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長浜城(高知市長浜字城山)へは、とさでん桟橋線「桟橋車庫前駅」から、 とさでん交通バスで「瀬戸横丁」下車、徒歩約10分
若宮八幡宮
雪蹊寺から南に向うと鎮守の森公園があるので、車を置いて、若宮八幡宮に向おうとすると、
「長宗我部元親公の像」の幟がはためき、道の両脇に植えられた桜が咲いていた。
柵に「馬防柵」の説明がある。
「 鎮守の森は若宮八幡宮の馬場先の松原だったところで、 長宗我部軍は長浜城の攻略した後、浦戸城に立てこもった本山茂辰軍を封じ込め、若宮八幡宮前から海岸まで、 馬防柵を築いた。 馬や兵の侵入を防ぎ、鉄砲棚として効果を発揮したとされる。 」
その先には大槍を手にした長宗我部元親の大きな銅像があり、対面の下には四国の地図がある。
元親の死後四百年で作成されたもののようだが、堂々とした武者振りをしていた。
「 若宮八幡宮は、源頼朝が文治三年(1185) 京都六条に左女牛若宮を創建し、
土佐国吉川郷の土地を同社の神領地として寄進。
その神領地鎮護の神として、石清水八幡宮の御分身を勧請したのが当社である。
永禄三年(1560)、長宗我部元親は初陣に臨み、ここに陣を張り、一衣戦勝を祈願し、
「長浜城を攻め落とせたら社を建ててやる。 駄目だった建てない。 」 と言ったと伝えられる。
長浜城を攻め落とした後、若宮八幡宮は長宗我部氏の戦勝祈願の第一社と定められ、社殿を出蜻蛉式建築に改める。
これに対し、一宮の土佐神社は凱旋報斎社として、入蜻蛉式建築に改めたことから、
両社は対をなす土佐独特の神社となっている。
慶長五年(1600)に土佐国に移封された山内一豊も、祈願八社の一社として、年々の祭祀を行い、明治維新を迎えた。 」
少し歩くと若宮八幡宮の鳥居があるが、この鳥居にはいわくがある。
「 長宗我部元親が九州出兵の時、
いつものように当社で武運長久を祈り、いさ出陣の時、軍旗が鳥居の笠木にかかり、墜落した。
周囲は出陣を見合せたらと意見だったが、元親は出陣を選択、
戸次川戦いで息子の信親以下七百人が戦死、帰国後、元親は不祥の鳥居として海に流しでしまった。
慶応元年の地震の際、鳥居の根石が現れたのを契機に木の鳥居を再建したという。
現在は鉄筋コンクリート製に代わっている。 」
その先に若宮八幡宮の社殿があり、長宗我部元親の銅像が立っていた。
「 長宗我部元親は、戸次川の戦で、長男の信親を亡してから、正常な判断が出来なくなったようである。 秀吉の指示で伏見の屋敷で晩年を迎えたが、跡継ぎ問題で家臣と争い、子供達を死に追いやり、 その結果、長宗我部家は終焉を迎えることになる。 」
土佐の片田舎の豪族、長宗我部元親は四国を平定したが、
その時はすでに秀吉、そして家康の世で、翻弄されて滅びていった ・・
それを描いたのが司馬遼太郎の「夏草の賦」「戦雲の夢」である。
これを何回も読んだ妻に勧められて、読み、心を惹かれたのが今回高知に来たいと思った一因である。
ゆかりの地をまわったが、土佐人のおおらかな心を土佐女のたくましさを居酒屋で感じた旅でもあった。