mrmaxの城めぐり 岐阜県2 (大垣城)


大垣城は関ヶ原の戦いの前日、石田三成の陣地になった城で、 江戸時代には大垣藩の藩庁になった城である。
続日本100名城の第144番に選定された。  


かうんたぁ。




大垣城

令和二年(2020)十一月二十八日(土)大垣城を訪れた。 
大垣城は関ヶ原の戦いの前日、石田三成の陣地になった城である。 
江戸時代には美濃路の宿場町にもなり、松尾芭蕉の奥の細道むすびの地としても有名である。 

「 大垣城の前身は明応九年(1500)、竹腰尚綱によって牛屋川(現在の揖斐川)東河岸にあった牛屋に築かれた城といわれ、 また、天文四年(1535)に宮川安定が大尻に築いたともいわれ、当時は牛屋城と呼ばれていたとされる。 
その後、織田信長の父、信秀により落城し、織田信辰が五年間城主を務めるも、斎藤氏により城は奪い返され、斎藤氏配下の竹越尚光が城主となった。
その後、西美濃三人衆の一人、氏家直元が城主となり、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。 
天正十一年(1583)、豊臣秀吉の命により池田恒興が城主に、 恒興が死ぬとその子の輝政、そして、天正十三年(1585)、一柳直末が城主になったが、 同年に起きた天正の大地震により、城は全壊焼失した。 
慶長元年(1596)、豊臣秀吉の家臣、伊藤祐盛により、天守が築かれたとされる。 
慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、当時城主、伊藤盛宗は西軍に属したため、 石田三成らが入城して西軍の根拠地となる。 
その後、西軍本隊は関ヶ原に移動、城内には福原長堯らが守将となって残ったが、 関ヶ原の戦いで西軍が敗退すると東軍に攻囲され落城。 
江戸時代に入ると、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主とし、 その後の寛永十二年(1635)、戸田氏鉄(うじかね)が攝津国尼崎から入城し、 大垣藩十万石戸田氏の居城となり、以後明治維新まで続きました。 」 

大垣城は三重の堀に囲まれた水の城で、 南と東を大手、北と西を搦め手とする要害堅固な城郭で、 惣郭には七口之門があり、名古屋側の入口には東総門、 京都側の入口には西総門があった。 
下記図は正保「美濃国大垣城絵図」による大垣城下絵図。 

大垣城絵図
         
大垣城絵図



大垣駅の南東の伝馬西交差点の左の変則的な交差点付近が東総門の跡で 「美濃路 名古屋口御門跡」の石柱と説明板が建っている。 
江戸享保年間の地図では、交差点の東側はお濠で囲まれていたところであるが、 その面影はない。  

説明板「東総門(名古屋口門跡」 
「 三重の堀に囲まれた水の城「大垣城」の總堀内には、 古来からの町屋である本町、中町、魚屋町、竹島町、俵町があり、 その町屋を縫うように美濃街道が通っていた。 
東方に位置する東総門は名古屋方面にあたることから名古屋口門とも呼ばれ、 明け六つに開かれ、暮れ六つに閉じられた。 
この門を設け総掘りに橋を架けることにより、 有事の際に外部との交通を遮断するなどの防御が図られたのである。 
門の近くには二重の櫓が設けられ、土塁が巡らされた。
  ここには中山道の赤坂宿へ向かう門も併設されていた。 」  

説明板の裏側には、水門川が流れていて、ちょっとした小公園になっていた。 
大垣宿は、戸田氏十万石の城下町だったので、大垣城を避けるように道が曲折していた。 
名古屋口門から西の総門の京口門までは、十町五十九間(約1.1キロ)の長さだったが、 その間に十の曲がりがあったのである。 
美濃街道はここで左に折れて南へと向かう。  これが一番目の曲がりである。 
一筋目の赤いポストのある交差点を右折するが、これが二番目の曲がり。 
少し歩くと、きれいなタイルの敷かれた、本町商店街通りに出る。 
美濃街道は、ここで左折する。 これが三番目の曲がり。 
交差点の右側の元公衆電話ボックス脇に「高札場跡」の説明板があるが、  昭和初期までは高札場が掲示板として使用されていたという。 
アーチのある本町通りを歩いて行くと、 右側の田中屋煎餅総本家の前の郵便ポストの脇に、 「美濃路大垣宿脇本陣跡」の石柱が立っている。 

説明板「脇本陣跡」 
「 脇本陣は本町大手北側にあって、もと関ヶ原の役で、大垣城を守った七騎の一人、 松井喜右衛門によって創立された。  その後、戸田家の入封に随従した上田家が勤めるようになった。  この脇本陣は本町本陣と呼ばれ、間口十二間半、奥行き 十六間半余で、 坪数百二十七坪余もの格式ある建物だった。 」 

