mrmaxの城めぐり 愛知県3 (小牧山城)


小牧山城は永禄六年(1563)、織田信長が小牧山に築城し、清須から居城を移し、 城下町を開き、楽市楽座を開いた。 
在城期間は短かったが、 最近の調査から安土城の原形をなす近世城郭の先駆をなすものとして、注目を集めている。
続日本百名城第149番に選定された。 


かうんたぁ。




小牧山城

令和二年(2020)十一月二十五日、犬山城の見学後、名鉄犬山駅から小牧線に乗り、 十六分で小牧駅に着き、バスで小牧市役所前に到着。 
大手口の右手に名鉄バス小牧市役所前バス停があり、 右に進むと「史蹟 小牧山」の石柱が立っている。 

「 小牧山城は小牧市役所の北側の小牧山に築かれた城である。 
永禄六年(1563)、織田信長は小牧山に築城し、清須から居城を移した。 
信長は犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに積極的に美濃攻略を進めた。  四年後の永禄十年(1567)には美濃の稲葉山城を攻略して、 岐阜と改めるとともに居城を移した。  これにより、小牧山城は廃城になり、東西一キロ、南北一・三キロの範囲で、 山の南に整備されていた城下町は一部を残して衰えた。 」

その先に平成三十一年(2019)四月に開館した史跡情報館がある。  
館内には周辺の遺跡から出土した茶碗などが展示されていたが、 これといった中味のあるものはなく、わざわざ寄るべきところではない。  また、続日本100名城のスタンプはここにはないので、注意する。 
車道を進むと左手に小牧市役所があり、市役所前から直登に続く道は大手道である。 


小牧山の石柱
     史跡情報館      大手道
史蹟小牧山の石柱史跡情報館大手道



小牧山城は南に大手口を設け、大手道は直線的に中腹まで登り、 右に折れて屈曲しながら山頂の主郭に至る縄張である。 
途中に虎口(出入口)が三か所に設けられ、北側の搦手口からの道も設けられていた。 
平成十七年(2005)の調査で、現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。 

「 永禄期の大手道は山側、谷側にそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。  道幅は約五メートルで、道に並行して幅 二十センチの排水溝を設置していた。  この構造は安土城の正面にある大手道の構造と似通っていて、 安土城の大規模な大手道はこの小牧山城が起源だったと推測されている。 」 

大手道の右手には堀と二重土塁がある。 

説明板「ここから見える土塁と堀」  
「 これらは天正十二年(1584)の小牧・長久手の合戦の前、 織田信雄と徳川家康がこの城に来て、羽柴秀吉(豊臣秀吉)と戦ったが、 この時、ここに二重の土塁と空堀を作って山を囲み、 山の東側の入口には深さが5.5mもある深い堀を造ったり、 山の中にも新しく土塁を造るなどして敵が入ってこられないようにした。 
この下に見える堀が二重に造られた土塁の間の堀で、 堀の南側にある土塁が外側の土塁で、 ここにあった市役所を建てる時にこわれてしまったものを造りなおしたものです。  ここから堀の底までは約6mの高さがあります。  内側の土塁は東側から延びてきて、 上の曲輪(平の場所)のところにつながっていました。 」  
大手道の左側に尾張徳川家九代藩主徳川宗睦源明公墓碑があり、 その先に小牧山稲荷神社がある。 

小牧城縄張
     堀と二重土塁      徳川源明公墓碑
小牧城縄張(反対側から見た)空堀と二重土塁徳川源明公墓碑



その先には左右に城を回遊する道があり、 「←観音祠」「↑歴史館近道」「←歴史館」の道標がある。 
看板にある歴史館は山頂の模擬天守のことで、大手道は途中左右に折れ曲がる 道があるが、どれも山頂に通じる。 
正面にある大きな曲輪は桜の馬場である。 
大手道を上がると、右側に伸びる道の先に説明板が見える。  説明板のある道を行くと山頂への近道になる。 
左に道をとると左手に空地が広がり、奥に「間々乳観音出現霊場」の大きな石柱が立っている。 
入口に「観音洞」の説明板が立っている。 

説明板「観音洞」  
「 明応の頃。 乳の出ない妻に食わせようと、 子孕み鹿を撃ちに小牧山に登ってた麓の狩人が、 七匹の子鹿を連れた子孕み鹿を見つけて撃つと、子鹿は七つの石に、母鹿は観音像に化した。  狩人はこれを見て殺生を悔い、その地に草庵を結びなんごろに祭った。  後に観音を祭る草庵は間々に乳観音として移転したが、 草庵の跡地は観音洞として呼び親しまれ、現在に至っている。 」  

