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大手道を更に上ると車道に合流。 道脇にしめ縄で囲まれた大岩があった。
少し行くと「望笙峠」の標識があったが、ここからは琵琶湖が一望でき、竹武島が見えた。
出発地の案内板に 「 小谷城は北国街道、中山道、北国脇往還の交通の要衝にあり、湖上交通を利用すれば
はるか湖南、湖西、京都に通じる地の利を占める上に江北三郡を一望におさめ得る要所である。 」 とあったが、
正にその通りであり、姉川の合戦は眼下で行われているのが見られたのではと思った。
少し行くと車道は終わるが、その手前の左手に「金吾丸跡」の石柱と説明板がある。
その先には「間柄峠」の石柱と説明板が立っている。
「 大永五年(1525)七月江南の六角定頼が小谷城に来攻した際、
浅井亮政を助けるため、越前より朝倉金吾宗滴と先鋒真柄備中守が来援した。
越前軍が布陣した地を金吾丸、真柄峠とするが、地元では古くから間柄峠として伝わる。 」
下図は小谷城歴史資料館前にある屋外説明会場の下にある小谷城の曲輪復元図である。
小谷城は、小谷山に深く切り込んだ清水谷とその両側の尾根、
及び小谷山々頂大嶽(おおづく)にあり、その構造は、右側の本丸を中心とする主郭部と居館のあった
清水谷(きよみずだに)、それらを守るように配置された出丸・金吾丸・大嶽城・月所丸・焼尾丸・
福寿丸・山崎丸の独立した砦で、構成されていた。
車道の終わりには数台車が置けるスペースがあり、湖北町観光協会が建てた「小谷城跡案内図」がある。
道なりに少し行くと「番所跡」の標石が立っている。
その先の三叉路には「小谷城跡本丸跡」の道標があるので、矢印に従い進むと、「御茶屋跡」の標石がある。
木立の中を少しづつ高くなっている道を行くと「馬洗池」の標石があり、近くにみずたまりのようなものがあるが、
御馬屋の曲輪があった場所である。
説明板「馬洗池・御馬屋
「 馬洗池は湧水ではないが、往時は年中水が絶えなかったという。
西隣に土塁で囲まれた馬屋があり、北の柳の馬場に通じていて、馬関係の一画である。 」
かなり急な道になると右側に「首据石」の標石があり、大石があった。
説明板「首据石」
「 この石の上に罪人の首をさらしたという。
天文二年(1523)一月初代城主亮政は六角氏との合戦の際、
家臣今井秀信が敵方に内通していたことを知り、神照寺に誘殺しここにさらしたという。 」
その先の三叉路には「右赤尾美作守屋敷」の標柱と「赤尾屋敷→」の道標があり。
説明板には 「 赤尾屋敷 ここから約百メートル先に重臣赤尾氏の二段になった屋敷がある。(以下略) 」 とあった。
右折して進むと、少しじめじめした所に「赤尾屋敷跡」の標石が建っていた。
「 三代目城主、浅井長政は、織田信長の妹お市の方と結婚し、信長と義兄弟になった。 元亀元年(1570)、織田信長が浅井との同盟している越前の朝倉氏を攻めると、 義兄信長から離反し、織田・徳川連合軍を朝倉軍とともに姉川で迎えうった。 浅井・朝倉連合軍は、姉川では敗れ退陣したものの、その後、志賀の陣で優勢となり、一進一退の攻防を繰り返した。 一度は和睦を結んだが、天正元年(1573)大嶽城を攻め落とされ、 ここを守っていた朝倉軍は退却し、朝倉義景は越前国大野で自刃してしまう。 織田信長により小谷城へ総攻撃をかけられ、天正元年(1573)八月二十八日、 長政はこの屋敷に入って、自刃し、二十九才の生涯を閉じた。 」
屋敷跡の一角に「浅井長政公自刃の地」という石碑が建っている。
三叉路に戻り、直登すると南北に長く、長方形の台地に出る。
ここは、桜の馬場・大広間・本丸と、続く尾根伝いの幾段もの削平地である。
「桜の馬場」の石標の近くに石垣で囲まれた中に「浅井氏及家臣供養塔」があった。
また、一段高いところに 「小谷城跡」の標柱と大きな「小谷城址」の石碑が建っていた。
その先にあるのは「大広間跡」の標柱である。
説明板には 「 一名千畳敷という約三十五アールの広さがである。 主殿の跡と推定され、
その昔多くの武将たちが会堂したであろう姿が想像される。
礎石、貨銭、陶器片その他が発掘された。 」 とある。
大広間跡の一画で桜が咲いていて美しい。
その先に一段と高くなっているところがあり、「本丸」と書かれた説明板がある。
