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戦国時代前期までの城は山城で、高い山に砦や郭と土塁の城を築き、戦争になるとそこに籠って戦い、 平時は山麓に館を築いてそこで居住していた。 岐阜城もそうだった。
「 現在岐阜公園となっている岐阜城は、 山麓部に築かれた信長の居館と金華山山頂の城郭と二つのエリアに分れていた。 山麓の一段高くなった千畳敷にはポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが紹介した楼閣(信長の住居)が建てられていた。 信長の居館跡は最近になり発掘調査が進められ、庭跡などが発見された。 現在冠木門と虎口の土塁が復元されている。 」
現在、ロープウェーでも登れる山頂の城の部分には、 三層の復興天守と模擬隅櫓(資料館)が建っているが、 岐阜城は徳川家康により廃城になったので、 江戸時代初期の絵図でしか存在しないものである。
廃城まで経緯を記すと、 「 天正四年、近江国に安土城を築いた信長は岐阜城に嫡男の信忠を入れた。 天正十年の本能寺の変で信長と信忠が亡くなった後、三男信孝が入城するが、 天正十一年、信孝は信長の跡目争いに敗れ自刃し、その後、羽柴秀吉の命により、 池田之助、池田輝政、羽柴秀勝、織田秀信が城主となった。 慶長五年の関ヶ原の戦いでは、織田秀信は西軍に付き、 東軍に攻められて開城し、秀信は高野山に蟄居。 徳川家康は岐阜城を廃城にして、加納城を築かせ、天守や郭などを加納城に移築した。 」
かっての岐阜城には百曲道や七曲道などがあり、
麓から登って行ったわけであるが、
ロープウエイで登ると山頂駅の下にあるリス村が煙硝蔵があったところである。
現在レストランになっているところには太鼓櫓があり、右手に一之門があった。
現在、復元された冠木門をくぐると、「伝一ノ門跡」の説明板がある。
「 現在は倒れた巨石と石垣が一部残るだけである。 当時は巨石を道沿えに立てて並べていたといわれる。 」
その先に「馬場跡」の説明板がある。
「 岐阜城の郭内では唯一の平坦な土地で、 上格子門が巾3間(5.4m)長さ30間(54m)続いていて、 元弘年間と推定される岐阜城絵図の馬場跡に位置している。 岐阜城に詰めていた将兵が馬をついでいた場所とか乗馬の訓練をした場所とか言われている。 一説では馬場ではなく、矢場であるという。 」
その先には切通(堀切)の説明板がある。
「 敵の侵入を防ぐため、尾根の通路を遮断するように造った堀。
中世山城に多く見られる施設で、普段は木橋がかかっていて、戦時には橋を切り落として防衛した。
江戸時代には堀切とも呼ばれていた。 」
その先の二之門を入ると下台所跡である。
説明板「下台所跡」
「 江戸時代の絵図や記録に下台所とある。
平らな場所で、入口部分は二の門、二の門の入口両側には巨大な石を使った石垣が残っている。 」
その先では岐阜城天守閣が大きく見え、斎藤氏三代の歴史の説明板と岐阜城跡図が掲示されていた。
これには百曲登山道と七曲登山道や伊奈神社宮司塩谷左門の屋敷が描かれている。
このあたりが二の丸で、近くに軍用井戸があったようである。
石段を上ると天守閣に出た。
「 昭和三十一年に三層四階の天守閣として、 岐阜城再建期成同盟によって建築されたもので、 平成九年に信長時代の外観に修正されたという。 岐阜城天守閣は標高329メートルにあり、 最上階からは、眼下に鵜飼で有名な清流長良川が市内を貫流し、 東には恵那山、木曽御岳山が雄大な姿を見せ、 北には乗鞍、日本アルプスが連なっている。 また西には伊吹、養老、鈴鹿の山系が連なり、 南には濃尾の大平野が豊かに開け、 木曽の流れが悠然と伊勢湾に注いでいるさまを一望におさめることができる。 城内は史料展示室になっていて、刀などの展示があった。 」
天守閣の脇に模擬隅櫓(資料館)が建っているが、
天守閣内の展示の方が見るものがあった。
その近くにあった石垣は岐阜城でもっともよく石垣が残るところで、