その先の階段を上っていく。 

桜の馬場
     観音洞      階段道
桜の馬場観音洞階段道



その先の階段を上っていくと大手道と合流し、 大手道の階段脇に「守りの要衝 虎口a」の説明板があり、 説明板の横は少し窪んでいて、堀跡、 その上は盛り上がって土塁跡のように思われた。 

説明板「守りの要衝 虎口a」 
「 説明板の南側の堀、その東側と西側に土塁、北側に土橋が あるので、発掘調査で確認を行った。 土橋はここが北端部となっており、 幅は約6.5m、堀の底は平坦で、 堀底からの高さは土橋までは2.5m〜3m、40度〜50度の傾斜が付けられ、 ここが土塁と堀で堅固に防御された守りの要衝であることがわかりました。  この虎口は織田信長築城時(永禄期)に築かれましたが、 小牧・長久手の合戦(天正期)には、土橋が封鎖されました。  江戸時代に作られた小牧山模型を見ると、 高い土塁が曲輪の北側まで続くように表現されています。  現在、曲輪(土橋を上がった所の平坦地)の縁にある土塁はわずかに高まりを残す程度ですが、 これは明治時代に小牧山が一時県立公園となり、 曲輪に創垂館を建設するために土塁を削平し、 現在の園路も通されたと考えられます。 miti 削平された土が曲輪内に敷均され、土橋、堀、土塁にも押し出したようで、 堀では2.6mの厚さで土砂の堆積がみられたところがありました。 」 

小牧山城は約四年だけの城だったので、 信長の美濃攻略のための土塁による仮住まいの城と考えられていたが、 発掘調査をすると、その概念が変わったといい、 安土城に通じる城と考えられるようになった。 
更に進むと「小牧山北駐車場→」の看板の隣に 「石垣の裏込石 平成25年度発掘調査で出土」と 書かれたプレートの奥に石がずらりと積み上げられていた。  将来的には石垣の復元の際に使用するとあった。 
道脇には「転落石」のプレートが付けられた岩があった。 

堀と土塁
     石垣の裏込石群      桜の馬場跡
虎口跡説明板石垣の裏込石群桜の馬場跡



小牧市歴史館の下部に到着すると、下部の傾斜には石垣の一部と思われる石が数個露出している。 
城の主郭の周囲には上下二段あるいは三段の石垣が巡っていたことが判明し、 小牧山城は本格的な城郭で、安土城の原形になった城郭ではないといわれるようになった。 

説明板「上下段の石垣 全景」 
「 永禄六年(1563)、織田信長は清須から小牧山に居城を移しました。  信長が築いた城の主郭(本丸)は現在小牧市歴史館が建つ山頂にあり、 その下の斜面には上下二段(一部は三段)の石垣で約70度の勾配で築かれていました。  上段と下段の石垣の間には幅2m程の平坦面があり、 そこに玉砂利が敷かれていた部分も見つかっています。 」  

一番下の段は腰巻石垣で、説明板には発見された時の写真が表示されている。 
歴史館へ上る階段の右側に巨石が二段積まれた石垣がある。 

説明板「主郭の段築状石垣」  
「 大手道から頂上の主郭に至る主郭地区のこの場所の調査で、 織田信長築城時(永楽期)の石垣を確認しました。  積み石は斜面に露頭する巨石を一部遺すのみでしたが、 土中からは割石状の裏込石が大量に出土し、 積み石の背後に裏込層を備えた本格的な石垣が築かれていたことがわかりました。  織豊期城郭として石垣を採用する初現となる小牧山城では、 築城技術がまだ未成熟であったのか、 石垣使用が常用化する近世城郭の高石垣と異なり、 自然石の巨石を2〜3個積み上げた低い石垣を段築状に築いた石垣であったことがうかがえます。  初期の石垣であり、防衛施設としては決して堅固なものではありませんが、 後に織田信長が天下人の威厳を示すために築いた安土城の天主のように、 小牧山の頂にそびえるように見えた石垣は、 南麓の城下町に住んだ家臣団や領民の度肝を抜いたかもしれません。  小牧市教育委員会    」   
 

天守下の場所
     発見時の石垣      主郭の段築状石垣
現在の天守下の斜面発見時の石垣主郭の段築状石垣



小牧市歴史館に上る階段の左側に「主郭跡」の標柱があり、 「 織田信長が城を築き、後に徳川家康の本陣となりました。  周囲に石垣の跡が部分的に残っています。 
 昭和六十一年三月 小牧市教育委員会  」 とある。  

