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JR安土駅の東北東にあり、徒歩二十五分で麓の駐車場に着く。
駐車場右側に「安土城址」の石碑と「特別史跡安土城跡」の説明板が立っている。
駐車場の先の石垣のあたりが大手門の跡で、説明板には、発掘調査時の写真などで発掘された様子が掲載されていた。
また、「石塁と大手三門」の説明板があった。
「 安土城の南口は、石塁と呼ばれる石垣を用いた防塁でさえぎられていた。 東西約110mの石塁には四ヶ所の出入口を設けていたが、通常の城郭では大手門の一ヶ所だけである。 織田信長は天皇の行幸を計画していたことから、城の正面を京の内裏と同じ三門にしたのではないかと想定される。 」
入城料を支払い、中に入ると、真直ぐ続く道があるが、これが安土城の大手道である。
大手道の左右に続く石垣の上には虎口(出入口のこと)がある郭跡が続く。
なお、発掘時見付けた石はそのままにして、不足部分は新しい石で補った、と説明板にあった。
「 大手道は直線部分と七曲り部分と主郭外周部分の三つで構成されている。 大手門から山腹部約百八十メートルの直線部分は道幅約六メートルと広く、 その両脇に幅一メートル〜一・二メートルの石敷側溝があり、その外側に高い石塁が築かれている。 道の東西には複数の郭をひな段状に配していた。 羽柴秀吉邸、伝前田利家邸などの屋敷で、 これら屋敷は書院造の主殿を中心に厩や隅櫓等、多くの建物で構成されていたので、 安土城の正面玄関にふさわしい堂々とした屋敷地といえる。 」
入ってすぐの左側に、羽柴秀吉邸の跡とされる空地があったが、 傍らの「羽柴秀吉邸復元図」を見ると、かなり立派だったことがわかる。
「 羽柴秀吉邸は、上下二段に分れた郭で構成され、下段郭の入口には壮大な櫓門が建っていた。
門内の石段を上がると馬を六頭飼うことができる厩があり、武士の控え間である遠侍があった。
下部郭には厩があるだけで、それ以外は広場。 2メートルの石段を上がると上段郭の裏手に出る。
上部郭の正面入口は高麗門で、大手道に面している。 その脇に重層の隅櫓があり、防備を固める。
門を入ると右手に台所、さらに進むと主屋の玄関、玄関に入ると式台や遠侍の間があり、
その奥に主人が常住する主殿が建っている。 三棟の建物を接続した建物の面積は366uである。 」
大手道のところどころに「石仏」の表示がある。 よく見ると石仏である。
この石仏は築城の時に石材として使用されたものである。
城普請に使用する多くの石材は近郊の山々から採取されたが、石仏や墓石等も含まれていた。
山腹部分は傾斜が最も急なところで、ジクザクに屈曲しながら延びている。
この付近は踏石や敷石に石仏が多く使われている。
また、屈曲部分に平坦な踊り場を設けることなく、踏石列を扇状に屈曲させているのが特徴である。
大手道は、「伝武井夕庵邸跡」の石碑のあたりから東に屈曲し、主郭部の外周を構成している高い石垣の裾を巡り、
本丸に直接通じる本丸裏門に至る。
途中の樹木に「天守閣まであと百九十段。頑張って」という表示があり、気合いを入れた。
ここから主郭部の外周道までは道幅は四メートルと狭くなる。
左側の一段高いところに「伝織田信忠邸跡」の碑がある。
木立の中を進み、石段を登ると道の脇に「織田信澄邸跡」「森蘭丸邸跡」の石碑が建っているが、
このあたりは信長の家族や家臣団の屋敷があったところである。
山の尾根づたいに北へ行くと八角平や薬師平に至る。
少し険しい先に数段の石段があり、その先には高い石垣が囲む外周道があり、「黒金門跡」の石碑が建っている。
黒金門は安土城中枢部への主要な入口の一つで、城下町と結ばれた百々橋口道、七曲口道からの入口である。
黒金門周囲の石垣はこれまで見てきた石塁や郭の石垣に比べ、使われている石が大きく、石垣が高い。
高石垣の裾を巡る外周道は二メートルから六メートルの道幅で、山裾から通じる城内道と結ばれていた。
この外周道の要所には隅櫓や櫓門等で守られた入口が数か所設けられていた。
黒金門より先は信長が選んだ側近たちと日常生活を送っていたところである。
東西百八十メートル、南北百メートルに及ぶこの周辺は高く頑丈な石垣で固められ、周囲から屹立していた。
黒金門から天主に至る通路や天主から八角堂への通路上には覆いかぶさるように建物が建ち並んでいた、といわれる。
当時、石垣の上に建物があった訳で、当時の人々は地下通路を通って天守に向うような錯覚を覚えたのではないだろうか?
