mrmaxの城めぐり 沖縄の歴史
琉球王国の誕生から消滅、沖縄県の誕生、米国による支配下の沖縄、本土復帰を記した沖縄の歴史である。
■ 琉球国の誕生と消滅
琉球国の誕生
「 沖縄では石器や土器は本土(日本国内)とあまり変わらない時期から使われていた。
この時代は狩猟と漁業で生活していた時代で、沖縄の先史時代といわれる。 沖縄では、日本国内のことを本土という。
水稲耕作と鉄器の使用は本土(日本国内)より三〜四世紀も遅い。
沖縄に鉄器や水稲耕作が持ち込まれたのは鎌倉時代の九世紀〜十世紀のことで、
沖縄のぐすく時代と呼ばれる時である。 なお、沖縄では城をぐすくと呼んでいた。
鉄器使用が遅れたのは、鉄鉱石や砂鉄が採れないため、鉄資源を本土か中国などにたよらざるをえなかった
という理由による。 沖縄では鉄は大変貴重なもので、沖縄で護身術の空手が発達したのは武器がなかったという事情があったからである。
沖縄に国のような社会構造が形成されたのは十二世紀以降で、本土や中国や朝鮮に比べて大変遅かった。
隣国との交流が活発になり、陶磁器や鉄器が手に得られるようになり、また、稲作が始まって、漁労
採集から農耕社会に移行していった過程で、集落が形成されるようになり、
それを束ねる按司(あじ)と呼ばれるリーダーが現れた。
琉球国の初代王と伝えられる舜天(しゅんてん)もその一人である。
按司(あじ)は交易と土地の支配で富を増やし、石積みで囲われたぐすく(城)を作って、他の集団との攻防を繰り返した。
この時期をぐすく時代と呼ぶが、島内に三百以上のぐすくがあった。
十四世紀(本土では室町時代初期にあたる時期)に入ると、各地の抗争も三つの勢力に終結し、三山時代を
迎える。
三山とは北山(ほくざんー今帰仁城)、中山(那覇市北部の浦添城)、南山(糸満市の南山城)である。
なかでも、中山がもっとも強力だった。 この時代に中国(明)との朝貢が始まり、琉球の交易時代が始まった。
三山時代は三山の王ではなく、本島南部の一地方の無名の按司(あじ)、佐敷の尚巴志(しょうはし)により、終焉を迎えた。
尚巴志は、南山最強の按司である島添大武寧を倒し、また、中山王を倒して、中山を支配。
また、移住してきた中国人を重用し、政治の中枢に配して交易を積極的にすすめ、都を浦添城から首里城に移した。
これらの交易により財力が増し、他の二山を凌駕する勢力となり、1426年に北山、
そして、1429年に南山も倒して、沖縄本島の統一を成し遂げた。
この時代を第1尚氏時代といい、七十年間続いた。
なお、文字の使用と仏教の伝来は十三世紀(日本国内では五〜六世紀のこと)で、
暦制度は十五世紀(同7世紀)、文学書の編集は十六世紀(同八世紀)と、日本国内に比べてかなり遅く、
沖縄が国際社会に登場するのは交易で存在価値を発揮するようになった十五世紀以降である。
このことで分かるように、沖縄は現在は日本の領土であるが、歴史的に見ればまったく違う独立国である。 」
琉球王国
「 第一尚氏時代、尚氏王朝は統一を果たしたものの、権力の基盤が弱く、
按司達がこれまでのように各地のぐすく(城)を拠点に
独自の勢力を保持していた。
海外貿易は全盛期を迎え、中国はもちろん、マラッカやシャムやベトナム
などまで足を伸ばし、活発に交易を行い、大和(日本国)も交易の相手になった。
第1尚氏時代は、金丸のクーデターにより終止符を打つ。
金丸は尚円という名で明から冊封(さくほう)を受け、1470年、第2尚氏王朝が誕生する。
なお、冊封とは中国王朝の皇帝がその周辺諸国の君主と名目的な君臣関係を結ぶことである。
第2尚氏王朝は1879年の沖縄県の誕生まで続く。
第2尚氏王朝第三代目尚真王の統治の時、王国の黄金時代を迎えた。
