄旅行の感想
「
令和三年(2021)十月二十六日から二十九日の二泊三日、そして、
前回(平成二十七年(2015)二月十七日から二十日)の三泊四日の旅行で、
沖縄で選定された日本100名城と続100名城のスタンプを押し、霊地の御嶽や
太平洋戦争の戦地跡を廻ったので、もう訪れることもないかもしれない。
本土復帰から数年間は毎月出張で訪問し、
その後も、機会を見ながら訪れてきた小生には、郷里に似た気持がある。
訪れる度、沖縄が変貌していくのに驚く。
その前訪れたのは、沖縄サミット開催された年で、首里城が世界遺産に登録され、
ゆいレールが開通したばかりの時であった。
沖縄の民家がコンクリート化されたのと水不足対策のため丸いタンクを設置されている
のが印象的で、本土復帰した当時を知っている小生には驚きであったが、
国際通りや牧志公設市場などには沖縄らしさが残っていた。
それから十年以上経ったが、内地化が進んだことに驚く。
住宅のコンクリート化は一段と進み、赤茶色の琉球瓦屋根の家はほとんど姿を消し、
マンション建設が多くなってきた。
本土資本によるコンビニやファーストフーズチェーン化が進み、沖縄三越の消滅など、
国際通りを歩いても本土の観光地と変わらない風情である。
本土復帰当時はオージービーフなど輸入牛肉などに税的特権があり、飲食店で安く食べられたが、それもなくなり、地元特産の品物を売りにし、チャンプル文化と沖縄民謡を
売りにする居酒屋が増えていた。
ちんすこうに沖縄の塩を加えた塩ちんすこうや紅芋タルトは良かったが、
パイナップルやパッションフルーツなどは輸送費を考えると国内で調達した方が安くよいものが手にいれられる。
前回訪れた時は、中国正月と合致したので台湾や中国からの観光客が多く訪れていた。
日本製品が免税で買う事ができるので、それを買う姿が印象的であった。
今回は、コロナで沖縄観光が大きく影響を受けていて、営業せず、交付金を受ける店が
多いのに驚いた。
本土からの観光客にはアピールする土産が塩ちんすこうや紅芋タルトくらいしかないのは今後の課題であろう。
政府は沖縄県に対し多額の資金を提供していて、道路の整備が急速に進められてきた。
おかげでレンタカーによる旅はナビとの連携もよく快適であった。
那覇は本土からの移住者も増え、生活のしかたが本土化が進行中であり、
言葉も沖縄なまり残る程度で、このままでは沖縄(琉球)文化が消失するおそれがある。
先日、北海道へ行き、アイヌの文化を発信しようとしている多くの人を見た。
沖縄も琉球の文化を維持しながら、本土とうまく付き合うとよいなあと思った。 」