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高山城は、金森長近により、天正十六年(1588)から築城が始まり、 慶長五年(1600)に本丸と二の丸が完成し、金森可重(ありしげ)により、 慶長八年(1603)に三の丸が完成した。
「 高山城が築かれた天神山は通称城山、別名臥牛山、巴山ともいう。
金森氏が入国する以前の名が天神山であった。
高山市街の東方にあり、標高六百八十六米余である。 」
山の北側の麓に「飛騨護国神社西参道」の石柱が建っている。
その先を左に入ると、飛騨護国神社がある。
ここは高山城の三の丸跡である。
「 三の丸は東西百二十間、南北九十三間の広さで、
勘定所と八棟の米蔵があり、
水堀が東側と北側をくの字形で囲んでいた。
明治十二年(1879)に、高山城三の丸跡に建立されたのが飛騨護国神社で、
西南の役から太平洋戦争までの飛騨地方出身の戦没者を祀っている。
三の丸にあった米蔵は高山神社に移築されている。 」
社殿の前を通り過ぎ、奥まで行くと、下に市街地が見えるところに、
「二之丸児童遊園地→」の道標が立っている。
崖に沿ってある道を上っていくが、けっこう急な道である。
道を進むと、パイプの柵がある門があり、
上に「←飛騨護国神社」の道標が乗っているところに出る。
ここが二之丸遊園地である。
「 二の丸は東西九十七間、東西八十四間の広さで、東西の平地で構成され、
東側の曲輪には庭樹院(頼ときの母)屋敷を中心に、鬼門櫓や東の長屋があり、
東南に裏門、西方に横櫓門があった。
東側の曲輪が現在二の丸遊園地(二の丸公園)になっている。
二の丸公園の中央には金森長近の勇壮な騎馬姿の銅像があった。
「 金森氏は美濃守護土岐氏の支流と称し、近江国野洲郡金森に居住し、
金森采女と称したことに始まる。
金森長近は織田信秀、そして、跡を継いた織田信長に仕え、美濃攻略に功があり、
赤母衣衆に抜擢された。
長篠城の戦いでも功があり、信長から「長」の字を賜り、「長近」と名乗った。
天正三年(1575)八月、越前一向一揆鎮圧に乗り出した織田軍の一翼として、
奥美濃から温見峠を越えて越前大野入りをし、本願寺坊官の杉浦玄任の軍を撃破し、
同地を平定してことから、
越前大野と石徹白を与えられ、大野城主となり、現在の越前大野市の基礎をつくった。
明智光秀の謀反により、織田信長が亡くなった後は、羽柴秀吉の傘下に入る。
羽柴秀吉は、天正十三年(1585)に、越中の佐々成政を攻め落としたが、その時、
越前大野城主の金森長近に飛騨国の三木氏(当時は姉小路氏と改名)を攻略するよう命じた。
金森長近は飛騨の城を次々に攻め落とし、
三木氏の居城・松倉城(高山市西之一色町松倉山)を攻め落した。
その功により、金森長近は天正十四年、飛騨国三万三千石を賜り、領主となった。
なお、関ケ原の戦では徳川方に付き前線で戦い、上有知(美濃市)一万八千石と金田(大阪府)三千石の加増を受けている。
金森氏は国入りをすると高山外記によって築城された天神山城跡に、
天正十六年(1588)から十数年かけて高山城を築いていき、
それと平行し、城を囲む高台に武家屋敷、
その下に町人町、東山に寺院を配置するという城下町の構築を行なった。
金森氏の統治は六代百年程続いたが、その間、商業振興や山林、鉱山開発に力を入れて、
藩財政の強化に務めている。 」
園内には「白雲水→」の道標があった。
道標に従って進むと白雲水で、その先に大隆寺があるが、この道には行かなかった。
西側に公園に入る車道の入口があるので、
歩いて入口まで行くと、「←二之丸」 「照蓮寺→」の道標、隣に「← ↓東山遊歩道」の道標が立っている。
下には黄色や朱色の葉が落ちてきれいだった。
道を上り、右に入ると豊川稲荷が祀られていて、その先に照蓮寺がある。
照蓮寺の正面に出ると、その前には空地が広がっているが、
この平地が二の丸の西の曲輪跡である。
「 西の曲輪には城主が居住する二の丸屋形、黒書院があり、 西方に唐門、屏風土蔵、十間櫓等が建っていた。 東側の曲輪との境に玄関門と中の口門があった。 」
照蓮寺の山門をくぐって中に入ると、入母屋造、相葺形銅板葺の本堂がある。
説明板「照蓮寺本堂(国指定重要文化財)」
「 浄土真宗の寺院では日本最古の建物といわれ、
昭和三十五年に合掌造りで有名な荘川村(現在の高山市荘川町)から、高山城二の丸跡へ移築された。
永正年間(1504〜1521)の建立と伝えられるこの本堂は、書院造を基調として、