東総門跡
     高札場跡      脇本陣跡
東総門跡
高札場跡
大垣宿脇本陣跡



その先の交差点を右折すると、右側の水路の先に、 「大手門」と記された小さな石柱があり、その奥に広峯神社の鳥居がある。  二つの説明板が立っている。 

説明板「大垣市指定史跡 大手門跡」 
「 大垣城は、南と東を大手、北と西を搦手とする要害堅固な城郭であった。  惣郭には、大手口、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、小橋口の七口御門があり、 なかでもこの大手口御門(東大手)は城の正門で、 始めに高麗門と呼ばれる第一の門をくぐって、 左に折れると威風堂々とした第二の門である櫓門に突き当たる 二重の城門を配した枡形形式の堅固なものであった。  明治四年(1871)に大手門を取り壊したおりに、その枡形跡に広峯神社を移築した。  そのため、同神社境内は大手門北部の原形をよくどどめ、 東側の石垣は往時のままである。  また、その名残りで、今もこのあたりを本町大手又は大手通り、大手町などと呼ぶ。        大垣市教育委員会    」  

説明板「大垣城大手門跡」 
「 大垣城の東にあり、大垣城の正門である。  町屋の本町に通じていた。 現在、広峯神社が建てられており、 神社の東の水路がかっての内堀である。  城主氏家常陸介直元(卜全)のとき、 松之丸に住んでいた松井喜右衛門に替え地をさせ、この地の警護を命じている。 」   

美濃街道は南下するが、江戸時代には旅籠や商家が並び賑わっていた所である。 
大垣城へは東口大手門をくぐり、直進すると内掘りがあり、 左折する右側に大手門が建っていた。 
現在の東門は大手、南口、柳口、竹橋口、清水口、辰之口、 小橋口とあった大垣城の七口之門の一つである柳口門が、 天守が復元された昭和三十四年(1959)に現在地に移築されたという。 
この東門だが、江戸時代、ここには入口はなく、水堀の上だった。 

大手口御門(東大手)跡
     大垣城想像図      大垣城東門(旧柳口門)
大手口御門(東大手)跡
大手門から見た大垣城
大垣城東門と隅櫓



東門をくぐると二の丸跡である。
今はその面影はないが、江戸時代には右手の本丸とともに水堀で囲まれていた。 
本丸跡に「大垣城 関ヶ原の戦い」の説明板が立っていた。 

説明板「大垣城 関ヶ原の戦い」
「 大垣城は、別名を巨鹿城とも呼ばれ、天文4年(1535) 、 宮川安定が創建されたとされている。  その後、永禄四年(1561)、氏家直元(卜全)が城郭を整備し、 天正から慶長にかけて歴代城主によって天守が築かれた。  豊臣秀吉は、大垣城を「かなめの所、大柿の城」と語り、 織田信長や秀吉と関わりの深い一門が歴代の城主を務めるなど、 関ヶ原の戦いより前から重要な拠点とされてきた。  秀吉の死後、石田三成らを中心とした西軍と徳川家康を中心とした東軍の対立が激しくなり、 両者の戦いは避けられないものとなった。  慶長五年(1600)八月十一日、西軍を率いる石田三成は大垣城に入り、 西軍の拠点とした。  当初、東軍、西軍ともに大垣城が天下分け目の戦場となると考えており、 家康は水攻めを企てていたとも言われている。  なお、関ヶ原の戦いでの決戦後、大垣城は一週間の戦いを経て開城している。  関ヶ原の戦い後、慶長十八年(1613)には二の丸石垣等の整備が進むとともに、 西は水門川、東は牛屋川を外堀に利用した、壮大な城郭となった。  その後も、城主戸田氏の時代に櫓や城門が配置され、枡形虎口、馬出し、横矢等、 敵襲に備えるつくりが築かれるとともに、 外堀周辺には武家屋敷や町屋、美濃路が計画的に配置されていった。 」 

慶長元年(1596)に完成したと伝えられる天守は、 四重四階建て総塗りごめ様式を取り入れた優美な城として名高く、 明治の廃城令でも破壊は免れ、昭和十一年には国宝に指定された。 
しかし、昭和二十年七月、大垣大空襲により焼失。 
現在の天守は昭和三十四年(1959)に、鉄筋コンクリート構造で、外観復元された。  天守再建の際参考にされたの郡上八幡城である。 
郡上八幡城は昭和八年(1933)に木造で再建されたが、 参考にされたのが大垣城の天守で、大垣城そっくりの模擬天守となっていた。 
再建された天守は観光用に窓を大きくするなどの改変がなされていた。 
平成二十二年(2011)に改修工事が行われ、 戦後の再建時に改変された外観が史料を基に焼失前の外観に近くなるように改修された。  

二の丸跡
     説明板      大垣城天守
二の丸跡
説明板
大垣城天守



江戸時代には本丸と二の丸を守る内掘の東に天神丸、南に三の丸、西に竹の丸があり、 その外に外堀が巡らされていたが、今はその面影は残っていない。 
西側の出口には模擬楼門の西門があった。 
ここは埋門のような楼門であるが江戸時代には本丸西側は巨大な水堀で、 ここには門はなかったようである。 
大垣城跡は大垣公園として整備されていて、東北部に大垣城本丸の天守、 北東部に乾櫓、北西部に艮櫓を、西部に西門を大垣市が造ったが、 当時は時代考証という発想もなかったと思え、 築造されたものとはかなり違っているようである。 

