mrmaxの城めぐり 愛知県2 (犬山城)


犬山城は木曽川に臨む要害かつ景勝地に建てられた城で、日本現存十二天守の一つである。 
日本100名城の第43番に選定されている。 



かうんたぁ。




犬山城

令和二年(2020)十一月二十五日、犬山城に訪れた。 
名鉄犬山線犬山遊園駅で降りる。  右手には勇壮な木曽川が流れていて、犬山城への川沿いの道は見事な桜並木になる。  

「 犬山城は文明元年(1469)に織田広近がこの地に砦を築いたのが始まりといわれる。  天文六年(1537)、織田信長の叔父である織田信康(のぶやす)が居城の木ノ下城を廃し、 木曽川沿いの標高八十八メートルの丘陵上(現在の位置)に乾山の砦を造営して移った。  現存する天守の二階まではこのころ造られたものといわれる。 
城の縄張は天守の建つ本丸から南へ、杉の丸、樅(もみ)の丸、 松の丸をほぼ練郭式に並べた形だった。  本丸の背後は木曽川によって守られていて、 いわゆる「後堅固」の構えになっていた。 
こののち、江戸時代初期にかけて城主はめまぐるしく入れ替わる。 
本能寺の変後、織田信雄の配下の中川定成が城主となる。  天正十二年(1584)、かつての犬山城主、池田恒興が突如、奇襲をかけ、 信雄方から奪取する。  これは小牧・長久手の戦いの引き金の一つとなる。 
戦後は再び織田信雄の城となるが、彼の失脚後は三好吉房などが城主を務める。  豊臣秀吉の天下になると、石川貞清が城主となり、改修し現在の形となる。  関ヶ原の戦い後、小笠原吉次、平岩親吉、親吉の甥の吉範が城主を務めた。 
慶長十五年(1610)、徳川家康の九男義直が尾張に移封されると、 成瀬正成が傳役となる。  まだ幼い義直に代わって、尾張藩政を委ねられた平岩正信が慶長十六年(1611)に死去し、 その翌年から正成は竹腰正信とともに尾張藩の付家老として、政務に携わりました。  元和三年(1617)、成瀬正成は二代将軍徳川秀忠から犬山城を拝領した。  その際、天守に唐破風出窓が増築された。  以後成瀬家が幕末まで代々、城主と尾張藩付家老を務めた。 」  

歩くこと約15分、針綱神社(はりつなじんじゃ)の前に出た。 

「 針綱神社は犬山城の守護神で、 三光稲荷神社と同じく犬山城の南の登城入り口近くにある。 
針綱神社は天文六年(1537)以前には天守閣付近に鎮座していた。  信長の叔父信康が犬山の木ノ山城主だったとき、 奥方の懐妊で自ら手彫りの狛犬一対を奉納し、 安産祈願したことから安産の神として今日に至っている。 」 

針綱神社の石段を上ると矢来門の説明板がある。 

説明板「矢来門」
 「 この場所には本丸に続く大手道の門のうち、 城郭部分の入口にあたる中門の次にある二番目の矢来門といわれる高麗門形式の門が ありました。 この次にあった黒門との間で敵を囲める工夫がされていました。  明治七年(1874)、当時の価格で二十円で専修院(丹羽郡扶桑町)に移築されています。 
北側には江戸時代から堀がありました。  人工的につくった急斜面である切岸や石垣とともに、 本丸へつづく大手道から直進させない役割があり、鉄壁の防御を誇っていました。  かっては水堀の時代もあったようですが、後世に空掘となりました。 」  

木曽川
     針綱神社      矢来門
木曽川
針綱神社
屏風櫓、堀、矢来門



左にカーブする急坂を上ると松の丸門の説明板がある。 

説明板「松の丸門」
 「 針綱神社から三光稲荷神社のあたりは、 江戸時代には松の丸という曲輪があり、松の丸御殿と呼ばれる御殿がありました。  この場所には本丸へつづく大手道から松の丸に出入するための松の丸門が建っていました。  明治初めに浄蓮寺(一宮市千秋町)に移築したとされています。  」  

犬山城の大手道の屈曲する要所には門が配置され、 高い位置にある曲輪の石垣・門と併せて枡形空間(外枡形)が連続して構成され、 坂の下から攻め上がる敵の侵入を拒むようになっている。  この構造は文禄・慶長期に日本が到達した先進的な城郭のあり方を示しており、 犬山城は城郭構造の視点からも天下の名城といえる。 
枡形の石垣前に黒門の説明板がある。 

