mrmaxの城めぐり 滋賀県5 (八幡山城)

豊臣秀吉は織田信長の築いた安土城を廃城にして、甥の秀次の為に八幡山城を築いた。 
山頂部が山城、麓に居館と家臣屋敷がある中世風の城郭である。 
続日本100名城の第157番に選定されている。 


かうんたぁ。




八幡山城

平成二十年(2008)九月十三日、八幡山城跡を訪れた。 
最初に行ったのはJR近江八幡駅より北西へ二.五キロ程にある日牟禮八幡宮である。 

「日牟禮八幡宮神社の由来書」
「 日牟禮八幡宮の創建は極めて古く、応神天皇の時代には祠が建てられ、 日群之社八幡宮と呼ばれていた。 
正暦二年(991)には一条天皇の勅願により八幡山山上に社を建て、宇佐八幡宮を勧請して八幡宮を祀った。 
その後、寛弘二年(1005)に遥拝社を山麓に建立し、山上の社は上の社、山麓の社を下の社と名付けた。 
天正十八年(1590)、豊臣秀次が八幡山に城を築くことになり、上の八幡宮を下の社に合祀した。 
徳川家康は関ヶ原の戦い後、武運長久の祈願を込め参詣し、御供領として五十石を与えた。 
入母屋造の拝殿は鎌倉時代初期の文治三年(1188)に、源頼朝が近江守護職の佐々木六角に命じて、 建立されたもので、元文、文化の改築、明治以降数回の屋根のふき替えを経て、現在に至る。 」

神社は八幡山城の母屋をとられてしまったという感じである。 代わりに日杉山に社殿を造り祀る予定だったが、 約束をした羽柴秀次が自害に及び、日杉山に社殿は建立されず、現在のような一社のみの姿となったという。 
金網に入れられていた狛犬は木彫りで珍しいと思った。
八幡山城は平成29年4月6日、続日本100名城の第157番に選定された。

「 八幡山城は滋賀県近江八幡市の八幡山にあった城で、別名は近江八幡城である。 
八幡山は標高二百八十三メートル、地上より百メートルの独立峰で、鶴翼山が正式名称。 
八幡山城は安土城の資材を使い、山上の南部に本丸などの城の防御施設が造られたが、 安土城と違い、急峻な山のため、山の斜面を充分活用できず、麓に居住する館を建てて対応した。 
今の風景は変わっているが、築城した時代には東西に琵琶湖の内海があり、 南の平野部に城下町を配した構造は安土城と類似している。 」

日牟禮八幡宮の先に、八幡山山頂に登るロープウエイーがあるので、それを利用すると五分で山頂駅に着いた。  下を眺めると落ち込んだ下に市街地と森が見えて、想像以上に急峻だったことが分かった。 

「 安土城は清洲会議後、再建が計画されていたが、 天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦いで、豊臣秀吉が柴田勝家に勝利すると安土城の再建は中止される。  天正十三年(1585)、秀吉は、四国平定の戦いの功で、甥の秀次に近江国四十三万石(本人分二十万石、宿老分二十三万石)を与え、 安土城に近い近江八幡に城を築くことを命じた。  秀吉の築城の狙いは、秀次の宿老に田中吉政を配し、水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、 近江国を軍事的、経済的要衝として万全な体制にすることにある。 
築城は秀吉の指揮のもとで進められ、八幡山の山頂の尾根に三層の天守閣、本丸、二の丸、北の丸、西の丸、出丸をY字形に延びる放射状に配置し、 居住部分の館は麓に配する二つに分れた城造りで、中世の城の特徴を持っていた。 」

山頂駅を出ると目の前に崩れかけた石垣が現れたが、これらは当時の山城部分で、 山頂の郭は総石垣作りで、それぞれに高石垣で造られていた。 

拝殿
     展望      石垣
日牟禮八幡宮拝殿
山頂駅からの展望
山頂の高石垣



山頂駅から直進する道は周回道で、歩いていくと「出丸跡」、「西の丸跡」、「北の丸跡」と、表示板が立っていて、 これにより八幡山城は本丸を取り巻くように帯曲輪が造られていたことが分かる。 
周回道は本丸を通らず各曲輪を往来できるバイパスの機能も兼ねていた。 
「西の丸跡」からの琵琶湖展望がロープウエイー会社の売りの一つで、多くの人が集まって眺めていた。 
西の丸跡、北の丸跡の地表面には建物礎石跡が露出しており、この曲輪には建物が建っていたと思われれる。 
「北の丸跡」から南に下ると、「村雲御所」の看板のある門があり、「本丸跡」の表示板が建っている。

「 豊臣秀次は十八歳で八幡山城に入城したが、天正十八年(1590)に尾張国清洲城に転封となり、 代わりに京極高次が二万八千石で入城し、城郭の整備・拡張に努めた。 
秀吉に秀頼が誕生したことにより情勢が変わり、甥の秀次との関係が悪化し、 文禄四年(1595)、秀吉は秀次を高野山に幽閉し、切腹させ、併せて縁故者を粛清し、聚楽第と八幡山城の破却を命じた。 
八幡山城は親族の京極高次が城主だったが、高次は大津城主に転じ、城と館は破壊され、 八幡山城は築城から十年で廃城になった。 」 

