|
郡山城は本丸の他、毘沙門曲輪、法印曲輪、麒麟曲輪、緑曲輪、玄武曲輪等、多くの曲輪が普請された。
このように大規模な城郭になったのは、豊臣秀長の居城としての目的の他、
羽柴秀吉のいる大坂城の防衛の城としても重要であったと考えられている。
近鉄郡山駅で下車し、バスターミナル前を北上すると右側に三の丸会館があるが、
この辺りはすでに大和郡山城の領域である。
三の丸会館は郡山城の三の丸の頬当門が建っていたところとされる。
その先の交叉点を渡ると右側の石垣前に「柳御門跡」の石碑が建っている。
柳御門は城の表玄関をなす門である。
石垣に登ると下に見える、今は水たまり程度になっている堀が、三の丸を守る大手掘である。
大和郡山市役所の反対側の道には大手掘に架かる大手橋の欄干がある。
先程の石垣に戻り、道の反対(左側)に渡ると「三の丸緑地」の石碑があり、縦に細長い公園がある。
柳御門跡 | 大手掘 | 三の丸緑地 |
三の丸緑地の中を歩くと左手は蓮池跡で、車道に出ると左折して近鉄の踏切を渡る。
右にカーブする坂があり、右側の石垣の下に「鉄御門跡」の石碑が建っている。
江戸時代にはここに鉄御門(くろがねごもん)があり、門をくぐると、二の丸であった。
上ってきた坂は松の坂で、突き当たりの壁の前に阿波野青畝の句碑が立ち、
「 十五万石の城下へ 花の坂 」 という句が刻まれている。
道の左側の塀内には奈良県立郡山高校の建物が続く。
閉まった門の前に「表門跡」の石碑がある。
「表門跡」の石碑は、郡山高校の表門がかってここにあったことを示すものである。
この一帯は二の丸跡で、松平忠明が整備した二の丸屋形があったところである。
「 二の丸屋形には城主の居館と藩の政庁があり、巨大な御殿群を形成していたといわれ、
東側は藩庁の表向、西は藩主の私邸奥向きになっていた。
松平忠明は、二ノ丸屋形の造営をはじめ、伏見城の鉄門、一庵丸門、桜門、西門などを移築し、
郡山城の復興につとめた。 」
鉄御門跡 | 阿波野青畝の句碑 | 表門跡 |
学校は塀で囲まれているので、内部の様子は分らない。
江戸時代には外掘の鷺池に張り出して、砂子の間前櫓が建っていた。
表門跡の石碑の右側に森口武男の「金魚とねこ」の童謡詩碑が建っている。
「 金魚が鉢で泳いでいる ねこがじっとみている どうしたの?
金魚は泳ぎをとめてきく ねこはだまっている あたいを写生?
金魚は頬を鉢にすりよせる そこで 猫は鉛筆と紙をさがしにいく 」
という微笑ましい詩である。
表門跡を過ぎると左側に高校の正門があるが、右側には柳澤神社の鳥居が建っている。
鳥居をくぐると、両側は城の内堀で、その先に「竹林橋跡」の石碑が建っている。
江戸時代にはこちらは裏道で、二の丸と本丸の間に竹林橋が架かっていた。
そのまま直進すると、左側に柳澤神社の社務所、右側には「白澤門跡」の石碑がある。
柳澤神社の社殿の手前には「祭神 旧川越 甲府城主 柳澤美濃守吉保公」の石碑が建っている。
「 享保九年(1724)、柳沢吉里が甲斐甲府藩から十五万石で移封されると、
そのまま明治維新まで柳沢氏の時代が続いた。
柳澤神社は、本丸跡に明治十三年に旧藩士により創建された神社で、
五代将軍綱吉の側用人柳澤吉保が祭神である。
神社の建立を見ると柳澤氏は地元で慕われていたことが分かる。 」
柳澤神社の鳥居 | 竹林橋跡 | 柳澤神社 |
社殿前の左側に、昭和天皇が詠まれた 「天地の神にぞ祈る朝なぎの海のごとくに波立たぬ世を」
という歌碑が建っている。
前回訪れた時は天守台の修復工事中で、歌碑のあたりから柳澤神社の裏側まで囲いで覆われていて、
内部の様子は分らない状態であった。
柳澤神社の本殿を脇にでると、金網越しに天守台の石垣と工事用のクレーンが見えた。
今回訪問すると、天守台の石垣の修復が終え、柳澤神社の社殿の横に小さな祠が祀られ、
