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左側の石段の上に、松之丸の石垣とその上に白壁の土塀があり、三角と丸型の狭間が見えた。
石垣は下の方が古く、野面積みで、上部は石を加工して積んだ切込接だが、場所によりまちまちなので、改修の際何度も積みかえられたのだろう。
「 室町時代後期の永禄二年(1559)に、遠藤盛数が陣営を築いたと、前述したが、
その時は砦のようなものものであったと思われる。
遠藤盛数の長男、慶隆が二代目の城主となるが、
本能寺の変後、織田信孝の傘下に属したため、羽柴秀吉により、追放されてしまった。
代わって、天正十六年(1588)、稲葉貞通が城主となり、八幡城の麓に新たに壕を掘り、
居住する館を造り、本丸には天守台を設け、塁を高くし、堀を巡らせ、武庫と食糧庫を増築し、
鍛冶屋洞に面して大きな井戸を掘り、二の丸を増築して居館とした。
この時、現在見られる近世城郭としての郡上八幡城の基礎が築かれた、といえる。 」
司馬遼太郎は 「 街道をゆく 四 」 の 中で、郡上八幡城にふれている。
「 郡上八幡城というのは、戦国以来、城主の姓がいくつか変わっている。
戦国期には遠藤氏と稲葉氏、江戸期には遠藤氏が復帰しており、
そのあと井上氏、金森氏、青山氏といったふうに変遷し、
その間、落城を一度経験し、江戸期には大規模な農民一揆を経験したから、
歴史に老い寂びた城といっていい、・・・ 」 と書いている。
櫻之丸の下の先端は少し飛び出した空間(空地)があるが、
ここは悟竹院奥の院というところのようである。
「南無妙法蓮華経」の石碑があり、花が供えられていた。
ここからは昭和八年に建築された天守の姿がよく見えた。
櫻之丸の下には、「力石」の説明板と二つの石が祀られていた。
説明板「力石」
「 この二つの石は、寛文七年(1667)、城主遠藤常友が、城を修理するため、
領内から多数の人夫を集めたとき、その中の一人である大和町の作兵衛(通称、赤髭)が、
城下の河原から背負ってこの地まで運び上げたものである。(重さ約三五〇キロ・長さ約一メートル、厚さ約三〇センチ)
奉行の村上貞右衛門がその力量のすぐれているをみて激賞すると、
彼は感涙し、たちまち力尽きて、その場で卒倒し息絶えてしまった。
奉行は憐れに思って、この石の使用を禁じたが、昭和八年(1933)に天守を建設する際、
この石が草の中に捨てられているのをみた古川七兵衛氏が、
作兵衛の心根が世に忘れられてたのを嘆き、この地に碑として安置して顕彰し、
その礎石にことのあらましを記したものである。 」
その右側に「およし塚(人柱およしの碑)」の説明板が立っている。
「 郡上八幡城改修の際に、人柱となった、
神路村(現 大和町神路)の娘、およしを偲んで建てられた石碑。
城山の 露に消えゆく 人柱 」
櫻之丸の隅櫓下にある石段を上る。
石段を上ると入城券売場がある。
続日本100名城のスタンプは天守内にあるため、
入城料を支払い、中に入るしか方法はない。
石段を上り、昭和八年に造った櫻之丸の門をくぐる。
中には隅櫓があり、その右手に遠藤盛数とその子、慶隆の一生が書かれた看板がある。
「 郡上八幡城は戦国乱世の中、遠藤盛数が砦を築き、
陣を構えたことに始まる。
それを遠藤慶隆が整備し城下町を形成した。
土佐二十四万石の大名、山内一豊の妻千代は、盛数の娘であり、慶隆の妹である。 」
一豊の妻・千代は、近江国の浅井氏家臣の若宮友興の子とする説が有力であったが郡上市の慈恩寺が所蔵する遠藤氏の家系図に、
「東常縁の子孫である遠藤盛数の娘が山内一豊室である 」 との記載があったことから、
