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庫裏前を直進すると交叉点があり、合掌造りの家を見ながら進む。
右側の奥まった家は長瀬家である。
道の脇にある看板には、「 当家の合掌づくりは五代目当主民之助により、明治二十三年(1870)に建造されました。
白川の自然に育まれた 樹齢一五〇〜二〇〇年の天然檜や樹齢三〇〇〜三五〇年という栃、欅、桂等の巨木が使用されております。
五階建て合掌造づくり は三年の歳月と当時の金で八百円、米百俵、酒十一石八斗と白川郷民の結の心で完成したといわれています。
(中略)
先祖が加賀百万石前田家の御典医を勤めていたことから、 前田家から拝領した品も多く伝わっております。 (以下略) 」 と、あった。
しばらく歩くと、右手に車道道があり、上っていくと、 紅葉越しに荻町の町並みが見えた。
「 合掌造りの家が誕生したのは江戸時代中期以降のようで、
その誕生には養蚕との関わり がある。
白川郷は、もともと寄棟茅葺屋根が主流だったが、
江戸時代に入り、養蚕業が盛んになると、白川郷では 養蚕スペースを設けるために、
家の構造を三層や四層にして、切妻合掌造りが誕生した、という。 」
頂上には駐車場があり、観光バスはかならず立ち寄る。
ここからの冬の雪が積もった集落が特に人気があり、小生も写真撮影会で訪れたことがある。
その先の小さな公園の松林の中に「ここは萩町城跡(城跡公園)です」の立札があった。
近くに、「萩町城址」の標柱が建っていて、説明板もあった。
説明板
「 築城年代は未詳ですが、
南北朝の頃、南朝の公家達が隠れ住んだ城といわれています。
その後、内ヶ島上野介為氏が信州より入り帰雲城を築城しました。
その時、白川郷に勢力を張っていた正蓮寺(後の照蓮寺)を攻め、
萩の白川郷を掌中にしました。
内ヶ島の家臣山下大和守氏勝が萩町城を代々の居城としました。
城主氏勝は力が優れ強弓を引いて、
七・八丁距てたヤマミズの木に射ちこんだといわれています。
氏勝は内ヶ島氏の滅亡 の後、徳川家に仕え名古屋城の築城に献策しました。 」
城といっても砦のようなものだったのだろうが、その痕跡は残っていなかった。
萩町城址の下に降りる道を下って行くと、広い道に出た。
その先の左手に大きな合掌造りの建物は、国の重要文化財に指定されている和田家である。
「 萩町合掌集落で最大規模を誇る合掌造りで、 江戸時代には名主や番所役人を 務めるとともに、 白川郷の重要な現金収入源だった焔硝の取引によって栄えたという家柄で、現在も住居として活用しつ つ、一階と二階部分を公開している。 」
九時〜十七時まで見学できるが、300円必要。
中二階にはかっての生活道具が展示されていた。
天井を見ると、材木同志を縄で縛るだけで、合掌造りの家が作られていることが分かった。
小川にかかる小さな橋を二度渡ると、合掌造りの家がある道に出た。
その先、右手の奥まったところにある家は、神田家 で、ここも300円の入館料をとり、
公開している。
「 合掌造りの家が村外に流失していく姿を見た荻町集 落の人達は、
昭和四十六年(1971)、 「 売らない、貸さない、壊さない 」 の三原則を定め、
茅葺屋根の葺き替えに補助金を出したり、民家の外観を壊す改装は行わないようにした。 その後、国道156号線が改良されたことと連動し、
観光を業とするようになったことで、今日のような多くの合掌造りが残った。
茅葺屋根の耐久年数は三十〜五十年で、葺き替え工事には三千万円以上かかるといわれるから大変であるが、それ以上の問題は人手確保である。
葺き替え工事には数百人もの人手が必要なので、村中が協力して役割を分担し、
共同で屋根葺き 作業を行うのが結という組織である。
集落の人口が減ると結が結成できなくなる。
そうして消えていった集落もあるので、深刻な問題のようである。 」
十二年振りに訪れたが、若い人が民宿やお店をやっているようなので、
白川郷は心配ないのかもしれない。
ここから先は、おだんご屋、民宿、飲食店などを営んで多くの合掌造りの家が残っていた。
せせらぎ公園に戻り、駐車させていただいた、蕎麦処脇本でざる蕎麦を食べ、
白川郷を跡にした。
名古屋駅からJR特急ワイドビューひだで2時間半高山駅下車、
高山駅から高速バスで約50分白川郷バスターミナル下車すぐ
名古屋駅から徒歩5分の名鉄バスセンターから高速バスで約2時間30分
白川郷バスターミナル下車すぐ
北陸自動車道白川郷ICから国道156号で約5分
東海北陸自動車道荘川ICより国道158号、156号で45分
帰雲城趾
荻町集落をあとにして、国道156号を走り、荘川IC方面に向かう。
トンネルをくぐると、その奥には真っ白な雪を被った山が見えた。
なお、右に上って行く道は白山スパー林道である。
このあたりは大牧で、国道は白川街道と呼ばれている。
道の左側に展開するのは鳩谷ダムであるが、十分も走らないうちにダムは終わる。
左側に荘川生コンのサイロが 建っているところに、帰雲城(かえりくもじょう)埋没地の案内看板があるので、左折して車を止めた。
そこには、「帰雲城趾」の大きな石碑と常夜燈、それを説明する石碑があった。
説明碑
「 帰雲城は寛正の初め(1460年頃) 、内ヶ島上野介為氏によって築かれた城である。 四代氏理の時代 天正十三年(1585)の旧暦十一月二十九日に、
東海・北陸・近畿に及ぶ広範な地域を襲った巨大地震により、
帰雲山に大崩壊が起こり 帰雲城とその城集落が一瞬にして埋没したと伝えられている。 埋没前の帰雲城の位置は確認されていないが、
地勢、堆積 土砂等からしてこの周辺地域と推定される。
平成十一年六月 白川村 」
ここは白川村保木脇(ほきわき)というところで、
御母衣ダムからの水が流れる庄川があるが、水はほとんどなかった。
「帰雲城趾」の石碑の左側に、「 ここから姫の横顔が見えます 」という小さな案内板があったが、そこからは帰雲山の崩壊した地形がはっきり見えた。
大きな窪みになった崩壊跡は四百年経った今日でもしっかりした形で残っていた。
「 内ヶ島氏は鉱山経営に成功し、 足利氏の金閣寺造営に金を奉納したといわれるが、 金森長近の飛騨侵入により、その地位が 危うくなった。 天正十三年(1585)の閏八月、金森軍は、飛騨の領主、三木自綱の本城の松倉城を落とし、飛騨を平定した。 このとき、白川郷の領主で帰雲城城主、内ヶ島氏理は、佐々成政側についていたが、金森長近のもとへ赴き、帰順を願い出、飛騨の領主でだた一人許されたのは、 鉱山経営にあったのではと思われる。 その内ヶ島氏が許されて帰雲城に帰還したわずか三ヵ月後に、 大地震で滅亡してしまったのである。 」
石碑の反対側の小高いところに、地元の有志が祀った帰雲神社があった。
JR高山本線高山駅下車、高山濃飛バスセンターから白川郷線に乗り、
保木脇バス停下車
東海北陸自動車道白川郷ICから15分 荘川ICから35分
国道156号沿いに帰雲城跡駐車場(無料)あり