尚真王は十二歳で即位し、五十年間統治したが、王を頂点とした中央集権体制を確立し、
間切り・シマ制度という行政システムを整備。
また、神女組織を確立して、宗教の面からも王国を統治する体制を作った。
園比屋武御嶽石門や玉陵などの造営事業も行った。
一方、日本国内では戦国時代が終わりとなり、豊臣秀吉による国内統一が進み、関心は海外に向かった。
1588年、琉球王尚寧は島津氏の働きで、秀吉に入貢したが、これを契機に沖縄苦難の時代への幕開けとなる。
1606年、島津氏の薩摩藩は徳川家康より沖縄征討の許しをえて、
1609年、三千名の兵力で琉球を侵略し、一ヶ月半で全島を制圧し、琉球王朝へ奄美大島の割譲を要求し、認めさせた。
尚寧王は江戸に送られ、島津氏は家康の了承を得て、沖縄を実質的に支配することになり、
沖縄本島以南は薩摩藩の間接統治、以北の奄美諸島は直接統治するということになった。
尚寧王は約二年半で帰国できたが、薩摩から与えられたのは実高四万石余の知行地だけで、小領主に転落し、
1636年には、中山王号もはずされ、国司と称するよう申し渡された。
その結果、毎年春には薩摩に使者を送るのが慣例になり、この行事は「大和上り」といわれるようになっていく。
また、将軍が即位した時には慶賀使を、国王即位には謝恩使を送ることが義務づけられた。
これを「江戸上り」という。
江戸幕府は鎖国したため、島津藩としては外国との交易が出来なかったが、沖縄がその目的のために使われた。
島津藩の進貢貿易推進のため、明との交易が「琉球王」の名前で続けられたのである。
島津藩は出先機関を設置するなど、統制を強化したため、琉球王府の財政が逼迫し、
農民への負担過重が強化され、沖縄の人々は飢えと疫病で悩まされることとなった。
琉球国が支配する先島(宮古島や石垣島などの離島)には人頭税が課せられ、税を逃れるため、人減らし
が行われたりした。
慶応二年(1866)、清国から冊封使が渡来し、先王尚育を祭る行事が行われ、
また、王子尚泰を琉球国中山王に封ずる式典が行われたが、これが最後の冊封となった。
慶応四年(1868)、江戸幕府が大政奉還し、明治政府が誕生する。
明治政府は明治十二年(1879)、沖縄県を設置し、琉球王国の日本への併合を有無を言わせず行ない、
琉球王国最後の王、尚泰は首里城を明け渡し、東京に移住させられた。
このようにして、尚巴志以来、約五百年にわたって続いた琉球王国は滅亡した。 」
■ 沖縄県の誕生と米軍支配下の沖縄
琉球から沖縄へ
「 明治政府は、明治四年(1871)の廃藩置県では、鹿児島に対し琉球の鹿児島県の管轄下を認めたが、
翌年に入り、宮古住民が乗った琉球船が台湾に漂着して、多くの乗組員が殺害される事件が起き、
これを契機に、琉球の日清両属の状態の是正や日本への統合の方法が議論され、
9月14日、琉球からの使節一行に対し、尚泰を琉球藩主として叙して、華族に列する旨を宣言し、
琉球藩の設置と明治政府が直接管理することになった。
なお、台湾にはこの事件で言いがかりをつけ、明治七年(1874)に台湾へ出兵して、占拠した。
琉球藩は誕生したものの日清両属問題は解決していないため、翌年、政府は処分官を派遣し、
清国との関係を廃止することと中央集権的な国家体制にみあった藩政改革を実行するよう、
琉球藩にせまった。
それに対し、王府内衆官吏は、反対派の抵抗と拒否にあったが、明治十二年(1879)、琉球藩を廃し、
沖縄県を設置する旨を布達し、三月三十一日までに首里城を明け渡すことを命じた。
このようにして誕生した沖縄県であるが、農村の有力者により有利に地割替えができる地割制度が温存
され、一村単位で連帯責任を負う租税制度も温存された。
沖縄に対する勧業政策は砂糖生産に偏重し、これまでの鹿児島寄留商人の買い占めと高利貸しからの救済をあげているが、
