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駐車場 |
駐車場から少しひきかえすと、うっすらとした森があり、 「新城市指定文化財 史跡 古宮城跡」の説明板がある。
「 古宮城の歴史
古宮城は武田信玄が元亀3年(1572)に築城し、
縄張は馬場信房が設計したと考えられている。
元亀4年(1573)に武田信玄が逝去すると、当時の領主であった奥平定能・定昌親子は
徳川家康に内通して、武田家から離反した。
この時、武田軍は奥平親子を捉えようと争いになり、「古宮城の戦い」が起こった。
奥平親子の援軍として駆け付けた徳川家康軍は手薄となった古宮城にも攻め入り、
城内から武田勢を一時、撤退させたという。
その後、古宮城には武田勝頼の命を受けた小幡与一らが作手城番として、
天正2年(1574)に入城したことが知られている。
しかし、その翌年の天正3年(1575)に「長篠・設楽原の戦い」で、
武田勝頼が織田信長と徳川家康の連合軍に敗北すると、
当地における武田方の影響力は衰退した。
古宮城が武田の拠点として存続した期間は、わずか3年余りであった。
縄張の概要
城跡は東西約250m、南北約200mで、
比高差は25mを測る独立丘陵地に所在している。
当時の城地周辺は東・南・北の三方を湿地(泥炭湿原)で囲まれ、
地続きは西側のみであった、という。
城内は、中央部に設けられた南北方面に延びる大堀切によって、
守備の要となる西地区と、城将や兵が駐屯する居住域的な東地区の2地区に分けられる。
西地区の特色の1つに、侵入してくる敵を一列の隊列に並ばせる土塁状の登城道が
ある。
逃げ場や隠れ場を失った敵を主郭や東地区の高い場所から弓矢などで狙い易くするよう、
巧みに土塁と堀を配して高めた防御の工夫が分かる。
一方、東地区は主郭や横堀で囲まれた山麓付近に近い平坦地(曲輪)が形成されており、
大勢の人や物を収容していたことが考えられる。
中でも主郭内の仕切り土塁西側の平坦地は城内でも一番高い場所にあたり、
信玄や勝頼らが入城した際にも使用された場所であった可能性も推測されている。
また、西地区主郭の西側で確認される半円状の堀、西地区主郭の南北2ヶ所の虎口、
西地区と東地区を結ぶ土橋から東地区主郭に至る城郭構造は、
「丸馬出」と呼ばれる防御施設となり、
さらに土橋から至る東地区主郭前面両袖枡形虎口と併せて、
古宮城の攻守をより一層強固なものにしている。
古宮城跡の価値
古宮城は丘陵全体に土塁、堀、曲輪などの戦国時代の遺構がほぼ完全な形で現存する。
さらに、武田家の全盛期に築城された最新の城郭であり、
築城当時に近い姿・形であろうと考えられている点でも、学術的注目度の非常に高い
城郭と評価されている。
また、武田方の徳川に対する三河進出の拠点城郭としての性格のほか、
「丸馬出し」「両袖枡形虎口」「横堀」など、
これまで武田方や徳川方の特色とされてきた遺構が混在していることで、
「長篠・設楽原の戦い」以降に、徳川方が改修して、
古宮城を存続させた可能性も指摘されている。 」
「村社 白鳥神社」の石標と鳥居があり、石段を上ると、社殿があるので、お参りをした。
「
古宮城のすぐ西に、作手盆地を南北に縦貫する作手街道が走り、
城の南側には作手街道から分岐した街道が東に伸びるなど、
古宮城は南信濃、遠州と三河を結ぶ山間部の交通の要衝といえる位置にあった。
城跡は国道301号線沿いにあり、城山は見た目は平凡でつい見過ごしそうだが、作手郵便局の東南にある。
古宮城は、周辺からの比高三十メートル、南北二百メートル、
東西二百五十メートルの小規模な独立丘陵上にある。
