mrmaxの古城めぐり 滋賀の城8 (長浜城・賤ケ岳古戦場)


長浜城は、羽柴秀吉が織田信長から初めて城主と認められ与えられた城で、琵琶湖湖岸に造られた水城である。 
賤ケ岳は信長の後継者争いを柴田勝家と羽柴秀吉をした古戦場である。 


かうんたぁ。




長浜城

平成二十年(2008)五月十六日に長浜城跡を訪問した。 

「 長浜は古来交通の要衝で、初めは今浜と呼ばれた地である。  室町時代後期、この地に北近江守護職の佐々木高氏(京極道誉は法名)が築城したが、 跡継ぎ闘争で今浜城は廃城になった。 その後、道誉の家臣の浅井長政が北近江守護職を継ぎ、 今浜城の支城・小谷城を居城として北近江を治めることになる。    長政は越前朝倉氏の庇護を受け、織田信長の妹の北の方を嫁にもらい、領地の安泰を図ったが、 天正元年(1573)、織田信長より滅ぼされる。  信長は姉川の戦いで活躍した羽柴秀吉に浅井氏旧領の湖北十二万石を与えた。  秀吉は小谷城に入城するも、交通の不便な小谷城を廃して、今浜城跡に新城を築き、 地名も今浜から信長の名から一字拝領して、長浜に改めた。 」

長浜城はJR長浜駅の北西の琵琶湖湖岸に造られた水城である。  秀吉にとって、長浜は信長により大名として遇された最初の地で、城造りも始めてのことであった。 

「 秀吉は小谷城で使われていた資材や竹生島に隠されていた材木などを見つけ出し、 それらを使用して築城を開始し、天正三年から四年に完成し入城した。 」

長浜城は、湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。 
また、小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)から商人などを移住させて、城下町を整備した。 
「長浜城本丸跡」の石柱の先に建っているのは、1983年に犬山城や伏見城をモデルに復元された模擬天守である。 

「 天正十年(1582)の本能寺の変後に開かれた清洲会議で、長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家だった。 勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏。   天正十一年(1583)の賤ヶ岳の戦い後は山内一豊が入り、六年間在城。  関ヶ原合戦後の慶長十一年(1606)、長浜藩が設立され、内藤信成・信正が城主になるが、 大坂の陣後の元和元年(1615)、内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城となった。 
徳川家康が彦根城の築城を命じると、長浜城の用材の大半は彦根城の築城に流用され、 家康により秀吉の城は徹底的に破壊されてしまった。
なお、彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。 」

長浜城跡は現在豊公園、長浜城歴史博物館、国民宿舎豊公荘になっている。 
城跡に植えられた桜は「日本さくら100選」に選ばれている。 
長浜城の遺構として城跡に残るのは一部の城石と堀、太閤井戸のみである。 
長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、 知善院の表門は長浜城の搦手門を移したものといわれている。 

長浜城歴史博物館
     桜の長浜城      長浜城石組
長浜城天主閣
桜の長浜城
長浜城石組



公園内に「これより東長浜領これより南長浜領」と記された「旧長浜領境界の碑」があり、その脇に説明板がある。

「 長浜は秀吉によって特別に町屋敷の年貢米三百石を納めることを免じられた。 
この特権は徳川幕府でも認められて、他の地域を区切るための石碑が江戸時代のはじめ、 長浜町のまわりに三十数本建てられたといわれる。 
しかし、今はわずかに十余本を数えるのみで、そのうち、もとの位置にあるものは数本のみである。
  この境界碑は長浜の年貢免除の範囲を知る上で貴重である。
この境界碑は「これより東長浜領これより南長浜領」と記され、もとは長浜町の北西限に建っていたと思われる。 」 

最後に、鉄砲鍛冶の里「国友」を訪れた。 
北陸自動車道の長浜IC近くで、姉川の東にある国友鉄砲資料館の前に、「鉄砲鍛冶の里 天領・国友」の説明板が立っている。

「 国友では足利将軍からの制作の命により生産が始まる。  以来、国友鍛冶は信長、秀吉の保護を受け、徳川家康は天領として統治。  国友鍛冶は御用鍛冶として分業制度を導入して大量生産につとめた。 」 

また、「国友鉄砲鍛冶」と書かれた丸い石碑がある。

「 国友村に次郎助という若者かじがいた。 年の頃はわからないが、若者のような気がする。  かれは螺子(ねじ)についてさまざまに想像し、試しに刃の欠けた小刀でもって大根をくりぬき、 巻き溝つきのねじ形をとり出し、もう一度大根にねじ入れてみた。  これにより雄ねじと雌ねじの理をさとり、老熟者に説明すると、一同、大いに次郎助をほめた。  その名が国友鉄砲記にとどめられていることからみても、 かれの名と功は感嘆されつつ伝承したものかとおもった。 (司馬遼太郎「街道をゆく」より) 」 

