mrmaxの城めぐり 愛知県1 (名古屋城)


名古屋城は徳川家康が大坂城の豊臣秀頼をにらんで西国大名を動員して築いた天下普請の城で、 尾張徳川家の居城になった。  日本100名城の第44番に選定されている城で、本丸御殿が再建された。 


かうんたぁ。




名古屋城

令和二年(2020)十一月二十八日、久し振りに名古屋城を訪れた。 
名古屋城は本丸を中心に南東を二の丸、南西を西の丸、 北西を御深井丸で取り囲み、さらに南から東にかけて三の丸が囲む構造で、 西と北は水堀と低湿地により防御される梯郭式平城である。 

「 名古屋城が築かれた地は元々は那古野(なごや)と呼ばれていて、 今川氏親が尾張進出のために築いた柳ノ丸という今川氏の支城があったところである。  天文元年(1532)、織田信長の父、信秀が今川氏豊から城を奪い、那古野城と改名し、 しばらくの間、居城にした。 織田信長はその時、ここで生まれたとされる。 
信秀はその後今渡城に移り、那古野城は信長の居城となったが、 弘治元年(1555)、信長が清須城に本拠を移したため、廃城となった。 
清須城は長らく尾張の中心であったが、関ヶ原の戦い以降の政治情勢や、 水害に弱い清須の地形の問題などから、徳川家康は慶長十四年(1609)、 名古屋に城を築くことを決める。 
名古屋城の築城は大坂城の豊臣秀頼を牽制する意図があり、 清須城より広大な縄張のできる那古野の地に、天守、 小天守を中心に多くの多聞櫓と櫓を建て並べた最大級の要塞を造ったことになった。 
徳川家康は慶長十五年(1610)、 那古野城跡に加藤清正ら二十名の西国の外様大名らに大々的な天下普請を命じた。 
慶長十七年(1612)までに大小の天守や櫓が完成した。  徳川家康は名古屋城城主に徳川家康の第九男義直を当て、 清須からの移住は、名古屋城下の地割、町割が実施された慶長十七年(1612)から 徳川義直が名古屋城に移った元和二年(1616)の間に行われたとされる。  この移住は「清須越し」といわれ、家臣や町人はもとより、 神社三社と寺院百十ヶ寺も移転させられ、 清須城の小天守も移るという徹底的なもので、清須城下は廃墟化した。 
慶長二十年(1615)に本丸御殿、元和三年(1617)には二の丸御殿が完成し、 二の丸御庭、御深井御庭なども整備された。 
以後、名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家十七代の居城となり、明治維新を迎える。 」 

地下鉄名城線市役所駅で下車し、7番出口に出ると金シャチ横丁(義春ゾーン)があり、左側に東門跡に入る土橋がある。  両脇の堀は今は水がなく草地になっている。 

「  名古屋城が築城された地は庄内川が蓄積してできた名古屋台地の西北端にあたり、 西面と北面は切り立った崖、崖下は低湿地となっており、天然の要塞になっていた。  また、台地の西端に沿って堀川が掘削され、熱田の渡しのある伊勢湾に通じていた。  この運河は築城物資の輸送、名古屋城下町の西の守りの機能を果たしていた。 」 

名古屋城は大阪城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、 大天守に上げられた金の鯱は名古屋城の象徴となり、 伊勢音頭では 「 伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ 」 と詠われた。

「 明治維新後に発布された廃城令でも城の保存が決まられ、 国宝になったが、昭和二十年(1945)五月の名古屋大空襲により、 天守や本丸御殿など国宝建造物二十四棟が焼失しまい、城下町も火の海に化した。 
昭和三十四年(1959)に鉄骨鉄筋コンクリート造りで、天守閣が再建された。  その外観は昭和実測図に基づき正確に再現されたが、 内部は焼失を免れた本丸御殿障壁画(重要文化財)や武具や絵画を展示する博物館になっていた。  現在は耐震性が低いとして閉館になっている。 」


両脇の堀
     焼失前の名古屋城      現在の名古屋城
草地になっている堀
焼失前の名古屋城
復元された名古屋城天守閣



名古屋城の東門跡には両側に立派な石垣が残っている。 
東門を入ると二の丸である。 左奥には名古屋市体育館が建っていて、 大相撲名古屋場所はここで開催される。 
右手は二の丸東庭園で、ここから先は入城券が必要になる。 