「 鐘の丸ともいう。 石垣をめぐらした約十二メートルの高さに、 約三十メートルに二十五メートルの広さをもつ。 落城寸前まで城主長政が居住していた処である。 彦根城西の丸三重櫓は元小谷城天主と伝える。 」
本丸の石垣は、大部分が自然崩壊で崩れていたが、曲輪を登ると、下の大広間跡がかなり下に見えた。
城主長政はここから、大広間のある主殿や桜馬場を見ていたのだろう、と思った。
木立に囲まれた本丸跡で男女三人がランチしていた。
本丸北側は谷のようになっていたが、これは「大堀切」と呼ばれる大きな空掘である。
「 大堀切は、深さ約十メ-トル、幅約十五メ-トル、長さ約四十メ-トルにおよぶ大きな空堀である。
これは小谷城が本丸までしか作られていなかったころ、北の尾根筋を切断するために築かれたものと思われる。 」
本丸を大広間跡側に降り、本丸の左側を歩いて行くと「中丸跡」の石標がある。
「 中丸は三段からなっていて、東西の幅が約三十メ-トル、南北幅が約六十メ-トルの曲輪で、 落城の時浅井七郎、大野木茂俊が守っていたと伝えられ、ここで秀吉に約束書きを渡したといわれている。 」
北東の隅に「刀洗池」の石標があり、わずかに淀んだ水があるが、城内の井戸の一つであったと考えられる。
更に上っていくと「京極丸」の石標と説明板があるが、小谷城落城の最大ポイントになったところである。
「 大永四年(1524) 浅井亮政が、主君京極高清、高廷父子を迎えた処である。 天正元年(1573) 八月二十七日夜半、この曲輪の清水谷側大野木屋敷を経て侵入してきた秀吉の軍勢によって占拠され、 小丸の久政と本丸の長政との連絡を絶たれた。 」
京極丸の周囲には、土塁が良く残っている。
更に上ると「小丸」の石標が建っていて、説明板には
「 二代目久政の隠居後の居所である。 久政は天正元年八月二十七日、信長の先鋒秀吉軍の進攻を受け、
鶴松太夫の介錯により、四十九才を一期としてここに切腹して果てたのである。 」 とある。
桜の馬場から本丸、中の丸、京極丸、小丸と歩いてきたが、主郭は小谷山の尾根に直線的に築かれ、
この先にある最高地点の山王丸へと続いている。
小丸からは険しい坂道だが、少し歩くと「山王丸」の石標と説明板がある。
説明板「山王丸」
「 山王権現(現小谷神社)が祀られていたところ。 海抜三百四十五メートルの高所にあり、
詰ノ丸と思われる。 東南部の巨石による野づら積の積み石垣は興味つきない遺構の一つである。 」
そのまま進むと小谷山の北側で、下に落ち込んでいて、道は左に向う。
ここには「 哀史秘ぶ石垣崩れ萩乱る 」という歌が書かれた木柱が立っていた。
その先には「←至 大嶽 清水谷」の道標があり、進んでいくと、
その先は谷に落ち込むような急な下り坂になっている。
このまま続けると下った先に六坊跡があり、峰続きに進むと上りになって、
清水谷に沿った対岸の尾根の最高地点に、
天正元年(1573)には朝倉軍が守っていた大嶽(おおづく)城跡がある。
小生はここで小谷城の探訪を辞めて引き返すことにしたが、
大嶽城から反対側の尾根に、福寿丸、山崎丸と曲輪が続いていたことが、上述の小谷城の曲輪復元図で分かる。
小谷城を訪れての感想だが、自然の地形を余すことなく、巧みに取り込んだ要害であることがよく分った。
最後に野面積みの石垣を見て、もと来た道を引き返し、 お市の方や子女達が利用したと伝えられる須賀谷温泉に向う。
「 須賀谷温泉は長浜市の北方に位置する小谷山山麓にある温泉で、一軒だけの旅館である。 創業は昭和四十八年頃のようであるが、 温泉は戦国時代の小谷城の城主であった浅井長政やお市の方などが湯治に通ったといわれるので、 かなり歴史がある温泉といえる。 お湯はくみ出されたときには透明であるが、時間の経過で赤茶色をしている。 」
日本100名城のスタンプは麓の小谷城歴史資料館にある。
このあたりは土佐屋敷、三田村屋敷、御屋敷、徳勝寺などがあった場所で、
現在は歴史資料館がハイキングコースの起点になっている。
小谷城へはJR北陸本線「河毛駅」から徒歩で約30分、麓の上り口から本丸までは徒歩で約40分
バスでは河毛駅から湖北町コミユニテイバス小谷山線で、約20分「小谷城址」下車、本丸までは徒歩で約40分
小谷城のスタンプは小谷山戦国歴史資料館(0749-78-2320 9時〜17時 火休 )にて