天主とともに焼失した郭群。 焼失した跡の痕跡を残る石垣が今も残るには頑丈だった証拠である。
安土城焼失から百年後の貞享四年(1687)に著された「近江国蒲生郡安土古城図」に安土城の主郭部が描かれていて、
現在使われている名称はこの古城図によるという。
黒金門を入ると左側に伝長谷川邸跡、右に進み、石段を二か所上がると、右側に仏足石がある。
「 この一帯は、高く聳える天主を中心に本丸、二の丸、三の丸等の主要郭が建っていた所で、 標高百八十メートルを越える安土山では最も高いところにある。 発掘調査では天主と本丸などが火災に遭っていることが分かった。 大量の焼けた瓦の中に菊紋、桐紋等の金箔瓦も含まれていた。 」
左手の狭い石段を上がると「二の丸址」と「織田信長公」の石碑が建っているが、 奥まったところに豊臣秀吉が建立した織田信長廟がある。
「 中にある慰霊塔は、天正十年(1582)、京都大徳寺で信長の葬儀をとり行った羽柴秀吉が、 信長の菩提を弔うために建立したもので、この時、秀吉は、ハ見寺の住職は代々織田家縁のものがつとめ、 信長の菩提を弔うようにといった、と伝えられる。 」
二の丸の右手に進むと広い場所に出るが、天主を仰ぐこの場所は千畳敷と呼ばれ、 安土城の本丸御殿があったところである。 今は広場に樹木が生え、説明板が立っている。
「 東西約五十メートル、北東約三十四メートルの東西に細長い敷地は、 三方に天主台、本丸帯郭、三の丸の石垣で囲まれ、南方に展望が開けている。 発掘された礎石の配列状態から、中庭をはさんで三棟建っていたと推定される。 この建物は、天皇の住まいの清涼殿に非常によく似ていて、 西方の清涼殿風の建物は太くて高い床束が一階の床を支える高床構造だったと推定される。 これらの建物は実現しなかったが、天皇の行幸のために信長が用意した行幸御殿だった可能性が高いようである。 」
その先の石垣の奥にあるのは三の丸の跡である。
南に開けていたとされる展望は樹木に覆われて、下界は一部しか見えなかった。
左手にある天守に登る石段を進むと、途中に「天主台址」の石碑があり、 その先に石垣で囲まれた中に礎石が整然と並ぶ土地がある。 ここが天主台跡である。
説明板「天守台跡」
「 安土城の天守台は完成してわずか三年の天正十年(1582)六月に焼失し、
その後は訪れるものもなく、永い年月の間瓦礫と草木の下に埋もれていた。
昭和十五年に調査が入り、厚い堆積土を取除くと往時のままの礎石が現れた。
これは天主を支えていた礎石で、この上に外観の瓦層は五層、地上六階、地下一階の全七階の建物が建っていた。
今いる場所は地階部分で、天主の高さはこれよりはるかに大きく、
二倍半近くあったが、石垣の上部の崩落が激しく、その規模の大きさは確認できない。
天主の内部は狩野永徳が描いた墨絵で飾られた部屋や金碧極彩色で仕上げた部屋などがあり、
当時の日本最高の技術と芸術の粋を集大成して造られたといわれている。」
安土城は日本初の天守で、金の鯱を初めて乗せたのも安土城だと言われているが、この天守台に建っていたのである。
近くの「信長の館」には安土城天主の上部二階部分の復元したというものがある。
「 天主の高さは約三十二メートルあり、当時としては傑出した高層建築物であった。
外壁は三層目までが黒、四層目が朱、五層目が金箔。屋根瓦も赤・青・金箔瓦が使われていて、
