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公園の中に「坂本城址」の石柱があったが、古いので他にあったものと移転してきたのではないか?
明智光秀の銅像と明智氏の来歴が記された石碑があり、
「 われならで誰かは植えむ 一つ松心して吹け 滋賀の浦風 」 という歌がかかれていた。
「明智氏の来歴」
「 明智光秀は美濃国の名族、土岐氏一族の出身。
永禄十年(1567)四十歳ごろ織田信長の家臣となる。
元亀二年(1571) 山門焼き討ちのあと光秀は、湖岸に豪壮な坂本城を築城し、
その初代城主となった。 以後およそ十年間、光秀は坂本城を本拠地として活躍した。
光秀はすぐれた部将であっただけでなく、当代一流の文化人と親交をもち、
茶の湯、連歌、詩歌などに造詣の深い文化人でもあった。 」
また、「業績」と書かれた石碑もある。
「 明智光秀は、北国道(西近江路)と湖上交通との要衝にあたるこの地に、元亀三年坂本城を築いた。
この城は琵琶湖に臨む典型的な水城で、しかも築城に造詣の深い光秀だけに城は、豪壮華麗で、安土城に次ぐ名城といわれていた。
ここで近江滋賀郡を支配し、民政は行く届いていたという。
その後、光秀は丹波を平定し、天正五年ごろから亀山城を築き、その城下町が現在の亀山市の基礎となった。
さらに同七年ごろ横山城を攻めたあと、城の大改造を行い、明智にちなんで福智山となづけ、後に福知山城となった。
いま福知山踊りには、光秀を偲ぶ歌がうたわれている。 」
公園を出て北に向うと、右側にある建物はキーエンスの研修所で、その前に赤い御影石があるのだが、
文字は乱反射しほとんど読めない。
先程の縄張図にある本丸跡である。
ここの発掘調査で琵琶湖の中から、本丸石垣や石組井戸、礎石建物跡などが発見されたようであるが、
埋め戻したのか外から見た感じではなにもないようであった。
その先には地主が建てた明智塚の説明板がある。
「 この地は明智光秀の坂本城の城内と推定されている。 塚の由来については、坂本城落城の際に光秀の脇差名刀郷義弘菱宝器物を埋めた跡であり、 明智一族の墓地であると伝えられている。 明智族の慈運もあって鎮魂のため、毎年六月十五日祭祀 」 と書かれていた。
山崎の戦いで敗れた明智光秀は坂本城に逃げ帰ろうとしていたが、百姓達に襲われ死亡。
敗戦を聞いて、安土城から移ってきた息子の明智秀満は羽柴軍に囲まれ、天守に火を放ち、妻子と共に落城した。
豊臣秀吉は丹羽長秀に命じ再建させたが、天正十四年(1586)、浅野長政に大津城の築城を命じたことで、
築城から十五年で坂本城は廃城になった。
その際、坂本城の資材が使われた。 また、坂本城付近の市街化が進み、坂本城がどこにあったかもわからない程、
変わっているので、坂本城の遺跡を示すものはほとんどないというのが現状である。
上記の他、二の丸と三の丸の間(中堀)に大正四年に建立された「坂本城址」の石柱がある。
坂本城へはJR大津駅からバスで20分、下坂本から徒歩で3分