現在、本丸跡地に建つのは村雲門跡瑞龍寺である。

「 文禄五年(1596)、豊臣秀次の生母(秀吉の姉)の日秀尼は、秀次の菩提を弔うため、 後陽成天皇から瑞龍寺の寺号と京都の村雲の地を賜り、創建したのが村雲門跡瑞龍寺で、日蓮宗唯一の門跡寺院である。 
昭和三十八年(1963)、瑞龍寺は京都から八幡山城の本丸跡に移転した。 」

その際、京都より移築された山門は八幡山城の本丸虎口跡にある。

「 本丸の虎口は方形の空間を設け右に折れ内枡形となっている。  本丸虎口より九十度曲がり、そこから下ると二ノ丸、さらに九十度に曲がると二ノ丸と平虎口に到る。  本丸と二の丸が接する西北隅に、十五メートル四方の天守台があり天守がそびえていたと推定されている。 」

西の丸跡
     北の丸跡      瑞龍寺山門
西の丸跡
北の丸跡
瑞龍寺山門



「二の丸跡」の表示板が設置されているところは展望館で、右に進むとロープウエイーの山頂駅に至る。 
八幡山城は聚楽第同様に破壊され、他の城の用材に使用された訳なので、期待していなかったが、 曲輪の跡が空地で残っているし、石垣も台風で崩れたりしても補強しているようで、保存状況はよく、 地元が大事にしているという印象を持った。 
なお、曲輪の石垣の隅部分は算木積みで組まれていて、加工された石材が使われているが、 隅部分の石垣以外は粗割石か自然石が積まれていた。 また、本丸の石垣は比較的大きめの石材を使用していた。 
ロープウエイーを降りて、市立図書館に行くとその裏に八幡公園がある。 
このあたりから奥にかけてが八幡山城の居館跡で、現在発掘調査が行われていると聞いた。

「 八幡山城は山頂の城郭部分と山麓の居館部分に分れており、日常の生活は居館部分で行われたので、 城主は家来はここで生活していた。
居館は八幡山の南麓の谷地形の中央部分に雛壇状に曲輪が配されていて、最上部に秀次の居館があったといわれる。 
発掘調査ではここから多数の桐紋の金箔瓦が出土しているという。 」

その先は進入できないようなので、立ち入りはあきらめて、公園の入口で引き返した。

「 秀吉は安土城の城下町の町民を移転させ、町づくりを始め、近隣の町村からも移住を促した。  そうして作られた城下町は横に四つの通り、縦に十二の通りを中心の碁盤の目のような配置で、 他の城下町は町筋をジグザグにして防備能力を高めているのに対し、 京都の街筋のような分りやすい町割になっていた。  東からニ筋を大工町、鍛冶屋町、畳屋町、鉄砲町などの職人の居住区で占め、 三筋目から西へ十筋を仲屋町筋、為心町筋、魚屋町筋、新町筋、小幡町などの商人町にした。  それと同時に十三条からなる八幡楽市楽座令を発して、安土城下同様楽市楽座として、 商人が自由に商売できるようにした。  後年、この地及び周囲より近江商人が出て、全国に発展することになったのは楽市楽座の誕生に負うことが大きい。 」

城下町の一部は日牟禮八幡宮境内地、八幡堀と共に「近江八幡市八幡伝統的建造物群保存地区」の名称で 国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 
八幡堀は琶湖の水を引いて作られた堀で八幡町の外側に巡らし、八幡山の麓を八幡堀と土塁で囲み、 その中に羽柴秀次居館や武家屋敷を配し、戦闘の用だけでなく運河の役割も果たしていた。 

「 琵琶湖から直接舟が入れるようにし、 羽柴秀次時代には往来する舟は八幡に立ち寄らなければならない決まりを出した。  堀の幅は十一メートル〜十八メートル、深さは一メートル四十センチ、 長さは六キロに及ぶ八幡掘の八幡浦は琵琶湖で回船業を営むことができる親浦三つの内の一つで、 廃城後も明治時代、大正時代まで商工業の動脈として役割を果たしていたという。  しかし、北前船の開設により急速に減退していき、鉄道や車の登場で終止符を打たれた。  現在は観光用に舟が運行し、風物詩になっている。 」

二の丸跡
     城下町      八幡堀
展望館(二の丸跡)
伝統的建造物群保存地区
八幡堀



八幡山城へはJR琵琶湖線近江八幡駅からバスで7分、大杉町下車、徒歩約5分、 近江鉄道八幡山ロープウエイで5分で八幡山山頂へ着く 
八幡山城のスタンプはロープウエイ山頂駅の窓口前にある  

 


 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