mrmaxの城めぐり 高知県5 (長浜城)


長浜城は戦国時代、雪蹊寺と秦神社の背後の山にあった城で、 本山梅慶(茂宗)の子・茂辰の支城であった。


かうんたぁ。




長浜城

平成二十一年(2009)三月二十六日、裏手の山に長浜城があったという雪蹊寺と秦神社を訪問した。 

「  長浜城は戦国時代、雪蹊寺と秦神社の背後の山にあった城である。
土佐、吾川の両郡を支配していた本山梅慶(茂宗)の子・茂辰の支城で、大窪美作守(弁作)が城主だった。 
長宗我部国親は、父の兼序(かねつぐ)の死と岡豊城落城の首謀者であった本山氏の討滅を決意したが、 その機会ができたので、国親の元家臣であった福留右馬允の手引きによって日時を定め、 永禄三年(1560) 五月二十六日の雨風激しき夜、種崎がら海を渡り御畳瀬より、長浜城を奇襲して攻略した。 
今も城山の北西の谷を「夜討ちが谷」”と伝えている。
今でも頂上に通じる山道と山の斜面に掘られた竪堀跡が二ヶ所に見られる。 」

空海(弘法大師)が開基したとされる雪蹊寺(せつけいじ)は四国巡礼三十三番札所で、 門前には「おへんろさんの宿高知屋」があった。 
寺内に進むと鐘楼があり、奥の本堂でお参りをしたが、数人のお遍路が詠歌をあげていた。

「 雪蹊寺は嘉禄元年(1225)の創建とされるが、その後、寺運が衰え、廃寺となっていたが、 天正年間の後期に月峰和尚が住職となり、長宗我部元親の後援で臨済宗の寺として復興させた。  慶長四年(1599年)、長宗我部元親の病没後、長宗我部家の菩提寺となり、 元親の法名「雪蹊恕三大禅定門」から「雪蹊寺」と名を変えた。  明治時代に入ると廃仏毀釈で、雪蹊寺は一時廃寺となったが、大玄和尚が再興し、今日に至る。 」

本堂の右奥に三基の墓があり、 右手前は月峰和尚の墓、左手前は戸次川戦没者供養塔、奥は長宗我部信親の墓である。 

「 天正十四年(1586)十二月十二日、豊後の国戸次河畔で、薩摩の島津義久の大軍と対峙したが、 秀吉より四国軍の主将に任じられていた仙石秀久の無謀な渡河作戦で、 対岸の五千名の島津軍の伏兵により仙石軍は敗走したが、 長宗我部信親以下の土佐勢は現地に踏みとどまり奮戦したが、多勢に無勢、信親は七百余人と共に、 二十二歳の若さで戦死した。 
戦後、信親の遺骸を貰いにきた使者の谷忠澄に対し、新納忠元は涙を流して弔意を表し、 元親の求めに応じて信親の遺骸と武具(刀は刃毀れ、鎧は傷だらけの状態だったという)を返還した上、 信親の豪勇を賞賛し、谷を信親討死の地に案内したという。 信親の勇猛な戦いぶりは後の世まで語り種となった。 」

ここには信親の墓と亡くなった戸次川戦没者供養塔が建っていた。 
雪蹊寺境内を右に出て、真直ぐ進むと秦神社がある。

「 明治の廃仏毀釈で、雪蹊寺が廃寺となった時、寺院跡に隣接して秦神社が建立され、 長宗我部元親と信親が祀られた。 
摂社の西宮神社は、長宗我部氏の家臣、芳原七郎が戸次川の戦いに出陣するとき持参した神鏡の御蔭で帰還できたので、 これを祀り西の宮と称した。 その後、攝津国の西宮神社より恵美須大神を勧請し、西宮神社と現在は名乗っている。 」

雪蹊寺
     三基の墓      秦神社
雪蹊寺
長宗我部信親の墓等
秦神社



長浜城(高知市長浜字城山)へは、とさでん桟橋線「桟橋車庫前駅」から、 とさでん交通バスで「瀬戸横丁」下車、徒歩約10分   




若宮八幡宮

雪蹊寺から南に向うと鎮守の森公園があるので、車を置いて、若宮八幡宮に向おうとすると、 「長宗我部元親公の像」の幟がはためき、道の両脇に植えられた桜が咲いていた。 
柵に「馬防柵」の説明がある。

「 鎮守の森は若宮八幡宮の馬場先の松原だったところで、 長宗我部軍は長浜城の攻略した後、浦戸城に立てこもった本山茂辰軍を封じ込め、若宮八幡宮前から海岸まで、 馬防柵を築いた。 馬や兵の侵入を防ぎ、鉄砲棚として効果を発揮したとされる。 」

その先には大槍を手にした長宗我部元親の大きな銅像があり、対面の下には四国の地図がある。 
元親の死後四百年で作成されたもののようだが、堂々とした武者振りをしていた。 

「 若宮八幡宮は、源頼朝が文治三年(1185) 京都六条に左女牛若宮を創建し、 土佐国吉川郷の土地を同社の神領地として寄進。  その神領地鎮護の神として、石清水八幡宮の御分身を勧請したのが当社である。  永禄三年(1560)、長宗我部元親は初陣に臨み、ここに陣を張り、一衣戦勝を祈願し、 「長浜城を攻め落とせたら社を建ててやる。 駄目だった建てない。 」 と言ったと伝えられる。  長浜城を攻め落とした後、若宮八幡宮は長宗我部氏の戦勝祈願の第一社と定められ、社殿を出蜻蛉式建築に改める。  これに対し、一宮の土佐神社は凱旋報斎社として、入蜻蛉式建築に改めたことから、 両社は対をなす土佐独特の神社となっている。 
慶長五年(1600)に土佐国に移封された山内一豊も、祈願八社の一社として、年々の祭祀を行い、明治維新を迎えた。 」

少し歩くと若宮八幡宮の鳥居があるが、この鳥居にはいわくがある。 

「 長宗我部元親が九州出兵の時、 いつものように当社で武運長久を祈り、いさ出陣の時、軍旗が鳥居の笠木にかかり、墜落した。 
周囲は出陣を見合せたらと意見だったが、元親は出陣を選択、 戸次川戦いで息子の信親以下七百人が戦死、帰国後、元親は不祥の鳥居として海に流しでしまった。 
慶応元年の地震の際、鳥居の根石が現れたのを契機に木の鳥居を再建したという。 
現在は鉄筋コンクリート製に代わっている。 」 

その先に若宮八幡宮の社殿があり、長宗我部元親の銅像が立っていた。

「 長宗我部元親は、戸次川の戦で、長男の信親を亡してから、正常な判断が出来なくなったようである。  秀吉の指示で伏見の屋敷で晩年を迎えたが、跡継ぎ問題で家臣と争い、子供達を死に追いやり、 その結果、長宗我部家は終焉を迎えることになる。 」

土佐の片田舎の豪族、長宗我部元親は四国を平定したが、 その時はすでに秀吉、そして家康の世で、翻弄されて滅びていった ・・ 
それを描いたのが司馬遼太郎の「夏草の賦」「戦雲の夢」である。 
これを何回も読んだ妻に勧められて、読み、心を惹かれたのが今回高知に来たいと思った一因である。
ゆかりの地をまわったが、土佐人のおおらかな心を土佐女のたくましさを居酒屋で感じた旅でもあった。 

>馬防柵
     銅像      若宮八幡宮
馬防柵
長宗我部元親の銅像
若宮八幡宮







 戻る(城跡めぐり表紙)                              (MR.MAXの世界)へ