道場発祥の過程を物語る。
かっては荘川村中野にあり、中野御坊と呼ばれてきたが、御母衣ダムが建設されることになり、
昭和三十三年から三十五年にかけて現在地に移築された。
一本の大杉を使って建てられたと伝わる書院造りの本堂は、
長さ七間の長大な梁や、緻密な木目の板材など、見所は多い。
山々の形にも似た緩やかな屋根の曲線は、飛騨の寺院建築を象徴する優美さの一つである。
延宝六年(1678)の棟札や小屋束の墨書から、
当時の流行であった本願寺式急勾配の屋根に改装されていたことが分かり、
移築の際に創建当初の緩やかな屋根に復元された。
杉柾目の柱に取られた大きな面、柱の上の美しい曲線を描く舟肘木、
広縁内部の調和のとれた舞良戸と明障子など、
仏壇構えの内陣と共に上品な雰囲気が漂う。 」
先に進むと、四又になっているので、左に進んでいくと、
「号砲平」の標識と「←搦手」の道標があった。
ここは本丸と二の丸の間にある西方にあった曲輪「号砲平」で、
塩蔵とその他の土蔵が建っていたところである。
木立の中に上っていくと、「←搦手 もみの木平 南之出丸→」の道標があり、
その下に「熊除けの鐘」と表示された下に御釜のようなものがあるので、
鳴らした。
左右にカーブする道を上っていく。
「中段屋形」と表示された平地に出た。
ここは本丸と二の丸の中間にあり、中段屋形が建っていたところである。
ここには「←二の丸」「本丸→」の道標が立っていて、階段を上っていく。
上って行くと「←水の手」の道標があり、その先に「水の手門」の石標が立っていた。
坂を上りくると平地になっていて、
少し小高くなったところに「高山城本丸屋形跡」の標石があった。
「 高山城は、御殿風の古い城郭形式時代の城である。
本丸は東西五十七間、南北三十間の広さで、本丸屋形が建っていた。
本丸屋形には台所、風呂、大広間、茶室などがあった。 」
小高いところには二層三階の構造を持つ天守があった。
秀吉の大坂城築城前における城郭史上初期に位置づけられる。
東方一段低い曲輪に、「十間櫓」や「太鼓櫓」の石標がある。
「 ここには十間櫓、十三間櫓、太鼓櫓、横櫓などが建っていて、
東北部で、搦手一の門がある腰曲輪が連なっていた。
休屋があるところには、「←二の丸 もみの木平→」の道標が立っている。
「 本丸から南に下ると途中に三の門、二の門を経て、岡崎蔵があったもみの木平へ、
さらに大手門がある南出丸へ至る。
大手道はここから大洞谷を下って枡形橋まで通じている。 」
小生は大手道方面には行かず、ここで終了し、搦手道を下った。
なお、高山城は元禄八年(1695)、城の維持が困難になったという理由で、政府の命令で、
前田藩により取り壊されてしまった。
高山城へはJR高山本線高山駅から徒歩約20分
高山陣屋
城下町は、城の北東に延びる通称空町と呼ばれる高台と、
その西方低地地一帯で、西側は宮川、東側は江名子川に囲まれた東西五百米、南北六百米の範囲であった。
「 武家屋敷は城の西、北、東の三方を取り巻く形で配置されていた。
西は大洞谷から中橋に至る宮川の右岸に階段状に配置、
城の北東は空町一帯から江名子川そいに建てられていた。
町人町は宮川と空町の間の低地に、一番町、二番町、三番町と、南北に道路が走り、
東西の道路は南北の大通りと食い違って交差する横丁が多くあった。
(注)現在の上一之町、上之三之町あたりである。 」
高山陣屋を訪れる。
表門は天保三年(1832)の建立で、切妻造熨斗葺平屋建てである。
門を入ると三つ葉葵の紋が白く抜きとられた紫の幕がある玄関が迎えてくれた。
「 高山藩が誕生して百年に近くなった元禄五年(1692)、
六代目藩主、金森頼時の時代に突然、
幕府から頼時に対し出羽国上山藩(山形県上山市)へ転封の沙汰が下った。
飛騨が幕府の直轄地(天領)となると、金森氏の家老の屋敷が当初の支配拠点となった。
その後、金森氏の下屋敷があった場所に移転し、そこに三の丸より米蔵が移された。
天領になった理由ははっきりしないが、
飛騨の豊富な資源(鉱山、森林等)に幕府が目を付けて、横取りしたという説がある。
高山城は金沢藩が城番を勤めたが、
転封三年後の元禄八年(1695)、城の維持が困難になったという理由で、完全に取り壊され、
廃城となった。 」
飛騨高山代官は、高山城の代わりに金森家の下屋敷を使って政務を行った。 これが現在残る高山陣屋で、元禄五年(1692)から慶応四年(1868)までの百七十六年間続いた。
「 三代、伊奈代官までは関東郡代との兼務、