桃山文化を代表する豪華絢欄な建築物だったといわれている。 」
天主台跡の石垣の上に立つと周囲の景色が一望できる。
「 信長は、天正五年(1577)六月、十三ヶ条の掟を定め、城下町を楽市楽座諸役を免じて、
商業活動の自由を認めた。 翌年の天正六年正月、諸将を城内に招き、城内の見物を許す。
十一月には、近江や京都から相撲取を集めて、興行する。
翌天正七年(1579)五月十一日の吉日に、信長は安土城天主に移り、住居にしている。
天正十年(1582)の元旦、諸将を礼金百文にて、ハ見寺と本丸御殿の見学を許す。
五月十九日にはハ見寺にて能の興行をもよおす。 翌二十日徳川家康一行を城中の江雲寺御殿で接待。
そして、五月二十九日に本能寺に入り、六月二日に明智光秀により本能寺の襲撃があり、自刃した。
六月五日、光秀が入城するも、十二日には山崎合戦で秀吉により、光秀は逃亡途中に討たれ、
六月十五日に安土城天主は炎上して焼失してしまう。 」
信長も城下町を眺め、また、比良山や比叡山の方を眺め、天下布武を目指していたのだろうと思った。
帰りはハ見寺のあったところに向って、百々橋口道を下る。 ハ見寺は信長が創建した寺院である。
「 百々橋口道は、百々橋からハ見寺(そうけんじ)の境内を横切って黒金門に至る道で、
天主と城下町を結ぶ道であった。
城を訪問する人々はこの道を利用して信長のもとに参上したと記録にある。
ハ見寺は本能寺の変では類焼を免れたが、江戸末期の嘉永七年(1854)に伽藍中枢部を焼失してしまう。
その後、大手道の「伝徳川家康邸跡」に寺地を移し、現在 ハ見寺はそこにある。 」
ハ見寺の跡地には「ハ見寺本堂跡」の碑があり、「 ハ見寺の建立当時の伽藍配置は、密教本堂形式の本堂を中心に、
前方両脇に三重塔と鐘楼を配置したもので、本堂の脇には鎮守社と拝殿が建てられていた。 ) という、
説明板が立っている。
三重塔は本堂跡前方の石段を少し下ったところにあるが、嘉永七年(1854)の火災を免れた貴重なものである。
近江名所図会・ハ見寺には当時の姿が描かれている。
「 境内の南方は急傾斜地となっているため、参道は西の二王門、表門から本堂前を通り、 裏門に通じていた。 その後、豊臣秀頼によって、本堂の西に、渡り廊下で結ばれた書院と庫裏が増築された。 江戸時代には伽藍の東側に長屋と浴室、木小屋、土蔵、木蔵など、寺の生活を支える多くの建物が建てられた。 」
二王門は正面の柱間三間の中央間を出入口とする三間一戸の楼門で、 金剛力士を祀ることから二王門と呼ばれている。
「 棟木に元亀二年(1571)の建立を示す墨書銘があるが、信長が天正四年(1576)に安土城の築城に着手し、
同時にハ見寺を建てる際、甲賀郡から移築したと伝えられる。
木造金剛力士像は応仁元年(1467)の作で、二王門と共に国の重要文化財に指定されている。 」
安土東町には「セミナリオ跡」の石碑が建っている公園がある。
「 織田信長はキリスト教布教を容認し、保護した。
天正八年(1580) 信長は、宣教師に安土城下で教会建設の敷地を与える。
翌九年、安土の北松原町に馬場が築かれ、一月十五日、左義長を盛大に行う。
七月十五日には、天主及びハ見寺に提灯を吊るし、江中に舟を浮かべ、巡祭師バルニャーニをもてなす。
城下町から見た安土城の姿は幻想的で素晴らしい風景だったと思われる。
