|
中村城の歴史を述べる。
「 中村城は為松氏の城だったが、一条兼定の時代になると、一条氏の名声が失墜する。 一条兼定の素行が悪く、家老達に豊後へ追放される。 その後は兼定の嫡男内政が擁立され、長宗我部元親に後見を頼み、大津御所に送られた。 元親は、中村城主に実弟の吉良親貞を置いて、幡多郡を支配させた。 天正三年(1575) 一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て、 栗本城に要害を構えて拠点とし、元親軍と四万十川を挟んで戦ったが、兼定軍勢敗れて、奪還は果たせなかった。 関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられると、 山内一豊の弟の康豊が入城し、高知藩の支藩、中村藩二万石の居城となった。 二代目藩主、山内政豊(別名良豊)の慶長十八年(1613)に、新たに中村城として修復されたが、 翌々年の元和元年(1615)に布告された一国一城令に伴い廃城となった。 」
郷土資料館は中村城の二の丸跡に建てられたという。
司馬遼太郎は「夏草の賦」の中で、 「 土佐では城のことを土居という。
まわりに堀を掘り、その土を掻きあげて土塁をつくってある。 石垣や天守閣などはない。
この種の新しい城郭が出現するのはこれよりややのち、松永久秀が大和信貴山城を築き、
そのあと織田信長が近江安土城をきづくまで待たねばならない。 」 と書いていて、
当時の城は天嶮をたのんで難攻不落の地に築かれたが、鉄砲の登場により、天嶮は意味なくなったと、
司馬遼太郎は述べている。
郷土資料館に掲示されていた「中村城想像復元図」には、土塁の上に二つの望楼と詰があり、
その下は三つの堅堀が掘られ、城を守っている設計になっていた。
又、「今城想像復元図」 には中村城から右に向って坂が下っていて、中村城、二の塀、堅堀と続き、
その先が今城で上段、中段、下段の三つの敷地の上に土こうと建物が建っていたと推定している。
資料館の天守閣からは、四万十川、東山を臨み、市街地を一望することができた。
また、中村城の跡地は為松公園として随所に桜が植えられていて、当日は花見客で賑わっていた。
その中を少しだけ歩いただけなので、一部に土塁が残っていることが確認できただけで終わった。
なお、二の丸の北西にある山頂部が本丸跡で、「為松城跡」の碑が建っているという。
また、中の森に残っている石垣は山内政豊が城を修復した時代のもののようである。
中村城へは土佐くろしお鉄道 中村駅から車で10分