現在、白鳥神社になっているところは、かっては古宮城の一角を占めていた。 」
白鳥神社社殿 |
大手口は作手街道に面した南西角地の民家の裏手にあるので、
民有地には入ることはできない。
白鳥神社は城郭の南側中央部で、ここから先は東丘陵部になるが、
神社の右側にある登城道を上っていくが、丘陵のなかの林の中を進むという感じである。
「堀」と表示された標木があったが、下草が生い茂っていて、どれが堀なのか、
確認できないが、堀とあるあたりに空堀があるのだろう。
道なき道という風情であるが、人の歩いた形跡を見ながら進む。
すると、右側の丘が真中で堀切られたところに出る。
ここは虎口の入口である。
虎口の入口 |
少し上りなっていて、その先の土塁の手前に「虎口」の標木、
右側の木立の中に「両袖枡形」の標木が立っていた。
ここは主郭正面玄関の虎口で、土塁が主郭部へ引っ込んだ形状になっている、
内枡形虎口である。
「 両袖枡形虎口は、武田方の城郭でよく見られる遺構である。
登城道は、主郭の東平坦地に通じているが、虎口内で二度屈折させることで、
西側丘陵から土橋を通った通路から、主郭内部の道を喰い違いさせている。
また、傾斜によって主郭の内部が見通せないように工夫されている。
信玄や勝頼ら、身分の高い人が使用する出入口と考えられる。 」
虎口にある大木にはしめなわがあり、大木に近づかぬように「進入禁止」と書かれていた。
少し高い位置にある掘割の間を抜けると、林は一面に広がり、より暗くなった。
その中に小さな「東曲輪 主郭」の標木があった。
「
主郭部は、東側丘陵で一番高い平坦地(五十メートル四方)につくられ、
周囲を土塁で囲み、その中に二つの曲輪が造られた。
こは、城内で一番高い所に形成された平坦地であることから、
武田信玄が入った古宮城の最重要地であったと思われる。
標木の曲輪は右側(東)の曲輪で、左の曲輪の3倍程の広さであった。 」
左側に行くと「土塁」の標木と「仕切り土塁」の標木があった。
「 左右に対して土が盛り上がっているところで、
これが「仕切り土塁」である。
この土塁により主郭は南北に仕切られていた訳である。 」
仕切り土塁 |
仕切り土塁の左手には「主郭上段」の標木が立っていた。
「 これは東曲輪を東西2つになるよう土塁で区分したが、
上段の間となるように、西側が少し高くしたものである。
信玄や勝頼が入城した際に使用される場所とされる。 」
その南の少し張り出した平坦地には「櫓台」の標木が立っている。
「 櫓台の東側には主郭に通じる左右に土塁を持つ両袖枡形の虎口が位置しているので、これと連携して、敵が虎口に侵入しようとすると、 櫓台より矢などを射かけたのだろう。 」
主郭の北側に降りていくと、右側に数段になる曲輪が下に向ってあるが、
今は切られた木材や枯葉、下草などが埋め尽くし、歩けそうにない。
後で、東丘陵の東から北に向かって山裾を歩いたので、後述する。
主郭北側の将兵居住曲輪跡 |
虎口までもどり、左(西)から続く登城道を歩くが、右側には櫓台の土塁があり、
敵から矢を直接射られることになる。
その先には、地面の左下に「堀」、「大堀切」の標木が、少し離れた右側に「土橋」、
そして奥に「丸馬出し」「西地区主郭」の標木が立っていて、
その下には二メートル以上の深さがある空堀がある。
「 古宮城は丘陵全体が技巧を駆使した極めて複雑な構造をしていた。
、
城の中央部に南北に貫く大空堀を築き、
これで城を東主郭部と西主郭(四・二アール)部に二分していた。
西主郭から東主郭へは土橋があるが、下は大堀切(大空堀)で、
攻め込む敵は、一直線の道で縦長に並ばされてしまい、
しかも、主郭の方が一段高くなっているので、
