mrmaxの城めぐり 愛知県6 (長篠城・設楽原古戦場)


長篠城は武田勝頼と徳川織田連合軍による戦いが行われた城で、鳥居強右衛門が助けを求めて岡崎城へ走った話で有名である。 
日本100名城の第46番に選定されている 



かうんたぁ。




長篠城

令和二年(2020)十一月二十七日、吉田城の見学を周囲を探索した後、 レンタカーで長篠に向う。 
国道151号を経由し、長篠城址史跡保存館に着いたのは十一時三十分過ぎであった。 
新城市長篠城址史跡保存館は、主郭の帯曲輪跡に建ち、 長篠合戦図屏風や奥平氏血染めの陣太鼓などを展示している。   

「 長篠城は武田勝頼と徳川家康との長篠・設楽原の戦いの舞台になった城である。 
永正五年(1508)、土豪の菅沼元成は豊川(旧寒狭川)と支流宇連川(旧三輪川、大野川)との合流点を背に、 扇形に開いた土地(約10ha)に長篠城を築いた。 
菅沼氏は武田氏の支配に入ったが、武田信玄の死去により徳川家康が城を攻撃し、 菅沼正貞は天正元年(1573)八月、開城し退去。  徳川家康が武田軍の再侵攻に備え、城が拡張され、大改築された。 
長篠城は豊川と宇連川が深い谷をつくる断崖を背にし、さらに矢沢も加わり、 天然の要害をなしている。 そこに人工の内堀と土塁で本丸を囲み、 その外側に野牛曲輪、帯曲輪、弾正曲輪で防御し、外堀と土塁で囲んでいた。
天正三年(1575)五月、武田信玄の子、勝頼が東海地方に勢力を伸ばすため、 一万五千人を率いて長篠城を包囲し、長篠の戦いが始まる。 城主は家康の家臣、奥平貞昌(信昌)、長篠城を守る奥平軍はわずか五百人。  八日間籠城して戦ったが、城内には五日分の食糧がなくなり、落城寸前になった。  奥平貞昌はこの危機打開すべく、岡崎城に援軍を求めるため、 足軽の鳥居強右衛門を使者と決めた。  鳥居強右衛門は野牛門から川に入り、鳴子綱を切って急流を下り、広瀬に到着。  家康より援軍援軍の返事を得て城に 向ったが、武田軍に捕まり、嘘の情報を言う条件で許されたが、城に向って 「援軍は近い!!」と叫んだため、処刑された。  この声で、城に籠った兵士の士気が戻り、防衛を継続。 
織田・徳川連合軍が長篠城の救援のために設楽原へ布陣すると、 武田勝頼は鳶ヶ巣山砦などに一部の兵を残し、主力部隊を設楽ヶ原へ移動。  連合軍は酒井忠次率いる部隊でこれらの砦を奇襲し、武田信実らを討ち、 長篠城を救出するとともに武田軍の退路を絶った。  設楽が原の戦いでは武田軍が得意とする騎馬隊が機能せず、 連合軍の鉄砲隊により大敗。 信濃方面に敗走した。  これを契機に当地に於ける武田氏の勢力は衰退した。  翌天正四年(1576)、奥平貞昌は新城城を築城し、長篠城は廃城になった。 」 

保存館の手前の右手に空掘と土居があり、 「要害の長篠城」という説明板が立っている。 

説明板「要害の長篠城」 
「 要衝(ようしょう) 
長篠の地は豊川をさかのぼって約25km、長野県、静岡県北部に通じる道中にあり、 このあたりから平地は山に移っていく。  江戸時代の豊川舟運も長篠城を越えるところで終点になる。  戦国時代、武田軍と徳川軍がこの城を奪い合ったいわゆる境目の城であった。 
要害(要害) 
長篠城の南面は宇連川、西は豊川、ともに50mの断崖である。  平地への面を水堀と土塁、そして外郭は柵又は塀で囲んだ。  平地に移ってきてもできるだけ天険えお利用した戦国末期の典型的な築城である。 
土居と堀 
この正面に見えるのは本丸の土居と堀で、天正3年の姿を残している。  右手に門と土橋があり、続いて土居と堀が伸びていたが、 江戸時代に崩されて今は無い。  堀の土をかき上げられて土居にした。 堀には水を引き入れた。  土居と堀は直線に進まず、直線に近い出入りがある。  この形はやがて近世の城郭への移り変わる姿を見せている。 」  

長篠城址史跡保存館
     土居と堀      土居と堀
長篠城址史跡保存館
土居と堀
土居と堀



下の図は保存館周辺の当時の縄張図である。 
保存館の奥に空掘があり、その奥に入っていくと空地が広がっている。 
ここが長篠城の本丸跡で、一角に「史跡 長篠城阯」の石碑が立っている。  また、歴代長篠城主の説明板が立っている。 