説明板「黒門」
 「 江戸時代、この場所には大手門の第3の門である黒門が大手道をまたいであり、 今も礎石が残っております。  この場所で敵を食い止められるとともに、 道具櫓(現在の神社社務所の位置)や樅の丸から攻撃できるなど、 攻守に秀でた構造になっていました。  明治9年(1876)、当時の価格で23円(一説には明治13年に25円)で、 徳林寺(丹羽郡大口町)に移築されています。  」   

三光稲荷神社の脇の急な石段を上ると岩坂門の案内板があり、 その先右側に入城券売場がある。 

説明板「岩坂門」
 「 江戸時代には本丸につづく大手道の坂を岩坂といい、 この場所には岩坂をまたいで、岩坂門といわれる門がありました。  つきあたりのの鉄門までの道は屈曲させており、 攻められにくい工夫がされておりました。 

カーブする急坂
     黒門の説明板      岩坂門の説明板
左にカーブする急坂
黒門の説明板
岩坂門の説明板



その先に楼門である鉄門がある。 ここから有料で、 日本100名城のスタンプは鉄門2階の事務所(0568-61-1711 9.00〜17.00)前に置かれている。 
鉄門の二階からは奥に犬山城の天守閣が見える。 

「 かっては天守閣の前に本丸御殿があり、本丸の周囲に櫓が建っていたのだろうが、 明治四年(1871)九代目成瀬正起肥の時、廃藩置県で廃城となり、 天守と東南角の付櫓を除き、櫓や門の大部分は取り壊された。  
明治二十四年(1891)の濃尾地震で天守は大きな被害を受け、 明治二十八年、愛知県は城の修理、整備を条件に成瀬氏に譲渡し、 個人所有という珍しい形態が平成十六年まで続いたが、 現在は財団法人犬山城白帝文庫の所有になっている。 」

天守の創建は天正(1573〜92)、慶長五年(1600)、六年など、 いくつかの説があるが、現存する天守では最も古いと言われ、国宝に指定されている。 

「  天守は石垣を含め高さ二十四メートルで、三重四階、地下に踊場を含む二階が付く。  天守南面と西面に平屋の付櫓が付属する複合式で、 入母屋二重二階の建物の上に三間×四間の望楼部を載せた望楼型天守である。 
石垣は野面積みで、高さは五メートル。  天守の東面の正面には入母屋破風、三階の南北には唐破風があり、 窓は突上窓と火灯窓、両開き窓など、 四階の華頭窓なども含め意匠的にも見ていて飽きることはない。 」

鉄門
     本丸跡      天守閣
鉄門
本丸跡
天守閣



犬山城の天守閣の最高部に立つと、眼下に木曽川が流れている。 
木曽川の畔からの城の眺めの美しさは、漢詩にちなんで「白帝城」の雅称を生んだ。
荻生徂徠が 木曽川沿いの丘上にある城の佇まいを長江流域の丘上にある白帝城を詠った李白の詩 「早發白帝城」にちなんで、命名したと伝えられる。 
天守閣からは小牧山が一望でき、小さく小牧城を見ることができた。 

「  豊臣秀吉は小牧・長久手の戦いの際、大坂から十二万余の兵を率いて、 この城に入り、小牧山に陣を敷いた徳川家康と戦った。 
豊臣秀吉はここから、徳川家康は小牧山の山頂から敵陣の配置などを確認したことだろう。 」

天守の一階は「納戸の間」。 中央部は四室に区画されていて、 その周囲には二間幅の「武者走り(通路)」が囲む。 
上段の間は床が七寸高く畳敷で、室内には床や棚などが設けられている。 
昭和の解体修理の際、明治二十四年の濃尾地震で破損した南東隅の「付櫓」と 北西隅の「石落しの間」を復元した。 
ニ階の中央に「武具の間」があり、東、西、北の三方に武具棚が設けられており、 解体修理で発見された墨書銘から延宝三年(1675)に設置されたことが分かりました。 

木曽川
     付櫓      武具の間
白帝城の由来になる木曽川
南東隅の付櫓
武具の間



三階は「破風の間」。 入母屋屋根の中に位置する。

「 創建当初はニ階の屋根裏でしたが、増築に伴って三階になった。  南北には唐破風が設けられている。 」

四階は高欄の間。 四方には約半間の廻縁がめぐり、 高欄の間の南北に出入口がある。 

「 出入口の左右には装飾化した華頭窓が配置されている。 
石落しの間は天守の西北の隅にあり、石を落して侵入者を防ぐ間で、 石垣より突き出しているのが特徴である。 」