遠藤盛数の子説が有力になってきたようである。
遠藤氏の看板の右側にお堂があり、その右側に「人柱 およしについて」 の説明板があった。
「 ○ この八幡城は、永禄二年(1559) 遠藤盛数によって築城された。
その後、八幡城の合戦などを経て、石垣も崩れ落ち、
大修理を加えなければならない時期がおとずれた。
多くの人々の努力により修理が重ねられたが、急斜面の工事は困難を極めた。
○ この時、神路村(現大和町神路)の百姓吉兵衛の美しい一人娘およしは、
進んで石運びにも加わり、人々に勇気を与えた上、遂に自分の身を捧げて、
この城を守ろうと心を定め、「人柱」となって地中に入った。
およしは数え年十七才であった、と伝えられている。
美しい乙女の魂が城を永えに守り抜いたという、
かなしくも美しい伝えを人々は忘れず、現在もおまつりを続けている。 」
正面に、昭和八年に大垣城を参考に建築された木造三階建ての天守があった。
「 遠藤慶隆は徳川方として、慶長五年(1600)、八幡城を攻め、
徳川家康から郡上復帰を許され、関ヶ原の戦いに徳川方として出陣する。
関ヶ原の戦い後、遠藤慶隆は郡上八幡初代藩主に任命され、再び、城主となり、
「慶隆御一世聞書」に 「 総石垣三塀二重之矢倉松ノ丸櫻ノ丸等出来 」 とあるように、
城の改修を行い、城下町の整備に力をいれて、神社や寺院の開基に努めた。
三代目の常友は、寛文七年(1667)に幕府の許可を得て、
郡上八幡城の大修築を行った。
「人柱 およし」や大和町の作兵衛の「力石」もこの時の事例で、
城の修復にかなり苦労したことは間違いないようである。
善政を布いた遠藤家であったが、五代目の常春に跡目がなく、お家断絶となってしまった。 」
天守に入ると、山内一豊の妻・千代(見性院)の肖像画の掛け軸があった。
また、城と城下町のジオラマがあり、見取り図もあった。
「 城の見取り図によると、本丸の下に三ノ門、その先枡形の先にニノ門があり、 左奥に二之丸があり、ニノ門を出ると左側に「御蔵会所」、一ノ門を出ると「芝野」で、その前の通りに藩主の下屋敷や藩役所、御作事があり、その先の通りが殿町で、 そこから小駄良川までに寺院や商家、そして職人町になっていた。 」
天守三階から見た櫻之丸は靄がかかり、絵葉書のような風情ある風景であった。
天守から櫻之丸に戻り、松の丸へ向かうと、途中に「← 凌霜隊の碑」の説明板があった。
「 明治維新の動乱の中、慶応四(1868)年、郡上藩は戊辰戦争に、
藩士三十九名、小者六名からなる「凌霜隊」を派遣しました。
凌霜隊は、関東、東北戦線を転戦し、塩原や会津若松城では、白虎隊と共に戦いました。
「凌霜」とは、霜を凌いて咲く菊のような強固な操の信念を意味する言葉で、
青山氏の葉菊紋に由来します。
松の丸に、凌霜隊を顕彰する碑が建てられています。 」
松の丸へ入ると、横に長く大きな「凌霜隊の碑」があり、凌霜隊略記と隊員の氏名が書かれていた。
この碑は、地元のライオンズクラブが2017年に建てたものである。
凌霜隊略記
「 明治維新の前夜、天下が勤王、佐幕の両論に揺れ動いていた頃、
親藩大名青山家の藩論も容易に決しかねていた。
しかし、江戸在番の郡上藩士ら四十五名は、徳川家の恩顧に報いるため、
会津救援を決意し、弱冠十七才の朝比奈茂吉を隊長に脱藩、凌霜隊を血判し遠く会津を志した。
時に慶応四年四月十日のことである。 途中、小山宿、宇都宮、横川宿、大内峠、
関山宿などで激烈な戦闘を繰り返しつつ、様々な辛苦の末、五月六日遂に若松城に入城した。
城内では白虎隊と共に西出丸を守ったが、時に利あらず、降伏城明け渡しとなり、