土塁の上や丘陵地の櫓台から、敵の正面や背後、側面に矢などを一斉攻撃できるようになっていた。 」
大堀切の標木 |
左下写真は大堀切に降りた写真で、切り倒された木が散乱しており、 斜面に傾斜があるが、当時はもっと直角であったと思われ、ここを上るのは容易ではない。
「 この大堀切は東西の主郭を切断し、南から北、北西へ続き、 北側の水堀手前で西に折れ、西主郭の北半分を防御していた。 」
その先の林の中には「西地区主郭」の標木、その奥に「丸馬出」の標木、
さらに奥に「西曲輪下段」の標木が立っていた。
ここは西側丘陵の最高地点に建てられた西主郭跡である。
「 西主郭は東西に長く、周囲は土塁で囲まれ、
曲輪中央やや東寄りが南北に伸びた土塁により、東西に仕切られていた。
曲輪は東側の土橋側を除き、三方を横堀で囲み、
西主郭の虎口(出入口)曲輪の東側の南北の二ヶ所に設けられていた。 」
「丸馬出」の標木と「西曲輪下段」の標木がの奥にはこんもりとした土塁が見える。
「 西主郭を囲む半円状の堀、南北の虎口、大堀切を渡る土橋、などの
遺構は「丸馬出し」という防御施設となり、古宮城の攻守をより強固なものにしている。 」
丸馬出 |
西曲輪下段の北側には「枡形虎口」の標木が立っている。
その奥の土塁が切られて道になっているところが切れ間が見え、
西曲輪の枡形虎口である。
「 左からの登城道を進んできた敵はこの狭い枡形虎口から西主郭へ入ってくると、西主郭の奥に隠れていた兵が一斉に現れ、敵を破ることができる。 」
土塁の枡形虎口をくぐり出ると、堀と土塁よって左右に折れ曲がった道を 三回ほど折れ曲がりながらすすむ。
「 この通路は両側が堀の土塁の上を歩かされるため、
攻める側は隠れる場所がない、無防備な状態で、進軍しなければならない。 」
大手道(土塁上の道) |
この危険な土塁の道の先は南西に細長い平坦地に出る。
この道を下に下って行くと、「枡形虎口」の標木が立っている。
下草がみっちり生えている平坦地には「曲輪」の標木が立っていた。
下に降りると民有地で、その先にはいけない。
「 古宮城の大手道は、
かっては作手街道に面した南西角地の民家の裏手にあった。
大手口枡形虎口は内桝形の虎口で、
大手口は、左に土塁、右側に急峻な切岸とで挟まれた堀状の狭い直線的平坦地である。
この登城道は西側丘陵の背後(城郭の北側)へ廻り込むよう一本道のまま伸び、
西側丘陵の北部に至ると、やや広い広場的空間に出る。
そして、そこから南方へ堀と土塁によって左右に折れ曲がった道を三回ほど
折れ曲がりながらすすむと、西曲輪(西主郭部(四・二アール)に到着するのは今歩いてきたルートである。
今回の旅は戦国時代の大手道を逆に歩いてきたことになる。 」
大手口曲輪 |
以上で、古宮城の探索はほぼ終了。
帰りは、大手口曲輪から北に進み、東丘陵の麓を歩いて、駐車場を目指す。
左側には横堀と土塁があり、駐車場まで続いていた。
一方、右側は東丘陵の傾斜が続く。
古宮城は、東主郭の北部から東にかけて傾斜する丘陵地になっていて、
その傾斜に四〜五段の帯曲輪状の曲輪が造られたという。
歩いて行くと、ところどころに、「土塁」の標木があり、
その上には平坦地が作られ、曲輪になっていた、と思われるところがあった。
また、麓の平坦地にも「曲輪」の標示板があり、
東曲輪の最深部には、かなりの人数の兵士が駐屯したり、居住居住することができた、
と思った。
帯曲輪 |
所在地:愛知県新城市作手清岳
JR飯田線新城駅より豊鉄バスで鴨ヶ谷口バス停で下車
新東名高速自動車道新城ICより国道301号線経由23q 白鳥神社東側に駐車スペース(無料)
古宮城のスタンプは作手歴史民俗資料館(9時〜17時、火休、0536-37-2269) にて