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狭い道が続き、左にカーブして進むと、膳所の町に入った。
膳所の地名は、天智天皇が大津宮を造営したとき、この地を御厨所と定められたことに由来する。
膳所神社は、天武天皇の六年に、大和国より奉遷して、大膳職の御厨神とされたと伝えられる神社である。
境内には 「 式内社膳所倭神所 」という石碑が建っている。
「 中世には諸武将の崇敬が篤く、
社伝には豊臣秀吉や北政所、徳川家康などが神器を奉納したという記録が残っている。
本殿、中門と拝殿が直線上に東正面の琵琶湖に向かって建っているが、
表門は明治三年(1870)に廃城になった膳所城から、二の丸から本丸への入口にあった城門を移築した薬医門である。
本瓦葺の重厚な構えをした門で、国の重要文化財に指定されている。 」
神社を出ると広い道と交差したので、右折すると琵琶湖の湖岸に膳所公園がある。
近江大橋が近いので、頻繁に車の往来があり、公園にはなかなか渡れなかった。
「 膳所公園は徳川家康の命で建てられた膳所(ぜぜ)城の跡地である。
徳川家康は関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601)、藤堂高虎に縄張りを命じ、大津城を壊した用材で築城
した城で、琵琶湖に浮かぶ水城として有名であった。
瀬田の唐橋を守護する役目を担った膳所城は、本丸、二の丸は琵琶湖の中に石垣を築き、突出され、
土橋で北の丸と三の丸と結ばれていた。 また、本丸には四層四階の天守が建てられた。
明治三年(1870)、新政府の早期実現を望む膳所藩の藩士達により、
廃城の太政官布告が出された翌日から天守以下の建物の解体が行われ、門の神社などへの移築が行われた。 」
琵琶湖に囲まれていた本丸は、今は地続きになり、本丸跡は膳所城跡公園として整備され、桜の名所になっている。
城の遺跡としては、石垣がわずかに残っているだけで、本丸の天守閣跡にそれを示すの石碑だけが建っているだけである。
また、二の丸跡は浄水所になっている。
旧東海道に戻ると道の左側に、梅香山縁心寺がある。 梅香山縁心寺は膳所城主の本多家の菩提寺である。
その先の和田神社の透かし塀に囲まれた本殿は、一間社流造、軒唐破風付で、国の重要文化財に指定されている。
桧皮葺きの屋根は安土桃山期に改築されたもので、側面の蟇股(かえるまた)は鎌倉時代の遺構である。
門は膳所藩校遵義堂(じゅんきどう)から移設されたものである。
境内にあるイチョウの大木は六百五十年の樹齢といい、 「 石田三成が京都へ搬送されるとき、縛られていた。 」 という話が残る。
二百メートル先で右折し、寺の周りを回って、道なりに行くと西の庄に入る。
小さな橋を渡るとすぐあるのが、石坐(いわい)神社である。
「 八大龍王社とか、高木宮と称したこともあったようだが、
延喜式にも、「 近江国滋賀郡八社の一つ 」 と、記録されている古い神社で、
祭神に海津見神(わたぬみのかみ)を主神に、天智天皇、弘文天皇などを祀っている。
本殿は文永三年(1366)とあるので、鎌倉時代の創建らしい。 」
法応寺を過ぎると「膳所城北総門跡」の石碑が建っている。
徳川家康は、慶長七年(1602)に豊臣秀吉が築いた大津城を廃城にして、その資材で膳所城を作らせ、
大津を直轄地にして、大津奉行(時期によって大津代官と呼ばれた)が支配する大津陣屋が置いた。
従って、このあたりが膳所藩と大津陣屋領との境になっていたのである。
膳所城(膳所公園)へは京阪電車膳所本町駅から徒歩で約10分
大津城
大津城は現在の大津市浜大津、京阪電鉄浜大津駅周辺に豊臣秀吉の命令により、浅野長政が築城した水城である。
「 明智光秀の築いた坂本城の資材を利用して築かれたといわれる。
浅野長政の後、城主は増田長盛、新庄直頼と代わり、近江八幡城が取り壊された文禄四年(1595)に、
京極高次が城主となり、六万石が与えられた。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、秀吉の姻戚である浅野高次は東軍に属し、戦った。
西軍の毛利元康、立花宗茂ら一万五千人の軍に対し、大津城下を焼き払って、大津城に籠城し、
七日間持ちこたえたが、坂本の長等山から大砲で砲撃を受け、天守その他の建築物が破壊され、二ノ丸まで占拠された。
高次は講和して城を明け渡し、高野山で恭順の意を示す。 関ヶ原の戦い後、徳川家康は浅野高次を召しだし、
西軍一万五千を大津城に釘付けにした功績は大きいとして、若狭小浜城八万二千石に加増し転封させた。 」
浅野高次が若狭へ移ってまもなく、家康は長等山から大砲で砲撃を受けたのは防御上の問題だとして、大津城を廃城にし、
大津城攻防戦で戦禍を免れた建築物の一部は、彦根城、膳所城に転用、移築された。
遺跡というものはなく、本丸があったとされる琵琶湖大津港桟橋付近に「大津城跡」の石碑が建っているだけである。