四代森山代官から飛騨専任となったものの江戸に在任していたようである。
直接執務を行うようになったのは七代長谷川代官から、安永六年、検地を行い石高が増えたことから、飛騨代官は飛騨郡代に昇格した。 合計二十五代の代官、郡代が執務を行った。 」
玄関之間は、文化十三年(1818)に改築されたが、そのままの姿で、
十万石格を示す二間半の大床や、床の壁一面の青海波の模様が目を引く。
式台は身分の高い武士が駕籠で乗り付けるため、低くしつられている。
御役所、郡代役宅、御蔵等を併せて、高山陣屋と称された。
役所の仕事を手助けするため、寺院(僧侶)、町役人(町年寄や町組頭)が詰めていた。
「御役所」の標札がある部屋は、郡代、手代の執務する部屋で、役所の中枢部で、二十八畳。
その隣に「御用場」の標札があるが、地役人の勤務する事務室。
但し、口留番所役は不在で、広さは三十五畳であった。
その先、右折すると、「帳場場」(幕府に提出する文書等を作成する役人が使った部屋)、
寺院詰所、町年寄詰所、町組頭詰所が並んでいた。
「 寺院詰所、町年寄詰所、町組頭詰所は小さな部屋で、独立した小さな
玄関があり、そこから出入りし、執務していたようである。 」
何故か湯呑所はけっこう広く、その隣は書役部屋である。
湯呑所から外に出ると、かっては帳面を保管する土蔵があったようである。
地役人はここから出入りしていたようである。
玄関の奥には使者之間と大広間がある。
「 大広間は、三室に分かれていて、公式の会議等に使用された。 書院造の部屋からは、濡縁を通して庭が見える。 文化十三年(1816)に改築されたものである。 」
玄関の左側に少し突き出しているのは吟味所で、その前に御白州がある。
以前は御白州の前に仮牢があったようである。
「 吟味所は刑事関係の取り調べを行った所である。 ぐり石敷・屋根が特徴である。 また、民事関係は北の御白州で扱った。 」
御役所は行政府だけでなく、司法機関も合わせて持っていた訳である。
渡り廊下を進み、別棟に入ると郡代(代官)の居宅である。
座敷、居間があり、用人部屋、女中部屋、茶之間があり、
庭に面して郡代が生活する御居間の嵐山之間と御奥がある。
これらは文化十三年(1816)の絵図面を基に、平成八年三月に復元されたものである。
ここからは庭が見渡せた。
御役所の建物の左側に米蔵があり、
年貢米俵が貯蔵された様子を再現していた。
「 米蔵は慶長年間(1600頃)に建築された、
片入母屋造石置長槫葺平屋建てである。
元禄八年(1695)高山城三之丸から移築され、
年貢米の蔵として使用された。 創建以来四百年の歴史を持ち、
年代、規模共に、全国でも最古・最大級の米蔵とされ、
壁面の傾斜や通風口などに工夫が見られる。 」
高山陣屋へはJR高山本線高山駅から徒歩約10分
高山の町並
飛騨高山は古(いにしえ)から越前や越中そして美濃、信濃に通じる交通の要路である。
飛騨高山の町並は金森長近により整備されたものである。
飛騨高山では高山陣屋前や宮川の河岸などで、朝市が行われている。
日枝神社の近くに「高札場跡」の石柱があり、「 1729年一之町から移され、
毒薬・人売買・駄賃・切支丹・火付等の高札が常時かけてあった。」 とある。
宮川にはあざやかな赤の中橋が架かっている。
飛騨高山は「鬼殺し」に代表される辛口の酒で有名である。
「飛騨高山 銘酒山車 打江屋」の暖簾が架かり、軒下には酒屋を示す杉玉が吊るされていた。
道の反対には「清酒 深山菊」の舩坂酒造店もあった。
「醤油・味噌」を醸造する店があり、建物の持つ雰囲気から歴史を感じられた。
「町年寄 屋貝氏宅跡」の石標があり、「町年寄 屋貝氏宅跡」 の説明板があった。
「 ここはかって町年寄 屋貝家の邸宅があった場所である。
屋貝家は金森氏の家臣として名をはせた山蔵家とも親戚関係にあった。
戦国時代、金森長近が飛騨に攻め入った時、山蔵縫欣助家次は飛騨の土豪三木氏との争いで、
畑六郎左衛門休高を一騎打ちで打ち取り功をなした。
山蔵家で使用したと伝わる鞍や兜が尾貝家に残されている。
尾貝家は十七世紀は町代、後は町年寄となり世襲により続いた。
町年寄は今で言う裁判所、税務署、消防署、市役所などの機能を果たしており、
様々な事務えお行っていた。
家業は酒造業、生糸などの問屋、鉱山業などを営んだ。
代々皆文化人で、俳句、書画、茶道などを嗜んでいる。
高山市教育委員会 」
みたらし団子の店や飛騨牛の串焼きの店などもあったが、町並みは以前に訪れた時と違い、コロナの影響で観光客が極めて少ないと感じた。