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表門道を上っていくと両側に石垣がある。
その上に橋が架かっていて、
ここは山を切り開いて谷底のようにしている「大掘切」である。
敵兵は坂を上ってきても、上から弓や鉄砲で攻撃されてしまうしくみである。
大堀切の奥には、小生が上って来た道とは違う道、城の正門のある大手門橋から大手門を経て上ってくる大手門道がある。
大手門道を下に降り振り返って写したのが、下中央写真である。
大手門道を進むと、大手門からの入城者用の料金所があり、その先に大手門の石垣が残っている。
話をもとに戻して、大堀切の先にある石段を上る。 これは鐘の丸の虎口(出入口)の石垣である。
鐘の丸には、その先右側にある石段を上っていく。
鐘の丸の正面玄関が鐘の丸虎口で、往時は城門と番所があり、
石垣の上には多聞櫓と塀で厳重に防御されていた。
石段を上った突き当たりの石垣の下に説明板がある。
「 攻め手に威圧の意味を込めて、城門手前の石垣に二つの鏡石が配置され、威風堂々とした面構えだった。 遺構調査では、石垣の上に建っていた二階御多聞櫓と御多聞櫓の二棟分の基礎が良好に残っていた。 また、石垣の一部は佐和山城で使われたいたものである。 」
上ったところにある草ぼうぼうの空地は鐘の丸跡である。
「 鐘の丸は彦根城の中で、最も早く完成した曲輪である。
ここは独立した空間で、関東地方に多くある馬出しである。 馬出しは平地に造られることが多く、
このような高いところに造られるのは珍しいと、奈良大学の千田教授がテレビで話されていた。
築城当時は鐘楼があったため、鐘の丸と称したが、鐘の音が城下北方に届かなかったため、太鼓丸に移されたという。
鐘の丸には大広間や留守居などの建物があったが、
大広間は享保十七年(1732)に解体されて江戸に運ばれ、
彦根藩江戸屋敷の大広間に転用されたと伝えられる。 」
鐘の丸の反対側に、先程下で見た橋があるが、橋は敵が攻めてきた時は切り落される構造になっている。
その先にある天秤櫓は、堀切の上の架け橋を渡った突き当たりにある石垣の上に建っている。
「 天秤櫓は、長い多聞櫓の左右の端に二重二階の一対の隅櫓を構え、 あたかも天秤ばかりのような独特な形をしていることから、天秤櫓と呼ばれた。 この櫓は、豊臣秀吉が創築した長浜城の大手門を移築したといわれるもので、 この形式はわが国城郭で、彦根城ただ一つといわれる。 」
天秤櫓台石垣は、天秤櫓の向かって、右が「牛蒡積み(打込みハギ積み)」、
左半分は嘉永七年(1854)に中央部から西方の石垣を足元から積みかえるほどの大修理を行った時、
「落し積み(切り込みハギ積み)」で積み直された。 今回の調査でも確認できたという。
門をくぐった先は太鼓丸である。
「 太鼓丸は、本丸と鐘の丸に挟まれたゆるやかな斜面に立地し、 南に天秤櫓、東西は土塁の両斜面に石垣を設けた石塁で防御され、その上に塀が建っていたといわれる。 」
入ったところは左、右に曲がる枡形を形成している。
そのまま上ると正面にあるのは太鼓門石垣で、左右に突き出すように建っている。
左に進むと左側に鐘楼と茶屋がある。 茶屋は鐘楼の管理棟だったという。
鐘楼の時報鐘は、十二代藩主井伊直亮の弘化元年(1844)に鋳造されたもので、
当初、鐘の丸にあった鐘の音が城下の北隅に届かなかったので、現在地に移された。
道はその先、右折、右折と百八十度回転するようになっている枡形で、右側にあるのは太鼓門である。