大きな樹木の先に天守台が見えた。
昭和天皇歌碑 | 石垣改修工事中 | 修理が終えた天守台が奥に見える |
天守台に向って進むと、天守台の下に「郡山城天守台 こちらです →」の標識がある。
それに従ってすすむと、天守台の右手に「郡山城天守台」の説明板がある。
天守台の構造
「 本丸の北端部に位置する。 城内も高所にあり、東方への眺望が開ける。
平面形が上面で約16X18b、基底部で23X25bの南北に長い長方形で、高さは約8.5b。
南側に高さ約4.5bの付櫓台が取りつく複合式の形態である。
石垣は野面積みで、自然石の他に石仏や礎石、墓石などの転用材が多く用いられている。
逆さ地蔵は特に有名である。
明治時代には天守台に「植松桜碑」という石碑が、付櫓台には柳沢保申公を祀る祖霊社が建てられ、
現在の東側からのぼる石段もこの時期につくられた。
天守に関する史料がほとんど存在していない。 実態は不明な点が多く、“幻の天守”ともいわれてきた。 」
天守台の調査
「 石垣の解体修理に先立ち発掘調査を実施した。
その結果、礎石列や金箔瓦が出土し、豊臣政権期に1階が7X8間規模の天守が建っていたことが判明した。
また、付櫓台で地階を伴う築城時の入口を確認した。
織豊期城郭の天守の地下構造の様相が判明しているものは少なく、重要な成果となった。
北面、西面石垣の一部が大きく孕み、崩落の危険があったため、約100uを解体し、元通り積み直した。
解体修復は空積みという伝統的技法で行われた。
使用されている石材はほとんどそのまま再利用した。
裏込めからは五輪塔などの転用材が600点あまり出土した。 」
説明板の奥に休憩用のベンチがあり、その先の柵の左側に「埋門跡」の小さな石柱が立っている。
その先は内掘で、江戸時代には埋門から下に降り、堀に架けられた橋を渡って、
反対側に上って脱出することが出来たようである。
修理が終えた天守台 | 天守台説明板 | 埋門跡 |
「埋門跡」の石碑脇をすすむと、左側に天守台に上る階段があるので、上って行った。
天守台の上を展望台として公開している。
天守台は標高八十一メートル、城下町地帯は五十三メートル、比高は二十八メートルにしか過ぎないが、
見晴しが効く立地をとっている。
特に東方への展望が開け、大和東山の連山が一望できる。
平城京(若草山、春日原生林、)、南都の諸寺(東大寺、興福寺、薬師寺、唐招提寺などの世界遺産)、龍王山、
三輪山、大和三山など、西側は矢田丘陵〜ニ上山、金剛葛城山系が望める。
大和国を支配するために好適な地であったことがよくわかる。
天守台の上には天守の礎石跡の標示があり、床の一部を切り取って、遺跡の一部が見える工夫があった。
天守台を降り、天守台を右に廻ると「さかさ地蔵」の説明板があり、
その近くの奥にある石がさかさ地蔵のようである。
説明板「さかさ地蔵」
「 郡山城の北面石垣の築石として積まれた地蔵で、
頭部を奥にうつむきに積み込まれているために、さかさ地蔵の名で呼ばれています。
仏身は約90センチで、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、大永3年(1523)癸末7月18日の刻銘があります。
いつのころか信仰を集め、供養のために五輪塔や石灯篭が立てられ、路傍の石仏も数多く集められています。
郡山城の石垣にはさまざまな転用石材が使用されています。
寺院の礎石、石塔、石仏、日常に使う石臼などで、石垣の表面だけでも750基あまりが確認されています。
石垣の裏込め石など目に見えない部分にも多数の転用石材が使われていると考えられます。
郡山城は筒井順慶の縄張りに始まり、豊臣秀長の時代に大規模に築城されました。
石材が乏しいうえに築城を急いだので転用石材を多数使用したものですが、
