mrmaxの城めぐり 岐阜県9 (墨俣城)
墨俣城は織田信長が美濃侵攻にあたり、斎藤氏の守る拠点を攻めるため、
洲股に足がかりの砦(城)を築くことを計画し、
木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉(豊臣秀吉)が一夜で築いたとされる城である。
墨俣城
大垣市墨俣町墨俣の長良川西岸の犀川に「太閤出世橋」と書かれた石碑があり、その先に天守閣が見える。
橋を渡った先には豊臣秀吉の銅像とひょうたん、その先に大垣城を模した模擬天守が建っている。
これは町村合併の前に墨俣町が墨俣一夜城歴史資料館として建築したもので、史実上の外観とは異なる。
「 長良川西岸の洲股(墨俣)は、江戸時代以前は木曽川、長良川、揖斐川の三川が合流する交通上・戦略上の要地で、
戦国時代以前からしばしば合戦の舞台となっていた。
織田信長は美濃侵攻にあたり、斎藤氏の守る拠点を攻めるため、洲股に足がかりの砦(城)を築くことを計画し、
当時の名は木下藤吉郎、のちの羽柴秀吉・豊臣秀吉が一夜で築いたとされるのが墨俣城である。
木下藤吉郎の墨俣城は、太閤記、日本外史、新撰美濃志等、多くの文献に見られるが、
その概略を推測される範囲でしかない。 」
昭和五十二年、愛知県江南市文化財保護委員滝善義氏により、紹介された、同市前野の旧家吉田龍雲家所蔵の前野家古文書は
企画、準備、押出、戦略、構築等の状況が具体的に記録され、一夜城の謎を解明する新しい史料として注目され、
墨俣一夜城歴史資料館は、これに基づき展示を行っている。
それによると、 「 資材を墨俣に運ぶ押出勢子数は二千百四十人余、御大将は木下藤吉郎、
足軽鉄砲隊七十五人、
蜂須賀彦右衛門百三十三人、大工棟梁衆二十六人、草井舟頭衆四十八人、犬山舟頭衆七十五人、
前野小右衛門三百十二人、日比野六太夫二百五十人、稲田大炊介六百五十六人、山方衆五百六十五人との内容を鉄砲隊
青山新七に伝えている。
また、築城については高櫓(高さ三間半、二階)五棟、平櫓(高さ二間半平屋長屋)三棟、土居(高さ一間、長さは二五〇間)、
高塀(高さ五尺長さは一三八間)、馬柵(高さ一間長さ千八百間)、井戸二ヶ所、堀(川水を引き入れて深さ一間半、巾二間、
長さは三百六十間)、殿様屋敷一ヶ所(横三間半、奥行二間半)、とあり、棟梁十名、下職是は山方衆が受ける。
木戸は二ヶ所で、大手一、搦め手一、という内容を蜂須賀彦右衛門に永禄九年七月三日付けで伝えていて、
同年九月十二日昼は馬柵、夜は築城工事を戦いつつ進め、九月十五日は完成し、織田信長が入城した。 」 とある。
これがいわゆる墨俣一夜城であるが、不明な点が多く、本当のことははっきりしないようである。
現在、墨俣城跡の北西側は一夜城跡として公園に整備されている。
また、公園内にある白鬚神社には境内社として
模擬天守閣が築かれたさいに分祀された豊国神社があり、豊臣秀吉が祀られている。
天正年間以降、木曽三川の流れが変わり、城の機能を果たせず廃城になったようである。
江戸時代には、東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ美濃路の墨俣宿として繁昌したようである。
「 起宿から二里十七町、大名の定宿として本陣、脇本陣、宿立人馬の継立を業務とする問屋や墨俣渡しの渡船場があり、
宿場の長さは七町七間、享和二年(1802)の宿場の家数二百六十三軒、人口は千二百十八人だった。 」 とある。
満福寺熊谷堂の脇にある「墨俣本陣跡」の石碑には、 「 慶長年間にこの地に本陣が置かれ、
初代沢井丸市郎正賢、その後沢井彦四郎を名乗り、明治に至るまで十三代続いた。 」 とある。
墨俣城へはJR大垣駅から名阪近鉄バスで墨俣下車、徒歩約20分
戻る(城跡めぐり表紙)
(MR.MAXの世界)へ
|