凌霜隊も涙をのんで従った。 明治と改元された十月十四日、旧藩預け。郡上へ護送となり、
江戸から船で伊勢へ向かう途中難船、同三十日贄浦に上陸し、十一月十七日郡上へ到着した。
藩では脱走者として謹慎を命じ、赤谷の揚屋へ収監した。
戦死、行方不明を除く三十五名の者が許されて自由の身になったのは、
明治三年二月十九日であった。 」
松之丸からは千鳥破風の天守の姿が美しく見えたが、雨でレンズがくもっていた。
駐車場に戻ると、「首洗い井戸跡」の説明板と祠があるのに気付いた。
これは慶長五年(1600)、遠藤慶隆と稲葉貞通で争われた八幡城の戦いの出来ごとである。
説明板「首洗い井戸跡」
「 この一帯は駐車場として利用されるまで、杉や雑木の生い茂った湿地帯で、
案内板が立つほとりに一基の浅井戸が潰されていた。
井戸のまわりには蟇蛙が群棲し、昼も薄暗い陰惨な場所であった。
今は埋め立てられて跡かたもないが、その昔はこの浅井戸は「首洗いの井戸」と言い継がれ、
慶長の合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士の血や泥で汚れた首が洗い浄められ、
首実検に供されたという。 」
道路のガードレール脇に「観光センター→」「史跡 宝暦義民碑 史跡赤髭明神 →」の道標が
あり、帰りはこちら側のなだらかな坂道を下っていくが、江戸時代は大手道になっていたのだろうと、思った。
下ると先程上り始めた坂の入口に出て、この一帯は城山公園である。
駐車場に 山内一豊と妻千代の銅像が立っていた。
駐車場に車を置き、下にくだると左側に「鞍馬山別院 善光寺」があり、
道角に「八幡城御蔵会所跡」の木柱があり、「この裏」の木標も立っている。
また、木柱の横に 「 宝暦四年(1754)八月十日 農民千人余
検見法廃止と十六ヶ条の願書提出場所 」 と書かれていた。
壁には「郡上藩御蔵会所跡」の説明板が掲げられている。
説明板「郡上藩御蔵会所跡」
「 この寺院の奥に、藩内の年貢米の保管や管理、事務などを行う御蔵会所があった。 十八世紀前半、藩主金森頼ときは二度にわたり、江戸屋敷を焼失、
二度目の時は、藩の貧弱な財政を考え、新築せぬまま死去した。
一七三六(元文元)年、後を継いだ金森頼錦(よりかね)は、ただちに百姓らに御用金を割り当て、五〇〇〇両を集めて江戸屋敷を再建した。
しかし、一七四五(延享二)年の大火でまたも類焼した。
百姓の出費は莫大で、ますます生計を圧迫した。
一方、頼錦は天文学に長じ、文人とも言われ、
それらのことにも多額の金銭を使っていた。
更に頼錦は、幕府の奏者番に任ぜられた。 役目上生活は華美になり失費も多く、
藩政は家臣に任せきりで、藩の財政はますます苦しくなった。
一七五四(宝暦四)年春、郡上藩は、財政立て直しのため、年貢の取り立てを、
それまでの定免制(毎年決まって一定の年貢を取る)から、
検見取り(毎年の収穫高に応じて年貢を取る)に変えようとした。
この方法は、百姓にとって非常に不利になる。
それまでも、重税に苦しんでいた百姓は、もうこれ以上辛抱できぬと、
同年八月郡中一二〇余か村から何千という百姓が、御蔵会所に押し寄せ、
検見取りの取り下げを求めた。
こうして、五年にわたる郡上一揆(宝暦騒動)が起こった。
二〇〇七年一〇月 郡上一揆の会 」
一揆は郡上に留まらず、郡上藩預かりの天領まで広がり、
最後は幕閣の疑獄事件に発展して行った。
一揆側は江戸に出て駕籠訴や箱訴などで訴え、
宝暦八年十二月、評定所の裁決の結果、金森家は改易となり、お家断絶。
更に、幕閣である老中、本多正珍をはじめ、若年寄、勘定奉行、