説明板「二の丸東庭園」 
「 二の丸庭園は文政年間(1818〜1830)に十代藩主斉朝(なりとも)によって、 それまでの姿から大きく改変・整備され、 二の丸御殿に付属する築山や池、茶屋が点在する回遊式庭園となった。  その範囲は「御城御庭絵図」によれば、 二の丸の北部から東部中央にかけての広大なものであった。 
ニ之丸は明治以降、昭和二十年(1945)まで陸軍の管理下に置かれ、 ニ之丸御殿は破却されるとともに、ニ之丸庭園はの東部は、 練兵場や兵舎の建設のために築山の削平や池の埋め立てが行われ、その姿を失った。  昭和五十年(1976)の発掘調査により、 北園池・南池・霜傑(そうけつ・茶屋)などの遺構が確認されるとともに、 それらの遺構を中心として整備を行い、 昭和五十三年(1978)から「二の丸東庭園」として開園した。 」 

南池は前述の「御城御庭絵図」には、庭園の東南部に大きく描かれており、 池には舟が浮かび、北岸に大きな舟形の一枚岩が張出し、 中央に石を組んだ中島が描かれている。 

「  昭和五十一年(1976)に行われた発掘調査により、池の遺構の一部が確認された。  池の石組の石の多くが抜きとられていたが、形状はよく残っており、 大きく深い池であったことがうかがえたという。 」

その先にある築山は三つあり、 右から順に栄螺山(さざえやま)、二子山(ふたごやま)、権現山である。 
江戸時代、二子山の南を通る園路は今よりも約一メートル低く、 より起伏に富んだ景観を呈していたという。 
 

東門跡
     二の丸東庭園      二子山
東門跡
二の丸東庭園
築山・二子山



江戸時代、二の丸の北側、内堀に面したところに南蛮練塀があった。 

説明板「南蛮たたき鉄砲狭間」 
「 二之丸御殿北御庭の北端の石垣の上に東西に長く伸びた練塀の遺構である。  この練塀は「南蛮たたき」で固められた非常に堅固なものであり、 円形の鉄砲狭間が見られる。  名古屋城の遺構としては、非常に珍しいもので貴重な文化財である。 」 

その左手にある空堀と石垣の手前に「尾藩勤王 埋御門之跡」と刻まれた石碑が建っている。 

説明板「埋門跡」 
「 埋門とは城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門をいう。  埋門の跡はニ之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、 城主はここから脱出することが決められていた。  この門をくぐれば、垂直の石段があり、 これを降り壕を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り、 大曾根、勝川、定光寺を経て、木曽路に落ちて行くことが極秘の脱出路とされていた。 」 

埋門跡の石柱の先を右折し、二の丸広場の横を通ると、正面に本丸の空堀があり、 右折すると左手に高麗門形式の東ニ之門がある。 

説明板「重要文化財 旧ニ之丸 東ニ之門」 
「 本来は東鉄門というニ之丸東の枡形外門で、現在の東門の東側にあった。  昭和三十八年(1963)、ニ之丸に愛知県体育館が建設されるにあたり解体され、 昭和四十七年に現在地(本丸東ニ之門跡)に移築された。  平成二十二年から二十四年にかけ解体修理された。 」 

南蛮たたき鉄砲狭間
     埋御門之跡      東ニ之門
南蛮たたき鉄砲狭間
埋御門之跡
東ニ之門



徳川家康は加藤清正ら二十名の西国大名に普請を命じ、 天下普請で名古屋城の築城を開始し、翌十五年(1610)、石垣普請が着工された。 
石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。 

ニ之門をくぐると枡形になっていて、正面の石垣の中に大きな石があり、 その前に「清正石」の説明板がある。 

説明板「清正石」 
「 名古屋城で最大の石垣石材、ここ本丸搦手枡形の石垣は黒田長政の担当だったが、 巨石であるがゆえ、普請の名手加藤清正が積み上げたと伝えられ、 清正石と呼ばれてきた。 」 