セミナリオは、イタリア人宣教師オルガンチノによって天正九年(1581)に創建された、
日本最初のキリシタン神学校だったが、安土城炎上の時に焼失したといわれる。 」
訪れた時(上記)にはまだ、日本100名城のスタンプ制度がなかった。
令和二年(2020)一月十八日、安土城のスタンプをもらいに、文芸の郷を訪れた。
ここにはあづちマリエートや文芸セミナリヨがあり、
その横に信長の館があるので、入館し、スタンプをゲットした。
天主の館の売り物はセビリア万博に出展された、原寸大の安土城の天主である。
この後、観音寺城を訪れたのだが、その情報が駅前の安土城郭資料館にあるというので、
安土城郭資料館を訪れた。
ここには安土城屏風絵や安土城と観音寺城の模型があった。
安土城へはJR東海道本線「安土駅」から徒歩約20分で登城口、登城口から天守台まで徒歩約25分
安土城のスタンプは、安土城天主信長の館(9時〜17時月休、祝日の場合は翌日休) と安土城郭資料館(9時〜17時 月休、祝日の場合は翌日休) にある
(ご参考) 司馬遼太郎の 「 街道をゆく 24 近江散歩 」
司馬遼太郎の 「 街道をゆく 24 近江散歩 」 の中に、
「 安土城址と琵琶湖 」 という章があるので、
参考までに、紹介します。
最初にはじめて安土城址に上ったときの思い出を書いている。
「 はじめて安土城址の山にのぼってのは中学校のころで、
記憶が一枚の水色の写真のように残っている。
山が、ひろがってゆく水のなかにあった。
わずか標高一九九メートルの山ながら、登るのが苦しかった。
麓からことごとく赤ばんだ石段で、苔むした石塁のあいだをさまざまに曲折し、まわりの谷はみな密林だった。
頭上にも木がしげり、空はわずかしか見えず、途中、木下隠れの薄暗い台ごとに、秀吉や家康の屋敷址とされる場所があった。
「 山そのものが、信長公のご墳墓だ 」 と、
案内してくれた、中腹のハ見寺の若い雲水がいったのをおぼえている。 」
遼太郎氏が登った頃は、今のように整備される前のことなので、 苦労して上っている。
「 最高所の天主台址にまでのぼりつめると、
予想しなかったことに、目の前いっぱいに湖がひろがっていた。
安土城は、ひろい野のきわまったところにあるため、大手門址からの感じでは、
この山の裏が湖であるなどは、あらかじめ想像していなかった。
古い地図で見ると、山というより、岬なのである。
琵琶湖の内湖である 伊庭湖(大中之湖) に向かってつき出ている。
この水景のうつくしさが、私の安土城についての基礎的なイメージになった。
織田信長という人は、湖と野の境いの山上にいたのである。
のぼりつめて天主台址に立つと、見わたすかぎり赤っぽい陸地になっていいて、湖などどこにもなかった。
やられた、とおもった。 」
遼太郎は、古地図を見て、安土城は琵琶湖湖畔の内湖の畔にあると信じて、
登ってきて見たら、琵琶湖は干拓されて、その姿が消えているのに、驚き憤慨している。
彼が見た赤っぽい陸地は、戦後行われた土木事業で出現した、
千三百へクタールの大干拓地である。
彼は最大の失敗として論じている。
小生は、安土城の章で、信長の話が中心と期待して読み進んだが、その話はなく、
農林省による戦後の干拓事業についてのコメントと歴史に終始している
内容であった。