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吉田城城壁 | 隅櫓(鉄櫓) | 大手門跡 |
関屋交差点の右側に入ったところにある吉田神社は、吉田城内にあった神社である。
「 牛頭天王社、又は、吉田天王社と呼ばれていたが、明治二年に吉田神社となった。 祭神は素戔嗚尊で、その創建は定かでないが、源頼朝の家臣、安達九郎盛長が造営したと、言い伝えられている。 」
この神社を有名にしたのが、手筒花火である。
吉田神社略記には、 「 天王社の祭礼煙火ということで始まる。
花火の創始は永禄元年(1558) 今川義元公吉田城代大原備前守知尚が花火を始めた。 」 とあり、
境内に、「手筒花火発祥の地」の碑がある。
「 火薬の使用は戦国時代より武器として厳重に管理されてきたが、 この地域では怨霊退散の為に花火を放揚する(打揚げる)場合に限り、庶民に火薬の使用と製造を許可したことが始まりで、 江戸時代から今日に至るまで続けられてきた。 」
吉田祇園祭は、七月下旬に行われる吉田神社の例祭で、手筒花火の奉納が行われる。
なお、手筒花火の奉納は、この地区男子の成人式のような行事で、一種の肝試しを兼ねたものでもある。
続日本100名城のスタンプは吉田城鉄櫓と豊橋市役所東館13階展望室にあり、
展望室で捺印した。
吉田神社 | 手筒花火発祥の地碑 | 続100名城スタンプ |
吉田神社の西方の湊町の民家の前に説明板があり、 ここに吉田藩の船寄せ場があったことが分かった。
説明板
「 関屋は吉田城の西総堀の内にあり、豊川に面していたところで、
吉田藩の御船蔵が置かれ、藩主専用の波止場があった。 」
また、三州吉田記には、
「 元亀元年関屋之渡口始めて土橋を架す。
天正十九年(1591)この土橋を船町へ移す 」
とあり、
酒井忠次が初めて豊川に架橋したのもこの場所である。
「 豊川に橋が架けられたのは何時か分からないが、
橋の名を今橋と呼び、 この土地も今橋と呼ばれるようになった。
池田輝政は今橋を吉田と改めると共に城の拡張に乗り出し、
橋が城の領域に入ることから橋を南に移し、木橋を架けて吉田大橋と呼んだ。
家康が始めた六街道では大きな川に橋を架けるのを禁じたが、
吉田大橋は東海道では数少ない大きな橋である。 」
歌川広重の「東海道五十三次 吉田宿」の浮世絵には橋と城が描かれているが、
橋と城が同時に描かれているのは吉田と岡崎だけである。
川に面した城郭と橋を同時に描くことができる吉田城は
東海道でも屈指の景観として多くの絵師が描いている。
「 吉田大橋は明治十一年(1878)に現在の豊橋の場所に移され、
大正五年(1916)に鉄橋の橋に変り、
明治政府の命令で地名が豊橋に変えられていたので、橋の名も豊橋に改名された。
昭和三十四年、国道一号線の整備に伴い、吉田神社脇に新たな橋が架けられた際に、
昔を偲ぶ吉田大橋の名が付けられた。
橋のたもとにはその経緯を記した石碑が建っている。 」
関屋之渡口跡 | 歌川広重の浮世絵 | 現在の吉田大橋 |
吉田城へは、JR東海道線・東海道新幹線・名鉄名古屋本線の「豊橋駅」から市電 「市役所前」 又は 「豊橋公園前」で
下車、徒歩3分
吉田城のスタンプは吉田城鉄櫓(10時〜15時 月休及び年末年始)と 豊橋市役所東館13階展望室(8時〜22時 ) にある