美濃郡代などが罷免された。
宝暦九年(1759)、青山幸道が郡上藩主として入城した後は、七代にわたり当地を治め、平穏なうちに明治維新を迎えた。
そして、明治四年、廃藩置県となり、城は廃城となった。
善光寺は明治時代に、御蔵会所跡に建立されたものである。
正面に「およし観音堂」の標柱があり、人柱となったおよしが祀られていた。
坂を下ると右側に安養寺があるが、ここは江戸時代には一の門が上部に、
寺の敷地は芝野とあった場所である。
「 安養寺は、郡上御坊とも呼ばれ、郡上一帯の真宗大谷派の中心的な寺院である。
間口、奥行共に十六間(約29m) の本堂は、岐阜県下で最大といわれる。
ここは八幡城の三の丸跡地で、明治十四年(1881)に八幡中坪園野にあった本堂が焼失したのを機に、ここに移転し、
明治二十三年(1890)に本堂を再建した。
本堂は大正八年(1919)の郡上大火により燃亡したが、
昭和十一年(1936)に再建されたのが現在の本堂である。 」
安養寺の山門をくぐり、階段を降りると、右側に「国藤療院」の看板を掲げる病院がある。
植え込みに「八幡城主下御殿跡」の標柱が立っている。
江戸時代には病院、そして奥一帯の長方形が藩主の下御殿の敷地であった。
さらに下ると郡上八幡城下町プラザがあり、バスのターミナルになっている。
交叉点横の家の前に「史跡 八幡城 大手門跡」の説明板が立っていた。
「 この四辻は昔、侍町四辻といわれ、
明治維新まで黒塗の立派な大手門が建っていました。
郡上八幡観光協会 大手町 」
プラザの横の道の一帯が大手町で、その先の交叉点の左手が本町である。
右手は鍛冶屋町で、蓮生寺や北町用水がある。
「 郡上八幡は水路が縦横にはしる水の町として有名であるが、用水は 三代藩主の常友が寛文七年(1667)に、 大火事で全滅した町を火災から守るため、 小駄良川の上流三キロから水を引き、四年がかりで完成させたものである。 」
本町から肴町に入る手前を右に入ると、宗祇水がある。
説明板「宗祇水」
「 郡上八幡には、山水、井水(地下水)、河川や谷川の水、湧水など、
豊富な水源を利用した水利用施設があります。
○ 清水と呼ばれる宗祇水(そうぎすい)
宗祇水は、地表近くの湧水を引水して、水舟に溜めて利用しているもので、
「清水」とも呼ばれます。
水舟は、山と小駄良川や吉田川に挟まれた対岸の尾崎町にも多く見られます。
以前は飲み水などの生活用水や。酒造りなどに利用していました。
上水道普及後も、冬の漬物用の野菜を洗うときなどに使用しています。
○ 人々が集う宗祇水祭り
年に一度、夏(8月20日)に行われる宗祇水神祭では、多くの来訪者で賑わいます。
神事が終わると宗祇水のまわりでは、湧水を利用した野点の茶会が開かれ、
同時に本町通りで郡上踊が始まります。 」
橋を渡ると橋本町で、水呑み場と郡上踊碑があった。
夏の風物詩になっている、徹夜踊りの郡上踊りは、
初代藩主慶隆が各地で踊られていた盆おどりを城下で踊るように奨励したことが始まりと、
伝えられている。
郡上は川魚がうまいとされ、夏は鮎料理がうまい。
遅い昼飯であったが、殿町のうなぎの吉田屋 美濃金に入った。
この時期は鰻かしし鍋だったので、うなぎのひつまぶし(3000円)を注文したが、
おいしかった。
こうして、続日本100名城の郡上八幡城の探訪は終了した。
所在地;岐阜県郡上市柳町一の沢
越美南線郡上八幡駅から車で10分
郡上八幡城のスタンプは郡上八幡城天守一階にある
郡上八幡城天守は3月〜5月 9月〜10月は9時〜17時、 6月〜8月は8時〜18時、
11月〜2月は9時〜16時30分、 12/20-1/10は休館である