国友村は江戸時代に入り、太平の世になると、鉄砲の需要がなくなり、 鍛冶師たちは金工彫刻や花火などに活路を見出していった。  金工彫刻は臨川堂充昌とその弟子たちによって技が磨かれ、今も長浜の曳山にその粋を見ることができる。 
「天文一貫斎旧居跡」の石碑がある立派な建物がある。 
江戸時代後期に東洋のエジソンと呼ばれた科学者国友籐兵衛(一貫斎)の住んでいたところである。 
彼は自作の望遠鏡で日本で宇宙をのぞいた人で、国友は日本の天文学発祥の地ともいわれる。 
長友は小さな集落であるが、歩いていると歴史上貴重な場所であることが実感できた。 

長浜領境界碑
     国友鉄砲鍛冶碑      天文一貫斎旧居跡
長浜領境界碑
国友鉄砲鍛冶碑
天文一貫斎旧居跡



長浜城へはJR琵琶湖線長浜駅から徒歩5分  




賤ケ岳古戦場

平成二十年(2008)五月十六日、長浜城を訪れた後、賤ケ岳へ行った。 
賤ケ岳は信長の後継者争いを柴田勝家と羽柴秀吉をした古戦場である。 
戦いのあらましは以下の通りである。 

「 越後の雪も解け始めていたので、佐久間盛政は柴田勝家の先陣として、一万五千の兵を率いて、近江の柳ヶ瀬に討って出た。  天正十一年三月五日、柴田勝家は越前北の庄を発し、九日近江柳ヶ瀬に着陣、直ちに江越の山々に布陣する。  先陣の佐久間盛政は四月二十日午前一時、行市山を発して権現坂を経て、 払暁、大岩山の中川清秀の砦を奇襲し、中川清秀は奮戦するも戦死する。  同日、羽柴秀吉は大垣にて大岩山の敗戦の報を聞き、午後二時、大垣を発ち夜半までに全軍木の本本陣田神山に着陣する。  翌二十一日午前二時頃、田神山を下り、黒田観音坂を経て、払暁、盛政軍に攻撃を開始する。  秀吉自ら重臣の七本槍を引き連れ、大音峠を経て、賤ケ岳猿ヶ馬場に来て、退却する盛政軍を迎え撃つと盛政軍は敗逃する。
  世にいう「賤ケ岳合戦」は、賤ケ岳の頂上から北側の中腹及び余呉の湖畔では両軍の雄叫び、死闘が繰広げられ、余呉の湖が真赤に染まった。  秀吉軍は追撃を続け、狐塚にある柴田勝家軍と対戦。  勝家ひたする奮戦、忠臣毛受庄助の身代わりの忠告に従い、一時北の庄に落ちる。  忠臣毛受兄弟身代わりに奮戦するが、林谷山に於いて戦死する。  羽柴秀吉、長駆して北ノ庄を攻め落とす。 二十三日、柴田勝家は自刃する。 」

勝家の辞世の句は 「 夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 」 
お市の方辞世の句は 「 さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな 」 

賤ケ岳南麓からリフトで上に上る。 
リフトを下りると「賤ケ岳合戦戦没者霊地」の石碑が建っている。 
説明板には、「数万の兵士の命が散ったといわれ、当時、南麓の大音の里に二十四軒の農家があり、 合戦の死傷者の霊を弔う石仏が点在していた。 その後、これらを一角に集めて供養していたが、 昭和五十七年にここに移転し、年一度の山開きの日に供養祭を開いている。 」 とあった。 

リフト乗り場
     石碑      戦没者供養社
リフト乗り場
賤ケ岳合戦戦没者霊地碑
戦没者供養社



さらに登っていくと、右側に旧北国街道が通る家並が見えた。 
さらに登ると展望が開け、「史跡賤ケ岳七本槍古戦場」「新雪賤ケ岳の大観」と書かれた木柱が立っていた。 
展望台に朽そうになった「賤ケ岳古戦場」の説明板には 「 織田信長が本能寺で明智光秀のために滅ぼされた本能寺の変後、 天正11年(1588)4月 信長の重臣、柴田勝家と羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)がこの賤ケ岳を中心として、 信長の後継者争いをし、秀吉が勝利をおさめ、天下取りを決意したといわれています。  また、この合戦において、秀吉の近習加藤清正ら7人が槍をとって真先に進み、 柴田軍を突きくずしたといわれていることから、賤ケ岳の七本槍としてよくしられています。 」 とあった。 
ここから見た余呉の湖は鏡のように静かだったが、戦いの時には血で真っ赤に染まったというから、どれだけ激しい戦いだったか、想像ができた。 

北国街道が通る
     七本槍古戦場の標柱      余呉の湖
北国街道が通る
七本槍古戦場の標柱
余呉の湖



賤ケ岳リフトへは北陸本線木の本駅からバスで15分、大音下車 またはタクシーで5分




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