|
公園内に「これより東長浜領これより南長浜領」と記された「旧長浜領境界の碑」があり、その脇に説明板がある。
「 長浜は秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免じられた。
この特権は徳川幕府でも認められて、他の地域を区切るための石碑が江戸時代のはじめ、
長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。
しかし、今はわずかに十余本を数えるのみで、そのうち、もとの位置にあるものは数本のみである。
この境界碑は長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重である。
この境界碑は「これより東長浜領これより南長浜領」と記され、もとは長浜町の北西限に建っていたと思われる。 」
最後に、鉄砲鍛冶の里「国友」を訪れた。
北陸自動車道の長浜IC近くで、姉川の東にある国友鉄砲資料館の前に、「鉄砲鍛冶の里 天領・国友」の説明板が立っている。
「 国友では足利将軍からの制作の命により生産が始まる。 以来、国友鍛冶は信長、秀吉の保護を受け、徳川家康は天領として統治。 国友鍛冶は御用鍛冶として分業制度を導入して大量生産につとめた。 」
また、「国友鉄砲鍛冶」と書かれた丸い石碑がある。
「 国友村に次郎助という若者かじがいた。 年の頃はわからないが、若者のような気がする。 かれは螺子(ねじ)についてさまざまに想像し、試しに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、 巻き溝つきのねじ形をとり出し、もう一度大根にねじ入れてみた。 これにより雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。 その名が国友鉄砲記にとどめられていることからみても、 かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもった。 (司馬遼太郎「街道をゆく」より) 」
国友村は江戸時代に入り、太平の世になると、鉄砲の需要がなくなり、
鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに活路を見出していった。
金工彫刻は臨川堂充昌とその弟子たちによって技が磨かれ、今も長浜の曳山にその粋を見ることができる。
「天文一貫斎旧居跡」の石碑がある立派な建物がある。
江戸時代後期に東洋のエジソンと呼ばれた科学者国友籐兵衛(一貫斎)の住んでいたところである。
彼は自作の望遠鏡で日本で宇宙をのぞいた人で、国友は日本の天文学発祥の地ともいわれる。
長友は小さな集落であるが、歩いていると歴史上貴重な場所であることが実感できた。
長浜城へはJR琵琶湖線長浜駅から徒歩5分
賤ケ岳古戦場
平成二十年(2008)五月十六日、長浜城を訪れた後、賤ケ岳へ行った。
賤ケ岳は信長の後継者争いを柴田勝家と羽柴秀吉をした古戦場である。
戦いのあらましは以下の通りである。
「 越後の雪も解け始めていたので、佐久間盛政は柴田勝家の先陣として、一万五千の兵を率いて、近江の柳ヶ瀬に討って出た。
天正十一年三月五日、柴田勝家は越前北の庄を発し、九日近江柳ヶ瀬に着陣、直ちに江越の山々に布陣する。
先陣の佐久間盛政は四月二十日午前一時、行市山を発して権現坂を経て、
払暁、大岩山の中川清秀の砦を奇襲し、中川清秀は奮戦するも戦死する。
同日、羽柴秀吉は大垣にて大岩山の敗戦の報を聞き、午後二時、大垣を発ち夜半までに全軍木の本本陣田神山に着陣する。
翌二十一日午前二時頃、田神山を下り、黒田観音坂を経て、払暁、盛政軍に攻撃を開始する。
秀吉自ら重臣の七本槍を引き連れ、大音峠を経て、賤ケ岳猿ヶ馬場に来て、退却する盛政軍を迎え撃つと盛政軍は敗逃する。
世にいう「賤ケ岳合戦」は、賤ケ岳の頂上から北側の中腹及び余呉の湖畔では両軍の雄叫び、死闘が繰広げられ、余呉の湖が真赤に染まった。
秀吉軍は追撃を続け、狐塚にある柴田勝家軍と対戦。
勝家ひたする奮戦、忠臣毛受庄助の身代わりの忠告に従い、一時北の庄に落ちる。
忠臣毛受兄弟身代わりに奮戦するが、林谷山に於いて戦死する。
羽柴秀吉、長駆して北ノ庄を攻め落とす。 二十三日、柴田勝家は自刃する。 」
勝家の辞世の句は 「 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 」
お市の方辞世の句は 「 さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな 」
賤ケ岳南麓からリフトで上に上る。
リフトを下りると「賤ケ岳合戦戦没者霊地」の石碑が建っている。
説明板には、「数万の兵士の命が散ったといわれ、当時、南麓の大音の里に二十四軒の農家があり、
合戦の死傷者の霊を弔う石仏が点在していた。 その後、これらを一角に集めて供養していたが、
昭和五十七年にここに移転し、年一度の山開きの日に供養祭を開いている。 」 とあった。
さらに登っていくと、右側に旧北国街道が通る家並が見えた。
さらに登ると展望が開け、「史跡賤ケ岳七本槍古戦場」「新雪賤ケ岳の大観」と書かれた木柱が立っていた。
展望台に朽そうになった「賤ケ岳古戦場」の説明板には 「 織田信長が本能寺で明智光秀のために滅ぼされた本能寺の変後、
天正11年(1588)4月 信長の重臣、柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)がこの賤ケ岳を中心として、
信長の後継者争いをし、秀吉が勝利をおさめ、天下取りを決意したといわれています。
また、この合戦において、秀吉の近習加藤清正ら7人が槍をとって真先に進み、
柴田軍を突きくずしたといわれていることから、賤ケ岳の七本槍としてよくしられています。 」 とあった。
ここから見た余呉の湖は鏡のように静かだったが、戦いの時には血で真っ赤に染まったというから、どれだけ激しい戦いだったか、想像ができた。
賤ケ岳リフトへは北陸本線木の本駅からバスで15分、大音下車 またはタクシーで5分