「 太鼓門は本丸の表口を防御する櫓門で、築城の時に佐和山城から太鼓櫓門は移築されたと伝わり、 太鼓門櫓と続櫓は国の重要文化財に指定されている。 」
太鼓門をくぐった先も枡形になっている。
門をくぐって振り返ると、櫓門としては珍しく高欄付きの廊下になっている。
慶長十一年(1606)、天守が完成すると井伊直継が入城したが、その後も工事が続けられ、元和八年(1622)に彦根城は完成した。 その中心をなしたのが本丸である。
江戸時代には天守閣の他、藩主の居館の御広間や宝蔵、そして、着見櫓などの建物が建っていた。
今は天守閣だけで、その前にひこやんのボードがあった。
華麗な装飾を施された白壁の三重天守は、明治維新の廃城令や彦根空襲の戦災をまぬがれ、 旧国宝保存法による城郭国宝の第1号に指定された。
「 天守は三層三階地下一階の複合式望楼型で、牛蒡積み(ごぼうづみ)といわれる石垣で支えられている。
屋根は切妻破風、入母屋破風、千鳥破風、唐破風を多用に配して、二階と三階には華頭窓(花頭窓)、
三階には高欄付きの廻縁を巡らせた変化に富んだ美しい姿をしている。
天守は通し柱を用いないで、各階ごとに積み上げられていく方法で作られていて、
全体としては櫓の上に高欄を付けた望楼を乗せる古い形式をとっている。
昭和三十二年(1957)から昭和三十五年(1960)に行われた天守解体修理の時、
見付けられた墨書きのある建築材から天守の完成は慶長十二年(1607)年頃とされる。
この天守閣は京極高次が城主を務めた大津城の四重五階の天守閣を移転し、三重に縮小したもので、
天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されているという。
天守三階には破風の間という小部屋がある。 破風内に設けられた破風の間には鉄砲狭間が切ってあり、
防御のための小空間になっている。 この部屋はその下屋根の軒近くまで突き出ているので、
屋根面の死角が少なく、防御に有効だった。
階段は敵が中に攻め入っても、階段をのぼってくる敵を上から突き落せるように急な角度(62度)になっている。
また、はしごのような階段はただ上の小さな掛かりが掛かっているだけなので、
敵が登ろうとすれば、蹴って階段を落とす構造となっている。 」
城郭考古学者、奈良大学教授の千田先生は、「大津城の五階建ての天守を彦根城では三階にしたのは、家康の江戸城や徳川家の名古屋城の五階に対する遠慮からだろうとのこと、
また、色々な破風を付けて派手で華麗にしたのは、石田三成の佐和山城が豪華で壮大であったので、
地元民に対し小さくて立派だねえ、といわせるものと造ったのだろう。 」 と、述べておられる。
天守の左側を通り抜けると西の丸跡である。 今は樹木が茂っていて、西の丸井戸が残る。
「 西の丸の北側にあるのは小谷城から移築したと伝わる、国の重要文化財の三重櫓である。
西の丸三重櫓は本丸に隣接する西の丸の西北隅に位置し、東側と北側にそれぞれ一階の続櫓をくの字に付設している。 」
訪れた時、九月に近畿を縦断した台風の被害により、西の丸のある北に進めず、西の丸三重櫓には行けなかった。
なお、西の丸の先に深い空堀があり、木橋で渡るとそこにするのが馬出しである。
前述の鐘の丸と共に、これらの馬出しが彦根城の本丸を強固に守っていた。
天守北面から右に下る石段があり、黒門山道を下る。
その下にあったのが井戸曲輪である。
門跡の石垣と思えるところに、「井戸曲輪」の説明板がある。
「 黒門から本丸に向う坂道の途中に設けられた小曲輪である。