当時信仰の対象としていたものさえ、容赦なく使うところに城づくりのすさまじさがうかがえます。
これらの天守台や郡山城の石垣に積みこまれた石仏、墓石並びに城史有縁の諸霊を慰めるため、
毎年お城まつりの初日に数珠くり法要が営まれます。 」
天守台に上る | 天守台よりの眺望 | さかさ地蔵 |
柳澤神社社務所まで戻り、公衆トイレの左手の道を進むと赤い極楽橋がある。
この橋も今回の工事で架けられたものである。
極楽橋で内掘を渡ると、江戸時代には毘沙門郭があったところである。 今は柳沢文庫が建っている。
「 もともとは「本丸ニの郭」と呼称されていたが、
柳沢氏入城以降に毘沙門郭(毘沙門曲輪)と改名された。
その跡地に建っているのが、昭和三十五年に開設された柳沢文庫である。
ここには、柳沢家から引き継がれた史料や書物が展示されている。
また、続日本100名城の大和郡山城のスタンプが受付前に置かれている。 」
スタンプを押して、また、柳澤神社社務所まで戻り、更に柳澤神社の鳥居まで戻る。
郡山城の中枢部を左回りで進むことにする。
右折してすすむと右側に「中仕切門跡」の石碑があり、
道の反対、左側には「松陰門跡」の石碑があるが、江戸時代には、その左手に松陰郭があり、
その先に城への入口である南門があった。
極楽橋 | 柳沢文庫 | 中仕切門跡 |
「南御門跡」の石碑を過ぎ、堀の外にでると柳澤家の菩提寺・永慶寺がある。
「 永慶寺は黄檗宗の禅寺で、柳沢吉里が甲府から国替えの時、当地に移築したという。 山門は明治六年(1873)、郡山城が破却された時、城門を移築したものである。 」
南御門跡に戻る途中、土橋を渡るが、右側にあるのは鷺池、左側は鰻掘池である。
江戸時代、南御門に入ると、右側に松蔵郭、左側に薪蔵郭があった。 中仕切門へは右折すると左側にあったが、当時は枡形門であったのではないだろうか?
中に入っていくと左手は空地のようになっているが、ここは新宅郭跡。
「 新宅郭は本多忠平時代にはその名前があるので、古くからあったと考えられている。 」
右手には樹木越しに水堀の先にある修理中の本丸天守台が見える。
本丸の周囲の石垣もしっかりしたものである。
少し行くと「五拾間馬場跡」の石碑が建つが、このあたりだけ、土地が堀側にせり出している。
この一帯は郡山高校の城内学舎になっている。
江戸時代には、緑郭、御厩郭があった。
「 御厩郭はもともとは新宅曲輪だったが、 松平忠明時代に別の場所にあった厩を新宅郭の北半分に移し、厩二棟と馬場を設けた。 」
その先に大きなモチの木があり、道は右にカーブすると、その先に「馬場先門跡」の石碑がある。
左側にはプールもあり、生徒の声もした。
なお、江戸時代には、新宅郭と厩郭の左手に松陰池があり、その左側に麒麟郭が建っていた。
「 麒麟郭はもとは西の丸と呼ばれていたが、柳沢氏以降に麒麟郭に改名された。
柳沢吉保が徳川綱吉から麒麟の書を与えられたことから、柳沢吉里が命名した、と言われている。
この跡地に明治十四年(1881)、旧郡山園芸学校が建てられた。 」
永慶寺山門 | 工事中の天守台 | 馬場先門跡 |
二の丸跡に旧郡山中学の校舎が建てられ、戦後郡山高校になった。
この両校は統合されて、郡山高校になり、前回訪れた時は郡山高校城内学舎になっていたが、
今回の訪問で、天守台上から城内学舎を展望すると、大きな建物が二つ残るだけで、
その他は全て壊され、更地になっていた。
カーブする道が終わると広場があるが、左側の緑地が「玄武郭跡」である。
「 玄武郭は、もとは納戸郭と呼ばれていたが、柳沢氏以降に玄武郭に改名された。 硝煙蔵が五棟建ち並び、西側には玄武門が建っていた。 」
北東に突き出した土地があるので、前回訪れた時、ここから写真を撮る。
柳沢神社の社殿と工事中の天守台があり、