「 城の北東にある乾隅櫓は昭和四十二年に建てられたもので、 乾隅櫓と土塀の一部は昭和六十年には戸田藩主入城三百五十年を記念して、 修景整備された。 野面積みの石垣は石灰石で造られている。 
北西の腰曲輪に艮(丑寅)櫓があり、国宝に指定されていたが、戦災で焼け、 戦後に鉄筋コンクリート造りで再建されたものである。 」 

なお、100名城のスタンプは天守閣の受付近くに置かれていたので、捺印した。 
西門を出て南に向うと、大垣城跡を整備した大垣公園がある。 
公園の南西に大垣市役所、道の反対に東庁舎、丸の内公園がある。 
この近くに「史跡 飯沼慾斉邸跡」の石柱が立っていた。 
飯沼慾斉は、美濃国 大垣の医者の飯沼長顕に学び、 その後、京都に出て本草学を修めた、という人物である。 
石柱を過ぎた交差点の右側には、飯沼慾斉先生と書いた銅像が建っていた。 

西門
     大垣公園      史跡 飯沼慾斉邸跡
西門
大垣公園
史跡 飯沼慾斉邸跡



美濃路は交差点を左折し、南へ向う。  これが九番目の曲がり。 
牛尾川に架かる京橋の手前左側に、 「大垣城西総門跡(美濃路 京口御門跡)」の石柱が立っている。 

「 大垣城は三重の濠で囲まれ、大垣宿も外濠の中にあったのである。  西総門は、京都方面からの出入口だったので、京口門と呼ばれていた。  門の近くには二重の櫓を組み、周りには土塀が巡らせていた。  この門は朝六つから暮六つまで開かれ、外濠に架かる橋を通じて通行できた。 」 

橋を渡ると、この辺りから船町で、 右手にはトイレや観光ボランティアガイドセンターがあり、 左側には約二メートルもある大きな円柱状の船町道標があった。 

「  文政年間(1818〜1830)に京口御門の南の美濃路に建立されたもので、 上部には旅行安全を願い、梵字が、その下に、左江戸道 右京みち と書かれている。  第二次大戦で被害を受けたのを修復した。 」 

右側の川は水門川で、江戸時代には大垣城の左側の外濠になっていた。 
右手の貝殻橋を渡ると、奥の細道むすびの地記念館(総合福祉会館)があり、 その庭には芭蕉の句碑が二つある。 
     「   ふらすとも  竹植る日は   みのと笠   芭蕉   」  
     「   さびしさや  すまに勝ちたる 浜の秋    はせお  」  
水門川の左岸を下ると、住吉公園碑と飛騨、美濃さくら三十三選の地  奥の細道むすびの地の石柱が建っている。 
赤い手摺と欄干に疑宝珠が乗った木造の橋の住吉橋の手前に、 芭蕉ゆかりの句碑の案内碑が設置され、地図と写真入りで詳しく案内されていた。 
赤い橋から南を見ると、水門川に一隻の船が繋がれ、 その先に木造の高い塔と神社の社殿が見える。 
近づいてみると、その脇に船町港跡と住吉燈台と書いた説明板があった。 

「  船町港は大垣と桑名を結ぶ水門川の川港で、 江戸から明治にかけて交通の要衝として栄えた。  明治十六年には、大垣と桑名を結ぶ蒸気船が運航した。 ・・・・ 
住吉燈台は元禄(1688〜1704)前後に港の標識と夜間の目印として建てたもの。  高さ八メートルの木造、四角の寄棟造りで、 最上部四方には油紙障子をはめこんであり、 形全体の優美さは芸術品としても十二分に価値がある。  (大垣市教育委員会) 」 

享保年間の大垣城下の地図を見ると、このあたりは濠が南に続き、 その西側は土塀が囲んでいる。  そして、この先の高橋の先が川幅が広くなっていて、船入と表示されている。  船町港には停留されているような船が活躍して、 水門川から揖斐川、そして伊勢や桑名へと結び、 舟運により大垣は経済都市として発展した、という。 
川燈台の隣の赤い鳥居は住吉神社である。  この神社はもちろん海上の守護神である。 
住吉神社を過ぎると、高橋交差点で、 美濃路は、交差点を右折し、右側の高橋を渡り、水門川を越える。 
これが最後、十番目の曲がりである。 橋を渡ると、大垣宿は終わる。 
最後に、奥の細道むすびの地記念館を訪れ、大垣の旅を終えた。 

西総門跡
     奥の細道むすびの地の石柱      住吉燈台
大垣城西総門跡
奥の細道むすびの地の石柱
住吉燈台



大垣城へはJR東海本線大垣駅から徒歩10分 
続日本100名城の大垣城のスタンプは天守閣受付の向かい側にある 




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