実際は政府の製糖事業の統制に寄与しただけで、糖業農民の地位向上には結びつかなかった。
また、教育制度の改革で学校施設の建設と就学の奨励を行ったが、その負担は地元住民の負担となったため、
該当地区の農民の負担が増加し、同化政策の教育はかえって本土なみでないという差別を意識させることになった。
沖縄県の改革ができなかった背景には沖縄旧支配層の士族層の存在がある。
彼らは置県以後、県政ボイコットで固まったので、彼らの協力と支援がないと県政維持ができない状態にあったので、
彼らの生活基盤を優遇することによって、彼らを利用する方向を選んだのである。
沖縄の士族層は有碌士族と無碌士族に分けられる。
有碌士族は琉球王朝の王子や按司または勲功のあったものに王府から土地を給与されたものである。
かれは本土でいえば地主層であった。
無碌士族は首里や那覇を中心に六千人から七千人もいたようで、全県の七%、首里や那覇の人口の半数を占めていた。
彼らは王府の役職に就かない時は無給で、アルバイトをしたり、妻子に商売をさせて、また、多くの借金をして、
糊口つないでいた。 廃藩により、出世の希望を失った無碌士族は県庁に押し寄せて、救済を求めた。
それに対し、明治十八年(1885)年までに授産資金として十七万円余を支給している。
農民は、政府の旧慣温存策に対して、なんらの恩恵や権利を与えられなかったので、
みずからの生産権や生活権をかちとる運動を始めた。
宮古島の人頭税の廃止などを求めた城間正安や自由民権運動の謝花昇達がいた。 しかしながら、彼らの戦いは失敗に終わる。
明治の中ごろから着手された地方制度の改革は、国内では町村制や県制の施行という形になって現れたが、
沖縄は、二十年程遅れ、明治四十年代になり実施されたが、国内の各県と違い、
政府や県知事に与えられた権限が残るものであった。
このような特例が廃止されたのは、第一次世界大戦終了後の大正九年(1920)である。
こうした諸制度の改革が県民の幸福につながったわけではない。
明治三十年代に実施された国税は、日露戦争の特別税や砂糖消費税の新設により、
年々高額になっていたが、
それに県税や市町村税が加わり、県民の経済的窮状は悪化の一途をたどった。
第一次世界大戦後の不景気がおとずれると、農家の収入を支えてきた黒糖の値段が暴落し、
三度の食事のうち一度はそてつを食べたといわれるそてつ地獄がおそった。
このころになると極貧の農家だけでなく、中農層の子弟までが身売りに出された。
海外や他府県への移民や出稼ぎが激増したのもこのころである。 」
沖縄戦
「 戦争に役立つものが乏しい沖縄は労働力の供給が要求され、
昭和十六年には大陸開拓先遺隊が派遣され、
昭和十八年には皇国農村建設のため、他府県農村に五万戸の農家の送り出しが行われた。
昭和十九年七月にサイパンが陥落すると、
沖縄決戦の予感が人びとのはだに感じられるようになってきた。
同月、老幼婦女子の疎開命令がだされ、九州や台湾などへの十万人の疎開計画が建てられた。
一方、同年三月から翌年二月までの一年間に約十万人の兵力が沖縄に集結してきた。
昭和十九年八月二十一日夕方、那覇港を出た三隻の学童疎開の船が翌日夜悪石島付近で、
米潜水艦の攻撃を受け、
対馬丸は撃沈され、千七百人の疎開者は波にのまれてしまった。
生き残ったものはわずかに二百二十七人である。
同年十月十日には那覇市への爆撃により市街地はほとんど失い、七百八十五人の死傷者を出した。
そして、翌年の昭和二十年三月二十三日に艦上機による沖縄爆撃、
二十六日には慶良間諸島への上陸、ついで、四月一日、沖縄本島への上陸が始まった。
この戦いで戦艦大和は撃沈。 沖縄戦は三月も続き、沖縄は焦土化し、米軍一万二千、日本軍九万四千、