本丸の石垣が左右に合わさる場所に梯子が写っている。 これが埋門からの道である。
前述の逆さ地蔵について、 「 石組の奥に逆さになったままの状態で地蔵尊があり、逆さ地蔵と呼ばれている。 また、北側の石垣沿いにはさらに多くの石地蔵が奉納されている。
地蔵以外にも平城京羅城門跡から運ばれた礎石と伝わるものもある。
天守が倒壊したのは逆さ地蔵の祟りといううわさもある。 」 と説明板があった。
「 天守が倒壊したのは、大和大地震によるという説もあるが、
安政元年(1854)には七月に伊賀上野地震、十二月に安政東海地震、安政南海地震と、
大きな地震が大和にも起きているので、この時期に倒壊したのは納得できる。
なお、安政五年(1858)に郡山城二の丸付近から出火し、
住居関係の建物群は全て焼失する大火にみまわれている。
その後、再建に着手したが、明治維新を迎え、修理を中止、明治六年(1873)に郡山城は破却された。 」
玄武郭跡の先に、明治の館という城址会館が建っている。
城址会館の前に、 森川許六の 「 菜の花の 中に城あり 郡山 」 という句碑が建っている。
城址会館は奈良県立図書館だった建物を奈良市から移設したものである。
説明板「旧奈良県立図書館」奈良県指定文化財(建造物・平成9年3月21日指定)
「 この建物は、明治41年(1908)、日露戦争の戦勝を記念して奈良公園内(現在の県庁の南側)に建てられた
奈良県最初の県立図書館です。 建設当初は奈良県立戦捷記念図書館と称し、
本館は南向きに建てられ、その背後に煉瓦造りの書庫や木造の附属室が接続していました。
昭和43年(1968)、本館のみがここ郡山城内に移築され、以後、市民会館や教育施設として利用されてきました。 本館は木造ニ階建て、入母屋造、千鳥破風付きの主棟と、その両側に平屋建て、
切妻造の翼部を配した左右対称の構成をとっています。
外観には奈良時代から鎌倉時代の建築意匠が多く採用されています。
内部には胴張りをもつトスカナ式の柱などの西洋の意匠が使われ、
小屋内にはトラス構造により補強されています。
木骨構造を基本としながらも、和風の外観と擬洋風の内装を施した建物です。
設計は旧高市郡教育博物館(明治36年竣工、橿原市所在、奈良県指定文化財、
今井まちなみ交流センター「華甍」)なども設計している奈良県技師の橋本卯兵衛が行いました。
近代において復古的な意匠で設計された和風建築で、数少ない明治期の公共建築物として貴重なものです。
平成27年3月 大和郡山市教育委員会 」
奥は城内学舎跡(厩郭・麒麟郭跡) | 柳沢神社と天守台 | 明治の館(城址会館) |
城址会館の裏側に廻ると、右手にあるのが昭和五十九年(1984)に復元された追手東隅櫓である。
説明板「追手東隅櫓」
「 追手東隅櫓と名を変えたのは柳澤氏が入城後で、
それまでは法印斜曲輪巽角櫓(ほういんななめのくるわたつみすみやぐら)と呼ばれていた。
豊臣秀長が入城した天正十一年(1583)に、筆頭家老で五万石を拝領していた桑山一奄法印良慶の屋敷が、
この曲輪に構築されていたので、この曲輪を法印郭(曲輪)または一奄文と呼ぶようになった。
古絵城図によると、櫓は二重で、下重が二間五尺に三間二寸五分、上重が二間二尺に二間五尺。
郡山城の五つの櫓の中では一番小型に属する。 窓が五つ、石落としが二ヶ所、鉄砲狭間が六ヶ所設けられた。 」
城址会館の南に、小野十三郎の「ぼうせきの煙突」という詩碑がある。
「 たそがれの園原に
ただ一本の煙突がそびえている
大和郡山の紡績工場の煙突である
ぼうせきそれは今死んだような名だが
私は忘れることはできない
明治の終りの夏の夜である
七十六年の周期をもつハリー彗星の渦が
涼しくあの紡績の鋸歯状屋根の
紺青の空に光っていたのを 」
戦後まで我が国の主要産業だった紡績工場が当地にあったことを思い出した。