その先の左側に「東一之門跡」の説明板があった。

説明板「東一之門跡」 
「 本丸搦手の内門で、外門である本丸東ニ之門とともに、枡形を形成していた。  入母屋造・本瓦葺の堅固なニ階建てであったが、 昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。 」 

焼失前の東一之門の写真と門の説明があった。

「本丸の搦手(裏門)にあたる東門の内側(南側)には、 東一之門(楼門)が建てられていました。
東一之門は慶長十七年(1612)頃の建築で、 西側と北側の石垣の上には多聞櫓が隙間なく建てられていた。 
門と櫓で取囲んで、出入口を守る、枡形虎口を形成していました。 
多聞櫓は明治二十四年(1891)の濃尾地震で大破し、取り壊された。 
東一之門とニ之門は昭和二十年の空襲で焼失しました。 
写真は昭和六年頃に中日新聞が撮影したものである。 」 

清正石
     東一之門跡      焼失前の東一之門
清正石
東一之門跡
焼失前の東一之門の写真



両側の立派な石垣を抜けると本丸である。

「 名古屋城は慶長十七年(1612)までに大小の天守や櫓が完成し、 慶長二十年(1615)には本丸御殿、元和三年(1617)には二の丸御殿が完成し、 二の丸御庭、御深井御庭なども整備された。 」

正面の右手奥に再建された天守があり、 正面から左にあるのは再建されたばかりの本丸御殿である。 

「 本丸御殿は初代尾張藩主の住宅、政庁として使用するため、 慶長二十年(1615)、徳川家康により、建てられました。  総面積は約3100u、部屋数は30を超える平屋建ての建物である。  昭和五年に国宝に指定され、名建築として知られていたが、 昭和二十年(1945)の空襲により焼失した。  平成二十一年(2009)から復元工事を開始し、平成二十五年(2013)に玄関と表書院、 平成二十八年(2016)六月には対面所と下御膳所を公開。  平成三〇年(2018)六月八日に全体公開となりました。 」 

車寄せはショウグンなど正規の来客だけが上がる、本丸御殿の正式な入口で、 唐破風をいただく堂々とした外観で、本丸御殿の中でも最も太い柱が用いられている。 
表書院は、江戸時代には広間と呼ばれ、 藩主と来客や家臣との公式な謁見に用いられました。 
一番奥に位置する上段の間は華麗な花鳥画や床、清楼棚、付書院、帳台構がある他、 天井は折上げ小組格天井として威厳を示している。 

本丸御殿と天守
     車寄せ      表書院
本丸御殿と天守(小天守と大天守)
本丸御殿玄関(車寄せ)
表書院



本丸の北側に不明門がある。  

説明板「不明門(焼失再建)」 
「 土塀の下に設けられた門。  本丸北側と御深井丸をつなぐ門であるが、 厳重に施錠され「あかずの御門」と呼ばれていた。  左右には槍の穂先を並べた剣塀が続いている。  昭和二十年(1945)に焼失し、昭和五十三年に復元された。 」 

その先、本丸搦手馬出し周辺は石垣修復工事で通行止めになっていた。 
その先に「天守礎石」の説明板があり、その近くに礎石群があった。 

説明板「天守礎石」 
「 昭和二十年(1945に焼失した旧国宝天守の礎石。  地階穴蔵の地盤の上に置かれており、巨大な天守を支えていた。  長く焼け跡に残っていたが、天守閣再建にあたり、現在地に移し、 かっての敷設状況を再現した。 」 

天守閣の前に「天守の石垣」という説明板があった。  

説明板「天守の石垣」 
「 天守の石垣は上部が外側にそりだす、いわゆる、扇勾配であり、 石の重みや土の圧力がたくみに分散されるため、はらみにくく、しかも美しい。 」 

不明門
     天守礎石      天守の石垣
不明門
天守礎石
天守の石垣



その先に見えるのは御深井丸展示館である。 
江戸時代には御深井焼きという陶器が焼かれたという。 
奥に入って行くと、戌亥櫓とも清須櫓とも呼ばれる、 白い三階建ての櫓「西北隅櫓」があった。 
外部北面、西面に千鳥破風が造られ、石落しを備えている。 
春、秋には内部の特別公開を行っている。 

