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岡豊城跡には多くの染井吉野が植えられていて、城跡から見た眼下の桜は満開で、美しかった。
桜の名所にもなっているようである。
岡豊城が造られたのは発掘調査の結果、十三世紀〜十四世紀頃と考えられている。
「 長宗我部氏のルーツは、鎌倉時代初期に信濃より地頭として赴任した長宗我部能俊に始まる。
長岡郡宗部郷に定住したことから宗我部氏を名乗ったが、隣の香美郡にも同じ名字の宗我部氏がいたため、
それぞれは郡名の一字を付け加えて、長宗我部氏と香宗我部氏と名乗るようになった。
室町時代、応仁の乱後の永正四年(1507)、管領・細川政元が暗殺されると、細川氏本家で家督・管領職争いが起きた。
そのため、直轄領の土佐の支配力が低下し、長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、
津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の勢力争いが勃発した。
翌、永正五年(1508)、長宗我部兼序は、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって攻められ、岡豊城は落城する。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は、永正十五年(1518)、
一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入り、 岡豊城を足掛かりに土佐の有力大名へ成長し、
一条氏、本山氏、安芸氏とともに、土佐を四分するまでになった。 」
石段を上がると「詰下段」に出る。
説明板「詰下段 礎石建物跡」
「 詰下段は詰の東に附属する小曲輪跡で、礎石建物一棟跡と土塁などの遺構が発見された。
礎石建物は二間X五間で、面積は五十三平方メートルと大きく、東の土塁と西の傾斜面に建てられていた。
土塁は幅二十五メートル、高さは一メートルと考えられる。 土留めのため、二〜三段の石積みがある。
詰下段はは堀切に面し造られた土塁や建物などを見ると、
二ノ段から詰への出入口を守るために建てられた小曲輪だったと考えられる。 」
岡豊城は登るに比例し展望が開け、眼下に香長平野をおさめ、遠く太平洋を望むことができる。
南には国分川がながれ、自然の要害を形成していた。
その上の広場が詰、一般的には本丸といわれる部分である。
「 詰は岡豊城の中心となる曲輪で、標高八十七メートルの岡豊山の頂上部にあり、 東には二ノ段、南から西にかけては三ノ段、四ノ段が詰を取り巻くように造られた、 一辺四十メートルのほぼ三角形の形状をし曲輪である。 」
詰の中には「岡豊城跡」の石碑が建っているが、西南部には建物跡の礎石が復元されていた。
説明板「詰 礎石建物跡」
「 詰の西南部で礎石が発見された。 建物跡の南端は四十センチ〜六十センチの割石を幅一メートル〜一メートル五十センチ、
長さ十六メートルに敷かれた石敷遺構で、その北側には建物跡の礎石が続いている。
建物跡は五間X四間、一間X一間の二棟で、面積は七十五u、三u。
この二棟は石敷遺構と繋がって東西方向の大きな建物である。
詰の建物跡は近代城郭の天守の前身とみられる二層以上の建物だったと考えられる。 」
その先に三ノ段がある。
説明板「三ノ段」
「 三ノ段は詰の南と西を囲む曲輪で、南部は幅五メートル、西部は幅三メートル〜八メートルの帯状になっていた。
発掘調査で、礎石建物跡一棟と中央部に詰への通路になっている階段跡、そして土塁の内部に石垣を発見。
岡豊城の土塁には石垣はないとされていたが、
西側の土塁には二十センチ〜四十センチの割石を一メートルほど積んだ石垣があることが分かった。
階段跡は岩盤を削り、両側は野面積石垣である。 」
階段跡のすぐ北には礎石建物跡が接していて、通路は南から階段を通り、詰に登れるようになっていた。
標識 「←展望広場四ノ段 子供広場伝厩曲輪→」があるので、展望広場に向う。
四ノ段には石碑が建っているが、入口には虎口があったようである。
展望広場に入る手前にの高台に、外に向って「長宗我部・岡豊城跡」の大きな石碑が建っている。
展望広場の眼下には城の防衛を担った国分川が流れている。
長宗我部元親はこの風景を見ながら、四国統一の夢を見たのだと思った。
「 長宗我部元親は大飛躍、天正二年(1574)、主家であった一条兼定を豊後に追放し、土佐国を平定し、
天正十三年(1585)には四国を統一した。
しかし、それもつかの間のことで、羽柴秀吉の進攻により降伏し、土佐一国に押し込められてしまう。
天正十六年(1588)、大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが、治水の悪さを理由に、再び、岡豊城を本拠とした。
天正十九年(1591)、浦戸城を築いて移転し、長宗我部氏歴代の居城・岡豊城は廃城となった。 」
展望広場を下ると、竪堀がある。
説明板「竪堀(たてほり)」
「 竪堀は敵の侵入を防ぐために城の斜面に上から下に掘られた堀である。
詰の西斜面や伝厩跡曲輪(出城)の南斜面に連続して掘られている。
その断面は箱型やU字型になっていて、岩盤を削って造られている。 」
竪堀をみて下ると三叉路に出た。 これは本城部分の南側の小山にある伝厩跡曲輪への通路である。
道標に従っていくと伝厩跡曲輪に出た。
説明板「伝厩跡曲輪」
「 この曲輪は詰の西南方向にある出城で、伝厩跡曲輪と呼ばれているもので、
戦いの時には西方からの攻撃に対し、詰を中心とする本城を守る出城としての役割を果すためのものである。
長さは約三十メートル、幅は十七メートルの楕円形の形状をしていて、周囲は急な斜面に囲まれていた。
また、北西には二本の堀切、南斜面には竪堀群がある。 」
「四ノ段虎口→」の道標の先には、土塁で囲まれた空地があり、説明板がある。
「 城の中心となる出入口を虎口と呼んでいる。 もとは小口と書いていたが、後で虎口の字を用いるようになった。 虎口は敵から攻められないようになっていた。 」
以上で岡豊城の見学は終わる。
岡豊城は石垣を使用する近代の城郭と違い、土塁と簡単な建物で構成される山城時代の城だなあと思った。
岡豊城跡を出て、城の北東部にある「岡豊別宮八幡宮」に向う。
道の脇の鳥居から急角度の石段が延々と続いていたので、妻は車に待機し、娘の二人で登って行った。
「 岡豊別宮八幡宮は岡豊城の鬼門にあたり、元親が特に崇敬し、
出陣にあたっては常に戦勝を祈願したと、伝わる長曾我部家の氏神である。
昔は長宗我部氏ゆかりの品を多く所蔵していたが、大正年間の大火で大半が焼失し、
県立歴史民俗資料館に、元親が画工真重に命じて作らせたという三十六歌仙の画額、
十四枚と出陣の際、使用した、と伝えられる熊蜂の盃が保管されているだけという。 」
岡豊城へはJR土讃線高知駅から、とさでん交通バス「領石、オフィスパーク、田井方面行き」で、学校分岐(歴史館入口)下車、徒歩約15分
JR土讃線土佐大津駅からはタクシーで15分
岡豊城のスタンプは高知県立歴史民俗資料館にある