一般住民は九万四千人の死傷者を出した。
日本軍の中には二万八千人の沖縄出身の軍人軍属が含まれている。
軍人軍属は十七歳から四十五歳で組織化された防衛隊一万二千人、中学、女学校の学童隊、看護隊などで、
沖縄県民の犠牲者は実に十二万人を越え、県民の半数をはるかに上回るものだった。
しかもそのほとんどが老幼婦女子だった。
日本軍の作戦は本土への攻撃を引き延ばすたけのものだったので、市民を巻き添えにして、
集団で那覇から南部へ移動するものだった。
また、捕虜になるより死をという教育で、集団自決を迫ったので、被害は拡大したのである。
沖縄県民には、八月十五日の終戦記念日はない。
県民にあるのは、沖縄決戦で捕虜になった、あるいは、
砲撃で飛ばされて捕虜収容所に入れられた日というように、各人各様の敗戦の日なのである。
これらは、沖縄戦が終わった六月二十三日、あるいは八月十五日以後も続いた。
百人百様の敗戦を迎えたが、共通しているのは死と隣り合わせの敗戦だったということである。 」
米軍支配下の沖縄
「 米軍統治下の沖縄は沖縄の人びとにとって不幸な時だったのではなかろうか?
米軍は沖縄本島上陸の直後から沖縄を直接支配を始めた。
日本がポツダム宣言を受け入れ降伏した後も、沖縄を米国の天然の国境と称して、居座りを続けたのである。
その背景には極東をめぐる世界環境の変化があり、
米国が支援した蒋介石政権が台湾に追いやられて、
共産党が中国本土を制圧し、中華人民共和国が誕生した。
こうした国際情勢の変化に対応するには、沖縄は極東を抑えるのに重要な位置にあった。
米国は昭和二十四年に五千万ドルもの予算を組んで、沖縄に本格的な基地建設を始めた。
翌年、朝鮮動乱が始まると、沖縄の嘉手納基地は朝鮮への出撃基地として重要な役割を果たすことになる。
昭和二十五年に発表された対日講和七原則には沖縄と小笠原の日本本土からの分離、
米国との安全保障関係のとりきめがうたわれたのは、米国による沖縄の基地の固定化が狙いである。
米軍による直接支配は、昭和二十五年十二月に発足した米国民政府の発足まで続いたが、
米国民政府が発足した後も、軍による統治の方針は一貫として変わらなかった。
昭和二十七年に講和条約が結ばれてからも、沖縄基地の機能を最大限に発揮させようとする米国の軍事優先策に変更はなく、
サンフランシスコ条約の締結により沖縄支配に根拠を得た米国は基地強化に乗り出した。
基地の建設の為の土地の強制収用や新たな武器の持ち込みが強行されたので、住民の反対運動も増えていった。
琉球政府はそれを抑えるため、次から次にと布告を発した。
これまでも本土復帰に対する運動が一部の人達で行われてきたが、
反対する人々に対する人権のはく奪や基地のための民有地の接収に対抗するため、大規模な反対運動が起こってきた。
戦後の沖縄における自治拡大の重点目標だった行政主席の公選は本土復帰が実現する日まで一度も実施されなかった。
また、立法権は県民により選出された議員で構成する立法院にあったが、
米軍が握る琉球政府が拒否権を持ち、多くの立法を拒否あるいは無効としてきた。 司法権も侵されていた。
民裁判所が審理していた友利事件やサンマ事件では、琉球政府の高等弁務官により、事件を米国民政府
民事裁判所に移送せよと命じた。
このような事実は自国民による裁判の独立性をまったく損なうものといわざるえない。
軍人や軍属が犯した犯罪の裁判権を沖縄裁判所は持っておらず、その結果、米人による犯罪が年を追う毎に増えていった。
本土と沖縄の往来にも制限があった。
本土と沖縄の往来にはパスポートが必要で、米軍に都合の悪い者が本土国民と接触することを恐れて、
渡航拒否を行ったのである。
米軍が沖縄を占領した直後は、沖縄戦による荒廃により、どの通貨も流通せず、取引は物々交換で行われた。