その技術は信長入城以後に造られたと考えられるとあった。
「 金華山一帯は平成二十三年(2011)に「岐阜城跡」として国史跡に指定された。 また、岐阜城は日本100名城にも指定されている。 」
寄らなかったが、岐阜公園内の歴史博物館には加納城の模型や信長の居館が詳しくビデオなどで展示されているという。
岐阜城へはJR東海道本線「岐阜駅」および名鉄名古屋本線「名鉄岐阜駅」から岐阜バス「長良橋経由」で約15分、
「岐阜公園・ 歴史博物館前」下車、徒歩約3分で、金崋山ロープウエー乗り場に到着
ロープウエーで、金崋山ロープウエー山頂駅まで約3分、山頂駅から天守までは徒歩約8分
日本100名城の岐阜城のスタンプは岐阜城資料館にて
加納城
加納城は、文安弐年(1445)、美濃国守護代、斎藤利永が沓井城として築城した跡地に、
徳川家康が関ヶ原合戦の後、大坂豊臣方への備えとして、本多忠勝に命じて築城させた城である。
徳川家康は秀吉に縁の深い大津城、佐和山城、清洲城、そして岐阜では岐阜城を廃城にしている。
「 加納城は岐阜城の南の中山道に面する加納の地に荒田川から引き入れた内堀、外堀で囲まれた水城で、
取り壊された岐阜城の天守閣などの施設が移築されたといわれる。
この城は独特の構造をしていて、本丸には北側の大手門からそのまま入れず、二の丸を経由し、
東側の張り出し部分に設けられた門から入るといういう構造になっていた。 」
加納大手町交叉点に「加納城大手門跡」の大きな石柱が建っているが、
江戸時代には大手門があったところで、
その先にある岐阜大附属小、中学校や加納東公民館や加納小学校のところに三の丸があり、
対面に厩曲輪があった。
岐阜地方気象台は二の丸の跡地で、
二の丸は岐阜城の天守閣だった「お三階の櫓」を移築したものである。
その先の広い公園が本丸跡であるが、今は一部の石垣が残るだけである。
「 初代の城主は、家康の愛娘・亀姫の夫の奥平信昌。
加納奥平家の石高は十万石だったが、
三代目の忠隆が没すると後継者がなく、家名が断絶。
その後は次々に、大名が替わった。
大久保忠職が、小田原より入ったが、加納の石高は5万石と半分になり、
更に、七年間後には大久保忠職が播磨明石へ転じていった。
戸田光重は石高七万石で加納藩主になるが、
その子、光永が相続の際、弟二人に一万石を譲ったので六万石に。
元禄九年(1696)には、城下の大火により、追手門、侍屋敷、町家などが焼ける。
戸田光Xの時、山城の淀へ移つされた。
次は、安藤氏。 これも三代四十五年間の治世。
安藤信友は備中松山より入り、享保七年(1722)老中になる。
享保十三年(1728)の大火により、城下の大半が消失。
この時、二の丸、侍屋敷が炎上している。
信友が享保十七年(1732)に没すると、孫の信尹が継いたが、
宝暦三年(1753)、お家騒動が起きたため、翌年、信尹は隠居を命じられた。
嫡子の信成が、相続したが、一万五千石を減じられ、五万石となり、翌年、磐城平藩に転封された。
その後任として、永井直陳が武蔵岩槻から転じてきたが、石高3.2万石。
ついに三万石になってしまった。
永井尚佐の統治下の寛政十年(1798)に大洪水により、
加納城下が大被害に遭う出来事もあったが、
六代(直陳、尚備、尚旧、尚佐、尚典、尚服)続き、
明治の廃藩置県で廃城するまで、百十三年間を統治した。
その間、加納藩農民一揆発生や享和弐年(1802)の二の丸御殿新築、御城高塀普請もあったが、
明治弐年(1869)、永井尚服が版籍を奉還。
明治四年の廃藩置県により廃城となった。
加納城跡には戦時中、陸軍第1航空師団司令部が設けられ、
戦後、自衛隊駐屯地になったが、
その自衛隊も移転して、設備はすべて壊され、現在の姿になった。 」
江戸時代に入り、中山道の加納宿になったが、
岐阜城のあった岐阜町が商人の町として繁昌していたので、
旅人は岐阜を訪れる人が多かったといわれる。
町内にはお鮨街道といわれた岐阜道と中山道との追分に道標が建っている。
加納城へは名鉄名古屋本線加納駅から徒歩約20分