mrmaxの城めぐり 高知県4 (浦戸城)
浦戸城は、戦国時代の土佐を代表する武将・長宗我部元親が、
土佐一国を領有する拠点として整備した城である。
浦戸城
平成二十一年(2009)三月二十六日、浦戸城跡を訪問した。
「 浦戸城は、戦国時代の土佐を代表する武将、長宗我部元親が、土佐一国を領有する拠点として整備した城である。
高知市南部の桂浜の北部丘陵、標高五十九メートルの浦戸山上に築かれ、土佐湾(太平洋)に面している。
長宗我部氏が改築した浦戸城は三層の天守がある本丸、二の丸、三の丸、出丸で構成され、
丘陵北部の浦戸湾岸に城下町が置かれた。 」
浦戸城跡には、現在、国民宿舎桂浜荘と県立坂本龍馬記念館が建っている。
龍馬記念館の前方に「浦戸城 天主跡石垣」と書かれた大きな石碑が建っているので、
このあたりに詰ノ段(本丸)があったようである。
浦戸城の歴史を調べた。
「 浦戸城は、鎌倉時代末期にこの地の豪族の城として築かれ、
戦国期には長岡郡本山を本拠地とする本山茂宗(清茂)が高知平野へ進出し、朝倉城を拠点としてその勢力を拡張した際、
ここに城を築いた。 城は浦戸湾の入口に位置し、交通の要衝として重要な地であるため、
南北朝時代より、この地をめぐる攻防が繰り返されてきた。
永禄三年(1560)、長宗我部国親が長浜の戦いで本山氏を破り、長浜城と共に本城を支配下に収め、居城長岡郡岡豊城の支城とした。
国親の跡を継いた元親は、天正十三年(1585)、土佐一国の領有が認められ、
天正十六年(1588) 居城を一旦大高坂城(現在の高知城の敷地)に移したが、
水害に悩まされて、三年後の天正十九年(1591)、浦戸城をそれまでの海からの防衛を主とした山城から、
水陸両面からの防衛を重視した本格的な城郭に改築して、居城を当城に移し、滅亡までの約十年間、長宗我部氏の本城となった。
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、豊臣方についた長宗我部元親の子、盛親は除封され、土佐は山内一豊に与えられた。
長宗我部氏の遺臣、一領具足たちの浦戸一揆が鎮定され、同年当城に入った一豊は、
同年九月から高知城の築城にとりかかり、慶長八年(1603)には新城に移り、当城は廃城となった。
廃城後は山内氏による高知城築城に資材が使われ、
さらに、国民宿舎桂浜荘と坂本龍馬記念館が建築されたこともあり、
城跡には本丸石垣の一部と二ノ丸付近に三条の堀切が僅かに残るのみである。」
階段を登ると大山祇の鳥居があり、その隣に「浦戸城天守跡」の説明板がある。
「 現在地は浦戸城詰ノ段北東隅に位置。 中世の山城には珍しい天守跡である。
天守跡は詰ノ段より七メートル高く、いびつな台形である。
上部は東西十一メートル、南北十五メートルで、城八幡(手前)大山祇(奥)の二つの祠がある。
天守跡の斜面には石垣の名残とも思われる石が露出している。
なお、北側斜面は展望台造成工事で一部削り取られている。 ・・・・・ 」
坂本龍馬が太平洋に向って、日本の未来を語ったといわれが、
坂本龍馬の銅像は太平洋に向って建てられ、下の桂浜はパロラマのように広がっていた。
浦戸城(高知市桂浜)へは、JR土讃線高知駅からバスで40分
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