説明板「重要文化財 西北隅櫓」 
「 古名は戌亥櫓。 清州城天守を移築したと伝えられ、清州櫓とも称された。  相和三十九年の解体修理により、 古い建物の材木を一部用いて元和五年(1619)頃に造営されたことが明らかになり、 清州城天守の古材を転用した可能性が高まった。  屋根三層・内部三階で全国でも最大規模の隅櫓である。 」 

その南東には乃木倉庫があった。 

御深井丸跡
     西北隅櫓      乃木倉庫
御深井丸跡
西北隅櫓
乃木倉庫



見上げると天守閣の鯱(シャチ)の周囲に、烏が飛んでいた。 

「 鯱(シャチ)の雌(南側)は、高さ約2.58m、重さ1215kg、 金の板の厚み0.15mmでうろこの枚数126枚、金の重量43.39kgである。 
雄(北側)は高さ約2.62m、重さ1272kg、 金の板の厚み0.15mmでうろこの枚数112枚、金の重量44.69kg。 
江戸時代に大凧を上げて、鯱のうろこを盗んだ盗賊がいた、という話が残る。 」

昭和二十年(1945)の名古屋空襲により、 名古屋城の天守や本丸御殿など国宝建造物二十四棟が焼失。  焼失を免れた三つの隅櫓と三つの門、 疎開していて無事だった本丸の障壁画が国の重要文化財に指定されている。 
本丸東南にある東南隅櫓は焼失を免れた隅櫓の一つで、 表ニ之門とともに本丸表入口の虎口を形成している。  

説明板「重要文化財 東南隅櫓」 
「 古名は辰巳櫓。 かっては西側と北側に多聞櫓が続いていた。  昭和二十七年(1952)の解体修理により、木曽の木材が用いられており、宝永四年(1707)に修理され、 明治になり江戸城の鯱が取り付けられたことなどが明らかになった。 」  

焼失を免れた三つの門の一つに重要文化財に指定されている本丸表二之門がある。 

説明板「重要文化財 表二之門」 
「 古名は南二之門。  本丸大手の外門で、内門である表一之門とともに枡形を形成していた。 
本瓦葺きの高麗門で、軒回りは漆喰塗込めとし、柱や扉に金具を打ちつけている。 」 

西南隅櫓
     天守の鯱      本丸表二之門
天守のシャチ
東南隅櫓
本丸表二之門



表ニ之門を出ると「西之丸」である。 
左折して進むと右手の本丸空堀の先に本丸の西南隅櫓がある。  これも焼失を免れた隅櫓の一つである。  

説明板「重要文化財 西南隅櫓」 
「 慶長十七年(1612)ころに建てられ、未申(ひつじさる)櫓と呼ばれた。  外観二重、内部三階建てという珍しい形態である。  ニ階の西、南面に張出しがあり、この下に石落しがある。  床に開閉式の穴があり、石垣に接近した敵兵を銃撃する仕掛けであった。  櫓は明治後期から大正期ごろに自然災害で倒壊したが、 大正十二年(1923)、宮内省により、古材を用いて再建された。  鬼瓦に菊紋があるのはそのためである。 」 

西南隅櫓の西側の空掘の先には天守が見えた。 
更に進むと名古屋城の正門がある。

「  正門は両側の石垣の上に寄棟造りの建物が乗せられた楼門で、 昭和三十四年(1959)にほぼ昔どおりの外観で、再建されたものである。 」

正門を出ると、そこは左に曲がる外枡形になっていた。 
その先にバス乗り場があったが、本数が少なく地下鉄まで歩くことにした。 
その先一帯は二の丸の跡である。
大きな駐車場があり、加藤清正の銅像がある。 
能楽堂の脇を通り、外堀通りに出て、 左折すると大津通りに出る手前に、土塁が南北に残っている。 
この後、地下鉄名城線の市役所駅から名古屋駅に出て、名古屋城の見学は終了した。 

西南隅櫓
     名古屋城正門      二の丸土塁
西南隅櫓
名古屋城正門
二の丸土塁



名古屋城は名古屋市営地下鉄名城線「市役所駅」から徒歩5分 
JR「名古屋駅」から市バス「光ヶ丘・猪高車庫行き」で約15分「市役所」下車、徒歩約5分 
名古屋城のスタンプは正門改札所、東門改札所(9時〜16時半)にある 




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