縄張図
     本丸入口空掘      史跡長篠城阯碑
縄張図
本丸入口空掘
史跡長篠城阯碑



楓の木の下の石垣のある盛りあがったところには「土塁」の標示がある。 
本丸はこのような土塁と水堀で防御されていたことが分かる。 
土塁がきれるあたりに赤い小さな鳥居がある。 
その先は金網に囲まれて、鉄道の線路が見える。 
線路のフェンスに「野牛郭址 殿井(とのいど) 線路の向かい側の表示板がある。 

「 飯田線が敷設される際、 長篠城の主郭である本丸と一段下の野牛郭の間に鉄道が通されて分断されてしまった。 
この先の野牛郭には物見櫓、殿井と突き当たりに櫓があり、 その外側は断崖絶壁であった。  」

線路のフェンスに「鳶ヶ巣山」の表示板があり、「向い側山並みの左手高所、 武田軍の陣地跡」とある。 
木が繁り確認ができなかったが・・ 

本丸土塁
     飯田線(下)野牛郭跡      鳶ヶ巣山表示板
本丸土塁
飯田線 (奥の下)野牛郭跡
鳶ヶ巣山表示板



豊川(旧寒狭川)に面したフェンスに 「鳥居強右衛門磔死(たくし)の碑 対岸の平地にあります」という表示板があり、 また、「鳥居強右衛門磔の場所(寒狭川の対岸)」のプレートが立っているが、 草木が多く、川の流れも対岸も見渡すことはできなかった。 

「 鳥居強右衛門は野牛郭の門を出て、 対岸から岡崎城まで50kmを走り、 援軍の確約を取り付け、対岸の地で磔にされた。 」

フェンスに 「 矢沢  勝頼公本陣跡の医王寺より流れ込んでいる。  向い側が弾正郭」 という表示板がある。 

「 本丸の外の保存館のある地に「帯曲輪」があり、 その外に矢沢が流れ、その外に弾正郭があり、 その外に大手曲輪があり、本丸を防衛していた。 」

その先に「長篠城本丸跡」と書かれた木標が立っていて、 その奥に「長篠合戦両軍陣歿将士諸精霊位」と書かれた木柱と石柱が立っていた。 

鳥居強右衛門磔死の碑表示板
     矢沢表示板      長篠城本丸跡
鳥居強右衛門磔死の碑表示板
矢沢表示板
長篠城本丸跡



日本100名城のスタンプは長篠城址史跡保存館の一階のトイレ入口近くに置かれている。
早速、スタンプをゲットした。
保存館を出ると左側の道は歴史の小道で、突き当たりに馬場信房の墓がある。 

「 決戦に敗れた武田勝頼が退却するのを織田・徳川連合軍が追尾する。  武田軍の武将、馬場美濃守信繁(信房)はしんがりとして敵と立ち向い、 勝頼が無事退却したのを見届けた後、 自ら敵兵に「討ち取って手柄にせよ」と首を討ちとらせたと伝られている。 」 

右に行くと、交叉点の家前に「林藤太夫高英屋敷跡」の石碑があり、 その下に「←大手門址。蟻塚」、少し離れて「二の丸」の標識があった。 
道を右に行くと「水杯の井・搦手門址」の方向である。 

「 長篠城は長篠の戦いの後の翌年、 城主の奥平貞昌(信昌)により壊され、 新城城に移されたため、建物や門などは残っていない。 」

道を直進すると国道の手前の右側に 「倉屋敷」の石碑と「4糧庫址」の標柱が立っていた。 
道の反対に鳥居強右衛門の磔を描いた「史跡保存館」の案内看板が印象に残った。 
その先に「蟻封塔」と刻まれた蟻塚がある 

「 江戸時代、この場所から大量の蟻が発生し、 付近の住民を悩ました。 ここは長篠城の大手門付近。  その原因思案したところ、 この場所は長篠・設楽原の戦いで多くの戦死者を埋葬した場所であったので、 蟻の発生は供養が足らなかったためだろうということになり、 石塔を建てて供養をすると蟻が発生しなくなったと伝えられている。 」 

この後、設楽原の古戦場に向う。 

百名城のスタンプ
     二の丸跡      鳥居強右衛門の磔の看板
百名城のスタンプ
林藤太夫高英屋敷跡
鳥居強右衛門の磔の看板



長篠城へはJR飯田線長篠城駅から徒歩8分 
長篠城のスタンプは長篠城址史跡保存館(火休、12/29-1/3休、9時〜17時)の1階トイレ前にある 




設楽原古戦場

設楽原古戦場にある設楽原歴史博物館には15分程で到着した。 
博物館に入ったが、歴史的背景を頭に入れるには有効である。
館内には火縄銃や大筒などが展示されていた。 
設楽原の戦い配置図には、歴史資料館のある信玄台地に勝頼軍一万五千人。  連吾川を挟んだ反対の弾正山に徳川軍八千人。  その左上部の丘陵に織田軍三万が陣取った。 