昭和二十一年(1946)四月、米軍は軍票として発行するB円を公式通貨と制定する。
八月五日からは若干の条件付きで、新旧日本円の流通も認めたが、
米軍の沖縄統治が固定化された昭和二十三年(1948)になると、日本円の流通は禁止され、
B円が沖縄で流通する唯一の通貨となった。
B円だけを使用させることにより、米国民政府は通貨の流通量を統制することができた。
日本円との公定レートは当初は 1:1だったが、1950年に日本円 3 : B円 1 となった。
日本の円とドルとの交換レートが1ドル=360円の時代なので、1B円は120円 ということになる。
この交換レートは、本土復帰するまで続いた。
日本円に比べ割高なレートがとられたのは、米軍が基地建設や駐留経費などを日本企業から調達する際、
安価で調達するためだったといわれる。
その結果、沖縄県の経済は空洞化した上、本土からの企業の進出も遅らせる結果となった。
小生は沖縄の本土復帰作業で沖縄を往復したが、沖縄の自動車会社の社長の話では、日本のメーカーとの
決済はドル建てだったので、ユーザーから得たB円をドルに替えなければならず、その調達に苦労したという。
また、米軍士や軍属への販売はドルが得られるので上得意だった、といわれた。
港に車や部品が到着していても、ドルの入手が間に合わないと、決済が終了しないため、部品の場合は、
税関の目を盗んで、保税倉庫から修理に必要な最小分だけの部品を持ってくるようなこともやったという。
今考えて見れば、税関の係官も見て見ぬふりをしたのだろう。
沖縄の返還運動は年を追うごとに強まり、昭和三十六年(1962)、琉球政府立法院は、本土復帰に関する要請
決議を全会一致で可決し、国連加盟国へ送付することとなった。
しかし、基地で生活をする住民や土木建築業、飲食業、風俗業などに携わる勢力は復帰反対や米軍駐留賛成の運動を展開し、
彼等に支援された議員が復帰賛成派の議員と衝突した。
昭和四十三年(1968)十一月に、琉球政府の行政主席選挙が行われ、九十パーセント近い投票率を記録。
この選挙により、沖縄復帰協の屋良朝苗が当選、「 即時無条件全面返還 」を訴えた。
しかし、すぐに本土復帰することにはならなかった。
昭和四十五年(1970)に起きた米軍兵士による交通事故を契機としたコザ暴動が起き、
常日頃から米軍兵士が優遇され、沖縄県民が不当に差別されたことに対する市民の怒りが表面化し、
これ以上アメリカ軍政下に置くことは適当でないことを内外に知らしめた。
昭和四十四年(1969)の日米首脳会談で、アメリカ大統領ニクソンが沖縄返還を約束。
屋良主席や復帰賛成派の県民は、日本復帰と同時に米軍基地の全面返還を望んだが、
「 米軍基地を維持したまま、1972年に核抜き・本土並みの返還する 」 という取り決めが、
佐藤首相とニクソン大統領との間で交わされ、その裏には、非核三原則の拡大解釈や核兵器持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの利益を最大限尊重した
内容だったことが、最近になって明らかになったことは新聞の報道の通りである。 」
■ 沖縄の本土復帰
沖縄の返還と復帰作業
「 昭和四十七年(1972)五月十五日、琉球政府が統治した沖縄は沖縄県となり、日本へ復帰を果たした。
日本政府は、返還協定第七条にもとづき、特別支出金として総額三億二千万ドルをアメリカに支払う。
特別支出金の内訳は、米軍政下で設置された琉球水道公社、琉球電力公社、琉球開発金融公社のほか、
那覇空港施設、 琉球政府庁舎、あるいは航空保安施設、
航路標識などの民生用資産の引き継ぎの代金、一億七千五百万ドルが含まれていたので、
