mrmaxの城めぐり 愛知県5 (吉田城)


吉田城は池田輝政により半円郭式縄張に拡張された城で、築城当時は今橋城とよばれていた。 
続日本100名城の第151番に選定された。 



かうんたぁ。




吉田城

令和二年(2020)十一月二十七日(金)、豊橋駅から吉田城へ行った。 
吉田城は三河国渥美郡今橋(愛知県豊橋市今橋町)にあった平城で、 築城当時は今橋城とよばれ、今川方の牧野古白によって築城された城である。  吉田城のその後の歴史は以下の通りである。 

「 永禄三年(1560)、今川義元が桶狭間で戦死すると、 今川氏を離反した徳川家康が永禄八年(1565)に今橋城を攻略し、
城代として酒井忠次を任命、 南方の田原城の城代には本多広孝を配置し、 吉田城の酒井忠次に東三河四郡の豪族、戸田氏、牧野氏、西郷氏などを統率させた。 
豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、天正十八年(1590)、徳川氏の手から離れ、 その代わりに豊臣秀吉配下の池田輝正が東三河四郡を領地とする十五万二千石で入封した。  輝政は吉田城および城下町の大改築や吉田大橋の架け替えを行う。   豊川を背に本丸を中心に二の丸、三の丸を配置し、水掘がそれらを同心円状に取り囲む半円郭式縄張りに城を拡張し、 吉田城に改名した。  整備は十一年間にわたって行われたが、 輝政が関ヶ原の戦いの翌年の慶長六年(1601)、 姫路に移封となったため、工事は未完に終った。 
江戸幕府が誕生すると、吉田城に三河吉田藩の藩庁が置かれた。 
家康は吉田藩の初代藩主に一族の松平(竹谷)家清を任命したが、 嗣子無く廃絶、代わりに、深溝(ふこうず)松平忠利が入ったが二代で代わる。  その後も、藩主が代わり、水野氏、小笠原氏など三万から八万石の譜代大名のみに託されるが、国替えは頻繁だった。  最後に入ったのは大河内松平家で、明治維新まで七代続いた。 」 

吉田は東海道の重要な防衛拠点の一つに挙げられていたため、 江戸幕府の老中、大坂城代、京都所司代格など、 有能な譜代大名が城主に選ばれたため、出世城などと呼ばれたようである。 

「  吉田城には天守閣はなく、深溝松平時代に建てられた本丸御殿のみだったが、 これも宝永の大地震で倒壊してしまう。 
明治維新後の明治四年(1871)、敷地は兵部省の管轄となり、 明治六年(1873)には失火により多くの建物が焼失してしまった。 
その後、陸軍の豊橋連隊が置かれたが、 太平洋戦争後、三の丸より内側は一部を除き豊橋公園として整備されたが、 吉田城の遺跡といえるのは、城壁のみである。 」

本丸跡に昭和二十九年(1954)の豊橋産業文化大博覧会を記念して、 隅櫓(鉄櫓)が模擬再建された。 
左前にあるイスノキ(マンサク科)は、樹齢三百年以上とあるので、吉田城の興亡を見守ってきた木でといえよう。 
城跡には豊橋市美術博物館や豊橋球場などのスポーツ施設、文化会館などが建ち、 三の丸に豊橋市役所がある。 
なお、大手通りの商店街の一角に「豊橋市道路元標」があり、 道の反対側に「大手門跡」の小さな標柱が建っているが、
ここに吉田城の大手門があったのである。 

吉田城城壁
     隅櫓(鉄櫓)      大手門跡
吉田城城壁隅櫓(鉄櫓)大手門跡



関屋交差点の右側に入ったところにある吉田神社は、吉田城内にあった神社である。 

「 牛頭天王社、又は、吉田天王社と呼ばれていたが、明治二年に吉田神社となった。  祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、源頼朝の家臣、安達九郎盛長が造営したと、言い伝えられている。 」 

この神社を有名にしたのが、手筒花火である。 
吉田神社略記には、 「 天王社の祭礼煙火ということで始まる。  花火の創始は永禄元年(1558) 今川義元公吉田城代大原備前守知尚が花火を始めた。 」 とあり、 境内に、「手筒花火発祥の地」の碑がある。 

「 火薬の使用は戦国時代より武器として厳重に管理されてきたが、 この地域では怨霊退散の為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、庶民に火薬の使用と製造を許可したことが始まりで、 江戸時代から今日に至るまで続けられてきた。 」

吉田祇園祭は、七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。
なお、手筒花火の奉納は、この地区男子の成人式のような行事で、一種の肝試しを兼ねたものでもある。 
続日本100名城のスタンプは吉田城鉄櫓と豊橋市役所東館13階展望室にあり、 展望室で捺印した。 

吉田神社
     手筒花火発祥の地碑      スタンプ
吉田神社手筒花火発祥の地碑続100名城スタンプ



吉田神社の西方の湊町の民家の前に説明板があり、 ここに吉田藩の船寄せ場があったことが分かった。

説明板
「 関屋は吉田城の西総堀の内にあり、豊川に面していたところで、 吉田藩の御船蔵が置かれ、藩主専用の波止場があった。 」

また、三州吉田記には、  「 元亀元年関屋之渡口始めて土橋を架す。  天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す 」 
とあり、 酒井忠次が初めて豊川に架橋したのもこの場所である。 

「 豊川に橋が架けられたのは何時か分からないが、 橋の名を今橋と呼び、 この土地も今橋と呼ばれるようになった。 
池田輝政は今橋を吉田と改めると共に城の拡張に乗り出し、 橋が城の領域に入ることから橋を南に移し、木橋を架けて吉田大橋と呼んだ。  家康が始めた六街道では大きな川に橋を架けるのを禁じたが、 吉田大橋は東海道では数少ない大きな橋である。 」

歌川広重の「東海道五十三次 吉田宿」の浮世絵には橋と城が描かれているが、 橋と城が同時に描かれているのは吉田と岡崎だけである。 
川に面した城郭と橋を同時に描くことができる吉田城は 東海道でも屈指の景観として多くの絵師が描いている。 

「 吉田大橋は明治十一年(1878)に現在の豊橋の場所に移され、 大正五年(1916)に鉄橋の橋に変り、 明治政府の命令で地名が豊橋に変えられていたので、橋の名も豊橋に改名された。 
昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に新たな橋が架けられた際に、 昔を偲ぶ吉田大橋の名が付けられた。  橋のたもとにはその経緯を記した石碑が建っている。 」  

関屋之渡口
     歌川広重の浮世絵      吉田大橋
関屋之渡口跡歌川広重の浮世絵現在の吉田大橋



吉田城へは、JR東海道線・東海道新幹線・名鉄名古屋本線の「豊橋駅」から市電 「市役所前」  又は 「豊橋公園前」で
下車、徒歩3分  
吉田城のスタンプは吉田城鉄櫓(10時〜15時 月休及び年末年始)と 豊橋市役所東館13階展望室(8時〜22時 ) にある 




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