設楽原歴史博物館
     火縄銃      設楽原戦い配置図
設楽原歴史博物館
火縄銃
設楽原戦い配置図



設楽原の戦いの概要

「 岡崎城を出発した信長と家康は、天正三年五月十八日に設楽原に到着。 
さっそく、設楽原を流れる連吾川沿いに馬防柵を築きはじめた。  その長さは二キロに及んだ。 
翌二十日、勝頼は鳶ヶ巣山や長篠城の周辺に一部の兵を残し、 寒狭川を渡り、設楽原へと陣を進めた。 
連吾川の東側に陣地を構え、連合軍と対峙した。 
武田軍の布陣の様子を見た信長は、家康とその重臣の酒井忠次を呼び、 長篠城の対岸にある鳶ヶ巣山への奇襲攻撃をかけるよう命じた。  鳶ヶ巣山には長篠城を監視するために砦が築かれていた。  これを奇襲することで、長篠城の包囲を解き、武田軍の背後に兵を回そうという作戦である。 
忠次は東三河の兵三千人を率いて、家康の本陣である弾正山を二十日夜中に出発。  豊川を渡り、月明りを頼りに夜中の山道を歩き、鳶ヶ巣山を奇襲した。 
鳶ヶ巣山での戦いを知った勝頼は連合軍に向って突撃することを命じた。 
武田軍は鉄砲や矢で突破口をつくり、設楽原に広がる田の畔道や街道を辿りながら、 連合軍に攻撃を開始した。 
連合軍は馬防柵の背後に控えていた。 武田軍の第一陣が連吾川に差しかかると、 鉄砲隊が武田軍に向って三千の火縄銃を放った。 バタバタと倒れる武田軍の将兵。  火縄銃の攻撃が止むと、それらの将兵を乗り越えて、武田軍はさらに兵を繰り出してくる。 
連吾川の上流では武田軍の馬場信房が七百の兵で佐久間信盛を、 内藤昌豊は千人の軍勢で、瀧川一益三千を柵内に追い込んだ。  また、連吾川の中程では山県昌景が千五百の兵で徳川軍に攻め込み、 徳川軍の背後から攻めようととした。  そこで大久保忠世、中佐兄弟と激突。 このような戦いが六時間続いたといわれる。
戦局が大きく動き始めたのは山県昌景の死である。 
彼の死により、山県隊は崩れ、その影響は武田軍全体に広がり、 内藤昌豊、土屋昌次など、竹田軍の名だたる武将が次々に戦死し、 武田軍の退却が始まった。 」 

博物館を出ると「信玄塚→」の道標があり、その方角に行くと「討死九霊手向けん二代松」の石柱がある小山がある。 
また、反対側の道の入口にも松が植えられた小山がある。 

説明板「愛知県指定文化財・新城市指定文化財(史跡) 信玄塚」 
「 天正3(1575)年、織田・徳川連合軍と武田軍が戦った「長篠・設楽原の戦いでは、連合軍の大勝で終わった。 
この戦いで両軍合わせて1万5千人もの戦死者があったといわれている。 
戦場の片付けを行った竹広の村民はこの地に戦死者を葬り、 大塚(武田軍)と小塚(織田・徳川連合軍)の2つの塚を築いて弔った。 これが信玄塚である。 
一説では、当時すでに亡くなっていた信玄の名を冠することで、 戦国最強と謳われた「武田家」の終わりを告げる意味合いを込めて、 信長が命名した、という。 」 

博物館側に戻り、入ってきた車道にでると道の反対に連吾川が流れている。 
川の向うに丘陵があり、これが徳川軍の陣地であった弾正台地で、 その下に復元された馬防柵があった。 

「  戦いがあったのは旧暦の五月二十一日で、現在の暦では七月上旬、 梅雨上げ前後という時期であった。 
一帯は田というので、馬なら攻め込めるが、歩兵や槍隊は難儀であったかもしれない。 
かなり狭いところで大軍は激突したことになる。 」

以上で、長篠城と設楽原古戦場の旅は終わりである。 

信玄塚大塚
     信玄塚小塚      馬防柵
信玄塚大塚(武田軍埋葬地)
信玄塚小塚(織田・徳川軍埋葬地)
馬防柵

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設楽原古戦場 : 愛知県新城市竹広
三河東郷駅から車で5分
新東名高速道路新城ICから車で5分
設楽原歴史博物館 (火休、年末年始休、9時〜17時、入館は16時30分まで)
長篠城の史跡保存館との共通入場券で440円



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