犬山城外には内掘の一部が残っている。 
以上で、犬山城の見学は終了した。 

なお、廃藩置県の際に払い下げられた建造物として、矢来門が専修院東門に、 黒門が徳林寺、松ノ丸門が浄蓮寺、内田門と伝わる城門が瑞泉寺にそれぞれ移築され現存する。 

破風の間
     石落しの間      内掘
三階 破風の間
四階 石落しの間
内掘



犬山城は名鉄犬山線「犬山遊園駅」から徒歩約15分 
犬山城のスタンプは犬山城内の鉄門2階事務所(0568-61-1711 9時〜117時) にて 




犬山城下町

犬山城は城下町を内掘と外堀で囲んだ総構えであり、 市内にはその面影が残っている。 
三光稲荷神社から城下町を通り、名鉄犬山駅に向う。 
左側に「犬山城三之丸 武術稽古場跡」の石碑が立っている。 
その先の右手にあるのは犬山からくりミュージアムで、玉屋庄右兵衛のからくりを実演している。 

三光稲荷神社
     武術稽古場跡      からくりミュージアム
三光稲荷神社
三之丸 武術稽古場跡
からくりミュージアム



その先には「東丸の内」の標識があり、左側に大手門いこいの広場という小公園があった。 
その先の左側に「高札場問屋場火の見櫓跡」の石碑と本町の説明石があり、火の見櫓があった。 

説明板「本町」
 「 本町通りには、上本町、中本町、下本町とがある。  本町通りは犬山城の正面通りで、町をにぎやかにするため、 呉服屋、酒屋などを多く配置して城下町の中心とした。  上本町には問屋場、高札場があって町民に各種の触れ(布令)を掲げた。  また、同所には享保十七年(1732)に火の見櫓ができた。  この付近がその箇所と思われる。 」 

更に進むと中本町に入り、平入り、二階建ての高木邸がある。 

説明板「高木邸(中本町)」
 「 昭和十年頃まで酒造業を営んでいた家で、大正初期の建築という。  南側洋館の建物を含め間口十二間半の大型に属する町家である。  平入り、正面側は半間引っ込めてニ階を建て庇を付ける。  ニ階は中塗土仕上げの塗籠とする。 一階の格子は木が太く、無双窓としている。  南側の通りには「ともまち」の部屋をとり、奥がかまどであったと言う。  酒造業としての部屋の配置と外観を残していて貴重である。 」 

いこいの広場
     火の見櫓      高木邸
大手門いこいの広場
高札場、問屋場跡 火の見櫓
高木邸



その先の左側に旧磯部家があり、無料で内部を公開している。 
奥土蔵は明治八年の建築で、商品を保管する蔵の外側腰壁は洗い出し仕上げとするなど、 比較的質素な造りであるが、規模が大きくニ階窓は二箇所あり、堂々とした蔵である。 
その先の左奥にはどんでん館がある。  犬山のまちには天文六年(1537)に犬山城が現在地に築かれて以来、 お城と城下町がセットになって生き続ける全国でも数少ないまちの一つである。  どんでん館は犬山祭で奉納されるからくりを持つ車山(やま)を保管し、公開している。 
どんでん館は車山が城下町の辻で方向転換を行う様を「どんでん」と呼んでいることから、 名付けられた。 

「 犬山祭は寛永十二年(1635)から伝わる針綱神社の祭礼で、 毎年四月の第1土・日に行われる。  十三台の車山が豪華絢爛な刺繍を施した水引幕を揺らして、錦絵さながらに市中を練り歩く。  車山にはそれぞれからくり人形が据えられていて、笛や太鼓に合わせて華麗な演舞を披露する。  夜車山には三百六十五個の提灯がともされ、祭りに幻想的彩りを添える。 」 

どんでん館には名栗町のほう英、下本町のおう合子、鍛冶屋町の寿老台、中本町の西王母が保管されている。 
その先の交叉点を左折し、二つ目の交叉点を左折すると右奥に熊野町の車山蔵がある。  この交叉点を直進すると、正面に名鉄犬山駅があり、犬山の旅は終了である。 

奥土蔵
     どんでん館      中本町の西王母
旧磯部家奥土蔵
どんでん館
中本町の車山・西王母







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