mrmaxの城めぐり 愛知県8 (清洲城)
清須城は織田信長が天下取りを始めた城であり、信長の死後、その後継者を選ぶ清須会議が行われたところである。
清洲城
清洲城は清須城とも書かれるが、清須越し以前は清須町、
江戸時代に入り、美濃路の宿場になった以降は清洲町になったようで
ある。 城跡は合併して清洲町から清須市になった清須市朝日屋敷町一番地一にある。
「 室町時代の初め、
尾張の守護職だった斯波義重が守護所であった下津城(現稲沢市)の別邸として建てられたのが清須(清洲)城の始めといわれる。
文明八年(1476)、下津城が戦乱で焼かれ、守護所は清州に移り、尾張の中心地となった。
清洲は京や鎌倉に繋がる鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要衝で、
尾張の政治、経済、司法の中心地として繁栄した。
戦国時代に入ると、尾張国は守護代の織田氏が実権を握り、上四郡を岩倉の織田氏、
下四郡を清州の織田氏が掌握し、 互いに争う中、弘治元年(1555)、
那古野城主の織田信長が清州織田家の当主信友を攻め滅ぼして清州城に入り、
尾張の拠点とし、桶狭間の戦いで今川義元を破り、天下統一への足固めをした。
本能寺の変で斃れた信長の跡目を決める清須会議の後、
信長の次男、信雄が清須城の城主となり、大改修を行った。
「 清須城は天守を備え、その規模は東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域で、
その中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市に変貌。
「 清州城主は豊臣秀次、福島正則と続き、江戸幕府が誕生しても、
徳川家康の子、 松平忠吉、徳川義直が城主になったが、
慶長十五年(1610)、家康からの清州城廃城と名古屋城移転命令により、
城は壊され、 三年後に廃城になる。 俗にいう「清須越」である。
当時の清須町の人口は六万人。
住民が一挙に空になった訳で、当時の臼引歌は、そのありさまを
[ 思いがけない 名古屋ができて、花の清州は野になろう 」 と歌われたが、
まさにその通りで、旧市街地は、清州新田として開発され、
城の石や木材なども名古屋城に運ばれたので、荒れ果てたままだった。
「 尾張藩は清州城天主台址二百三十三坪の土地だけを保存することとし、
天保四年(1832)、清州代官、朝田藤三郎は城址の周囲に石垣を設けた。
明治十九年には東海道本線が敷地内に敷設されたが、
大正七年に清州町が清洲村古城地図により、
清洲城本丸、天守台の地域(東西四十間半、南北百一間半)を包含する五千六百三十四坪を買収し、
織田信長顕彰を目的に大正十一年に清州公園を開園した。
しかしながら、時が経ち、小生は昭和三十六年四月から翌三十七年四月まで近くに住んでいたが、
公園という程のものでもなく、「清洲城址」の石碑が川の縁に建っているという状態だった。
現在、城跡は開発によって大部分は消失し、
さらに東海道本線と東海道新幹線に分断されていて、本丸土塁の一部が残るのみである。
「 現在の天守は五条川に架かる大手橋と共に、
平成元年(1989)に旧清洲町が町制100周年を記念して、
清洲城跡に隣接する清須市清洲地域文化広場内に建築したRC造の模擬天守である。
創建当時の絵図が残っていないため、
外観や規模は実在した当時を想像して建てられたという。 」
東海道本線以南の城跡である清洲公園には昭和十一年に建立された信長の銅像が建っている。
なお、現在城址のすぐ横を流れる五条川の護岸工事の際に発掘された石垣の一部が、
公園内に復元されている。
また、東海道本線以北の城跡である清洲古城跡公園には、
弘化四〜五年頃建立の「右大臣織田信長公古城址」と、
文久二年建立の「清州城址碑」がある。
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清洲城模擬天守 | | 信長公顕彰銅像 | | 川から掘り出された清洲城石垣 |
清須城は名鉄本線新清州駅から徒歩15分
JR清州駅から徒約15分
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