弧状に築かれたこの曲輪の北東隅には塩櫓が築かれ、周囲は瓦塀で巡っていた。
塩櫓の近くには方形と円形の桝が現存していて、石組溝で集められた雨水を浄化して貯水する
タイプの井戸だったと考えられている。 曲輪の名もこれに因んで名付けられた。
井戸曲輪は黒門から侵入する敵兵に対する守りと同時に城を守る兵士の水と塩という生命維持に
必要な物品の備蓄庫でもあった。 」
井戸曲輪の上下の石垣は高さ十メートルを超える高石垣で、
特に下方の石垣は十九・四メートルあり、彦根城の石垣で、もっとも高く堅牢な構造になっている。
黒門山道を下ると虎口が現れる。 江戸時代には枡形虎口を形成し、門もあったが今は石垣が残っている。
黒門跡には入城料を支払う小屋があり、黒門橋は土橋だが、江戸時代には木橋だったと思われる。
黒門橋からの内掘は一部腰巻石垣になっている。
なお、黒門の北側には山崎曲輪があり、筆頭家老の木俣守勝の屋敷があり、
三重櫓が建っていたが、明治初期に破却された。
筆頭家老の木俣家は一万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月間二十日は西の丸三重櫓で執務を行っていたという。
橋を渡ると「井伊直弼の生誕地」の石柱があり、その隣に「槻御殿」の説明板が立っている。
「 槻御殿(けやきごてん)は第四代藩主井伊直興が延宝五年(1677)に着手し、同七年(1679)に完成した。
下屋敷として築造されたものである。 木材はすべてケヤキで、その華麗さは各大名も驚嘆したものである。
大老井伊直弼は文化十二年十月二十九日にここで生まれた。
けやき御殿は数棟の東屋からなり、今日に至るまでしばしば修理が加えられたが、
往時のおもかげをとどめている。
第十二代藩主井伊直亮が文化年間(1804〜1817)に楽々之間を増築して以来、正式名のけやき御殿より、
楽々園の方が有名になった。 楽々園の名は「仁者は山に楽しみ、智者は水を楽しむ」の意からとったとされ、
民の楽を楽しむという仁政の意をもっているともされる。 」
中に入ると、玄関があり、式台が見える。 左に身分の低い者の玄関(内玄関)がある。
右に回るとあるのが御書院。
「 第十一代藩主井伊直中は、文化九年(1812)の隠居に際し、大規模な増改築を行った。
御書院もその一つである。
御書院は御上段(十畳)、上之間段(十二畳)、御次之間(十五畳)、御小座敷(十三畳)の四室と二辺に設けられた御入側で構成されている。
御上段は一間半の床に一間の棚と明床を備え、床の大壁や小壁は金地に小文様を散らして、豪壮の中にも可憐な趣が勝っている。
各部屋とも天井は棹縁天井で、長押を回し、斜格子の欄間を配する。
屋根は入母屋造りの柿葺きである。
御書院の南西は御鈴之間と鎖口などの部屋につながり、両部屋とも楽々園の御殿の表向きと裏向きを限る部屋であり、
御書院が奥向きの建物だったことを示している。 」
御書院の右奥にある建物は地震の間(お茶座敷)と雷の間である。
雷の間は工事中のようだった。 その隣には今はないが、楽々の間があり、
江戸時代にはその先は琵琶湖の水が入っていたので、夏は涼しいかったようである。
地震の間(お茶座敷)と雷の間の前は庭園になっている。
「 井伊直中時代の楽々園は現存する建物が建つ面積の五倍程の大規模な建物が建ち、 表書院、能舞台、奥御座之間、御亭「安楽亭」、侍女詰所などがあった。 」
井伊家の藩主は江戸詰で参勤交代がないため、藩主時代には彦根にはこられなかったが、
隠居するとここで十分楽しめたのではないか?