県民の間からは 「 これらの施設や資産は無償譲渡されるべきものであって、
アメリカ政府に対価を支払うのはおかしい 」 といった批判が噴出した。
しかし、日本政府はこの取り決めに従い、この巨額の対価を支払った。
本土復帰の作業は順次行われ、ドルやB円の日本円への切り替えのため、
日本銀行の那覇支店が開設され、日本円を秘密裡に海運輸送を行い、円への切り替えに備えた。
小生が本土復帰作業で従事したのは道路区分帯の変更である。
当時、トヨタ自動車に勤務していた小生は、その作業の一部に参加する機会を得た。
これまで米国と同じ、車両の通行が右側通行だったのを左側通行に替えるものであるが、
これは難事業で、実現したのは六年後の昭和五十三年(1978)七月三十日である。
道路交通法の改正に始まり、交差点の改修。
交差点の角の切り込みは左側と右側では違っているので、その為の用地の取得と工事。
バスやタクシーでは右ハンドルに替えないと、乗客の降りる位置が道路側になるので、バスの場合はハンドルや昇降口の変更にかかわる費用を政府が全額負担。
タクシーの場合は購入資金の長期貸付と一部援助。
一般車の場合は、ヘットライトの車道側だけ照らすようになっているので、シールドビームの交換のため、
部品代と交換費用が修理工場や部品商に援助された。
一番大変だったのが交差点の信号の変更で、
事前に取り付けて、信号をマスクで覆い、切り替え当日の午前0時一斉に切り替えられるようにした。 入念に
行われた切り替え当日、どのようになったかを見にいきたかったが、切り替え作業の山場を終えた時、
仕事の担当が変わったので、当日の光景は見ることはできなかった。
日本復帰に伴って自衛隊が置かれた。 返還後は道路、病院、学校などの公共投資に力が入れられ、
また数々の優遇税制や特例や諸税の免除が実施され、本土並みの生活水準への到達が官民一体となって進められた。 」
沖縄のその後(現状)
「
本土並みの生活水準への到達目指していたが、返還から三十年以上経った現在でも、
一人あたりの県民所得は全国最低のままである。
沖縄の経済は、本土から遠いため、製造業などの工業が育たないため、
米軍基地と公共事業、そして、観光が経済の柱となっている。
一方で、小泉改革の一環として行われた各種特区構想をきっかけとして、
コールセンターやデータセンタが誘致されるなど、新たな産業作りも始まっている。
また、沖縄県出身者の地元志向の強さを狙って、人材流動の激しい本土ではなく、
沖縄でIT開発拠点を作ろうとする動きも起きてきた。
国内にあって沖縄にないものは動物園と鉄道であった。
沖縄で移動動物園はこれまでも行われたが、
人口が少なく、リピーターになる確率の低い沖縄では動物園の常設は無理だといわれる。
本土復帰を記念して開催された沖縄海洋博をきっかけにした美ら海水族館が好調であるのは、うれしいことである。
台風が多く、狭い沖縄本島では車社会で鉄道事業は無理といわれたが、首里と那覇市内と空港を結ぶモノレール・ゆいレールができた。
また、琉球王朝の首里城が18世紀の姿に復元され、2000年にその他のグスク(城)跡と共に世界遺産に登録された。
また、カジノに関する法案も通り、沖縄にカジノが設けられるかもしれない。
辺野古への移転も着々進んでいる。 完成した時、沖縄県民がどういう結論を下すの
だろうか?
また、地球温暖化が沖縄に与える影響はないのだろうか?
色々な課題がありそうである。
仕事の関係から沖縄に出張した小生は沖縄は終世忘れること
ができない大事な場所であり、これからも発展続けることを望んでいる。
これから十年後、二十年後、環境保全が叫ばれる中で、どのように変わるか楽しみである。 」
戻る(城跡めぐり表紙)
(MR.MAXの世界)へ
|