追手東隅櫓の周囲を見てから、城址会館の前に戻ると小さな池があるが、
これは高台なのに水を切らさぬ池といわれる。
近くに山口誓子の句碑があり、
「 大和また 新たなる国 田を鋤けば 誓子 」 と刻まれていた。
左側に「久護門跡」の石碑があり、梅が多く植えられていた。 二月に来ればきれいだろうと思った。
本丸の入口にある追手門は昭和五十八年(1983)に復元された門である。
「 追手門は豊臣秀長時代に建てられたが、関ヶ原の戦い後、伏見城に移された。
元和四年(1618) 、松平下総守忠明が十二万石で郡山城主になった時、
家康の命令で、伏見城に移されていた諸門が郡山城に戻された際、追手門も戻された門の一つで、
当時は一奄丸門と呼ばれていた。 柳澤甲斐守良里が入城すると、梅林門と名を変えた。
明治維新により廃城となり、すべての建物が壊され、追手門も消滅した。
長らく荒廃していた郡山城だったが、昭和三十五年(1960)、
本丸と毘沙門郭が奈良県の指定史跡となったのがきっかけになり、市民から復元しようという運動がおこり、
昭和五十八年(1983)、追手門は現在の姿で復元された。 」
追手門を出ると追手門に連なった追手向櫓があるが、
これは昭和六十二年(1987)に市民の寄付などにより復元されたものである。
その先の堀には「イケチョウ貝で浄化中」という表示があり、近くにしだれ糸桜がある。
「 その先の一帯が陣甫郭があったところのようである。 ここは東側は五軒屋敷掘、西に本丸を守る水堀に囲まれた土地である。 」
その先は出発した鉄御門跡で、城を一周したということになる。
ここには「桜名所百選」の石碑が建っている。
説明板
「 柳沢神社創立時に植えられた桜は日本さくら名所100選にも選ばれ、
毎年4月1日から行われるお城まつりには多くの花見客でにぎわう。 」
踏切を渡り車道を渡った左手に、やまと郡山城ホールと市立図書館がある。
「 江戸時代、このあたりに柳曲輪があった。
柳曲輪には四軒の家老屋敷と一軒の評定所があった。
また、この周辺に筒井時代の本丸があったとする説もあるようである。 」
郡山は奈良市から遠いところという先入観があったが、 JR郡山駅の北東の佐保川の岸に「羅城門跡」の石碑がある。
「 羅城門は平城京の表玄関で、外国の使節を迎えたり、 遣唐使が旅立っていったところであり、その前の道が平城京の九条大路にあたるといい、 大和郡山は統一後の大和国を治めるのに重要な土地であることが分かった。 」
羽柴秀長は城下町を大いに発展させた。
「 羽柴秀長は奈良の市中で行われていた商売をやめさせて、
郡山城の城下町に集中させたといわれる。
「郡山惣町日記」には、本町、魚塩町、堺町、柳町、今井町、綿町、藺町、奈良町、
雑穀町、茶町、材木町、紺屋町、豆腐町、鍛冶屋町の十四町があるが、最後の鍛冶屋町は枝町となり、
城下町の基本はそれ以外の「箱元十三町」とされ、これらの町名は現在も残っている。
郡山城下町の最盛期は享保九年(1724)頃で、
家数は三千六百五十六軒、人口は一万三千人を越えた、とある。 」
やまと郡山城ホールを東に向うと、塩町、魚町や本町という横の続く町があり、
その南には茶町、雑穀町、奈良町、藺町と縦の通りの町がある。
今井町や豆腐町に入る手前の角に、
創業四百年という「菊屋」という和菓子屋があったので、そこで一服した。
市内にひっそりと佇む寺・春岳院は、大納言豊臣秀長の位牌菩提寺である。
秀長の位牌や肖像画などが残されているとあるが、予約制で内部の様子は分らなかった。
市内には郡山城主松平忠明に仕えた剣豪の荒木又衛門の屋敷跡や大納言羽柴秀長の墓所である大納言塚があるが、
今回は訪れなかった。 機会があれば訪れたいと思う。
大和郡山城へは近鉄橿原神宮線大和郡山駅から徒歩約15分
大和郡山城のスタンプは柳沢文庫受付にて