「 小牧市歴史館は昭和四十三年(1968)に平松茂(故人)が私財を投じて建設し小牧市に寄付されたもので、 鉄筋コンクリート三層四階建て、高さ十九・三メートル、 秀吉が京都聚楽第に建てた飛雲閣(現西本願寺内)をモデルにして、 名古屋工業大学城戸久教授(故人)の設計によって建設された。 」 

小牧市歴史館の前には尾張徳川家の徳川義親氏の銅像が立っている。 

「 天正十二年(1584)の小牧長久手の戦いでは、 家康がいち早く小牧山に目を付けて本陣を置き、 遅れてきた秀吉を悔しがらせたといわれる。  この時、信長の築いた城跡の土塁、空堀などに大規模な改修が施され、 陣城として大掛かりな土木工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、 要所には防衛用の虎口を設けた強固な陣地が築かれた。  秀吉の大軍も容易に手が出せず、 焦った池田恒興や森長可が三河への無謀な長駆攻撃を敢行し、 長久手方面へ突出して壊滅する事態となった。  頼山陽の日本外史に 「 家康公の天下を取るは大坂にあらずして関ケ原にあり。  関ケ原にあらずして小牧にあり。 」 とあり、 急造の小牧山城は徳川勝利の一翼を担ったことを賞賛している。 
江戸時代に入ると、小牧山は「家康公御勝利御開運の御陣跡」となり、 一般の入山は禁止され、 小牧山と城跡は尾張徳川家の領地として保護を受け、管理された。 
昭和二年(1927)に一般公開、この年に国の史跡に指定され、 徳川家から小牧町(当時)へ寄付された。 」 

以上で小牧城の探索は止めて、市役所前に戻った。 

「 城の南部(小牧市役所周辺地区)の発掘調査では、 小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された。 
東麓の帯曲輪地区には堀で仕切られた武家屋敷があったと推定される。  東麓の帯曲輪南端の区画は他の武家屋敷よりも敷地が広く、 これが信長の屋敷ではないかと推測されている。 
城下町は南北1.3q、東西1kmに及び、 北は小牧山、西は段丘崖、南に惣構を築き、町域とした。  信長が岐阜に移ってからも一部の住民が残り、小規模な町場が存続した。  小牧・長久手の戦いで、小牧山城は改修され、陣を築いたが、 改修から一年も経たない間に和睦が成立したので、小牧山城は再び廃城となった。  元和九年(1623)、尾張徳川家が居城の名古屋城から中山道に結ぶ上街道(木曽街道)の整備に着手したが、 その際、小牧山の東を通すことになり、 小牧村の庄屋江崎善左衛門に命じて、 小牧山の南にあった小牧城下町の町場を小牧山東約1qの場所に移転させ、 寛永五年(1628)に宿場町、小牧宿が完成した。  その後、城下町であった町場は元町という地名のみ残し、除々に田畑へと 変わって行った。 」  

小牧四丁目北交叉点の上街道発展会の看板がある通りに戒蔵院(かいぞういん)がある。 

「 戒蔵院は真言宗智山派の寺院で、小牧山の南側にあったが、 江戸時代の上街道の設置の際、城下町とともに東のこの地に移転させられたのである。   戒蔵院の本尊、木造十一面観音立像は像高162.5cmで、 持物の水瓶の水によって火難を防ぐという火伏観音として、古くから名高い。 」 

戒蔵院山門の前には「 南 名古屋 」「 西 一の宮つしま清須 」 「 東 木曽海道 」「 寛政一戌午年十一月吉日 」 と刻まれた道標が建っているが、 ここは清須道の追分にあたり、 三叉路を左折して西に向かうと、美濃路の清須宿に至る。 

小牧市歴史館
     徳川義親氏銅像      戒蔵院山門
小牧市歴史館徳川義親氏銅像戒蔵院山門



以上で小牧の見学は終了し、名鉄小牧駅から平安通り駅に出て、地下鉄名城線に乗り換えて矢場町駅で降り、 松坂屋デパートに出店している「あつた蓬莱軒」でひつまぶしを食べて堪能した。 

小牧山城は名鉄小牧線小牧駅から徒歩約20分 
小牧駅から名鉄バスこまき巡回バスで「小牧市役所前」下車 
小牧山城のスタンプは小牧市歴史館(9時〜16時15分、第3木曜日休)にて 





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