楽々園庭園の南に玄宮園がある。
なお、玄宮園と楽々園は大名庭園として評価され、「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。
「 江戸時代、これらの庭園は松原内湖に面し、入江内湖も望めたが、今は埋め立てられて、
玄宮園の池の東北隅に船着場跡があるだけである。
池の東側からは苔むした臨池閣と風翔台越しに天守が見え、絶景である。
井伊氏は加増を重ね、寛永十年(1633)には譜代大名の中では最高となる三十五万石の所領となった。
明治の廃城令で各地の城が破壊、売却されていく中、
明治十一年十月、明治天皇が巡幸で彦根を通過した際、彦根城の保存を命じたため破却は逃れたという。
巡幸に随行していた大隈重信が城の破却中止を天皇に奉上したという説と、
天皇の従妹にあたるかね子(住持攝専夫人)が奉上したという説とがある。
玄宮園は中国湖南省洞庭湖にある玄宗皇帝の離宮庭園を参考に作庭されたとされる。
天守を偕景として、中心の入り込んだ池には四つの島と九つの橋が架かり、
畔には臨池閣、風翔台、八景亭などの建物が配される。 」
鳳翔台は鳳凰が大空を舞い上がる場所という意味で名付けられた高台である。 ここでは抹茶がいただける。
以上で彦根城の探訪は終了である。
彦根城へはJR東海道本線彦根駅から彦根城の表門橋までは徒歩約10分
彦根城のスタンプは二の丸駐車場脇の彦根市開国記念館内にある彦根城管理事務所(8時30分〜17時) にて
佐和山城
佐和山城は、標高232.5mの佐和山に近江守護佐々木氏によって築城された城で、
ここは不破(ふわ)の関があった関ケ原に近く、交通の要衝だったので、
幾多の武将が城主になったが、天正十八年(1590)石田三成が城主となると、
五層の天守を構え、鳥居本を大手とする立派な城だった、といわれる。
「 慶長五年(1600)、井伊直政が関ヶ原の戦いに徳川四天王の一人として抜群の功をたてると、
十八万石にて近江国北東部に封ぜられ、この戦いに敗れた石田三成の居城、佐和山城が与えられた。
徳川家康は、西の抑えと非常時に朝廷を守るため、近江国の彦根に徳川最強軍団の井伊直政を配したと伝えられる。
井伊直政は、翌慶長六年(1601)、上野の国高崎城から佐和山城に移ってきた。
直政は湖岸に近い磯山(現在の米原市磯)に居城を移すことを計画したが、関ヶ原の戦いで大けがをして、
傷がいえぬまま慶長七年(1602)に四十一才で死去した。
徳川家康は家督を次男の直継に継がせることと長男直継(後改名して直勝)は分家して、安中藩主になることを命じた。
また、長男には浜松時代からの家臣、次男に武田の遺臣を割り振ったという。 直継はまだ十二才である。
直政が死亡した直後、地元の民衆の間で三成の怨霊が城下を彷徨っているといううわさが広まり、
家康の命により、佐和山城を始めとする三成に関係するものは全て廃された。
彦根城の築城にともない、佐和山城は廃城になり、建築物の多くは彦根城や麓の清凉寺と龍潭寺に移築されたという。 」
現在、佐和山城跡は私有地であり、佐和山城を感じさせるものは「佐和山城址」の石碑だけである。
なお、佐和山トンネル手前に瑞岳寺があり、その左手に佐和山城を彷彿させるコンクリートの建物があるが、
遊園地を計画した個人が建てたもので、崩れかけていた。
彦根に最初に訪れたのは四十数年前だが、その時に比べ、史跡の整備が進み、彦根城下町も観光化されてきれいになっている。
彦根城外堀には夢京橋キャッスルロードという通りがあり、
通りの家は全て、白壁、弁柄、黒格子、簾、紺暖簾などに改造されて、城下町の町並みを再現したスタイルになっている。
白壁の塀で周囲を囲み、「 浄土宗 宗安寺 」 の標柱がある寺院がある。
「 宗安寺は朝鮮通信使の上官が宿泊したところで、近江八幡の本願寺八幡別院に相当する寺である。
朱塗りの山門は赤門と呼ばれた門で、石田三成の居城の左和山城の大手門を移築したもので、
元禄十四年(1701)の彦根大火の際も唯一残った建物である。
但し、道路の拡張工事で当初の位置から、西方へ約五メートル五十センチ移動している。
宗安寺は京の百万遍知恩院を本山とする浄土宗の寺院である。
足利尊氏、直義兄弟は各国に安国寺という寺を一つ建立することにしたが、
上野国の安国寺が最初の寺であると伝えられる。
彦根藩初代藩主の井伊直政が箕輪城主の時、正室の東梅院の両親を供養するため、安国寺を再興した。
慶長三年(1598)、直政が高崎城主に変わると安国寺も高崎に移転した。
関ヶ原の戦い後の慶長六年に直政は近江国佐和山へ転封となると、佐和山城の麓に移転。
同八年、彦根城の築城工事が始まると現在地に移され、寺号を現在の名前に改名した。
元禄十四年の大火で赤門を除き、全焼したが、翌年に長浜城殿舎を移転して、本堂を再建した。 」
赤門の前には、徳本行者の名号碑がある。
佐和山城跡(彦根市古沢町)へは彦根駅から徒歩で60分 現在は「佐和山城跡」の看板があるだけである